Deep Desire
新月、と名を冠された、光明を一糸まとわぬ月は罪人たちの都を闇の中に置き去りにしていた。
だが、聖都は――地下都市ウィングールの真上、水晶木によって支えられた繊細にして荘厳たる“聖女”の居城は――抱き込むような闇をやんわりと退け、淡いながらも光り輝いている。この城は月の冴え冴えとした加護が望めぬ夜であっても天上に広がる星海からの声なき囁きを集め、常と変わらぬ神秘性でその身を飾っていた。
城の主もまた、彼女以外の何者も座すること能《あた》わぬ場所にて星明かりを浴び、文字通り「輝いて」いた。敬愛の代名詞たる尊称、“聖女”の名にふさわしく。
人によっては衝動的に額《ぬか》ずいてしまうかもしれないその光景を前に、しかし、ファラリスは少しばかり目を細め、跪《ひざまず》く気配を微塵も見せずに段上の女人を凝視していた。
未だ少女と呼ばれる年齢であってもファラリスは“御使《みつか》い”……礼を取る必要があるのは三族の長と“聖女”のみだ。白い衣とそこに散らばせた宝玉によって外界からの刺激をあたかも己が発したかのように演出させている名ばかりの“聖女”に対し、ファラリスが恭しく頭を垂れることなどありえなかった。
「……いつまでそうしていらっしゃるおつもりでしょうか?」
細やかな、それでも凛としたファラリスの声は森閑とした部屋の中に響き渡った。
静穏《せいおん》そのものの口調に責める色はない。偽りの光と女王を、ひた、と見つめる双眸には憐れみの翳すらちらつく。
光輝たる“聖女”はというと、胡乱《うろん》に宙を見据え続けているだけである。ファラリスの悲嘆に怒りも悲しみも見せぬ……投げかけられた問いの余韻が静寂《しじま》に飲みこまれようとも。
薄紅色の唇から嘆きをこぼし、ファラリスは視線を移す。澄んだ湖面を想起させる瞳が向けられた先は、病的に白い“聖女”の手が握る杖だ。
人の背丈以上あるその杖は、途中で3つに枝分かれし、蔦《つた》のように絡み合いながら先端でまた1つになるという奇妙な形状をしていた。それが“聖女”を象徴するものであることは3本の蔦を3族と置き換えれば想像に難くない。が、杖が“聖女”の力を引き出す最良にして最強の媒体であることは、限られた者しか知りえない話である。
稀に勘良く気づく者もいる。金の将軍などはまさにその筆頭例であろう。しかしながら、彼とて所詮は気づいただけのこと、杖自体を封じることはできなかったはずだ。――“聖女”の杖は扱うことも封じることも“聖女”にしかできない代物なのだから。
ファラリスはその杖へと視線を固定させ、ゆっくりと息を吸うと再び話し始めた。
「あなたはいつまでそうやって待ち続けるおつもりなのでしょうか? ただ待ち続けていれば望む朝がやってくる、そんな夢のようなお話を信じてらっしゃるのでしょうか? あなたはお選びになったはず。あの夜、『賢者』一族を突き放したときに」
そこで一旦口を噤《つぐ》むと、少女は目を眇めた。
蒼い瞳がわずかに厳しさに歪む。
「ルキスから聞き及んでおりましょうが、テスィリス姫はご存命でございます。彼女は、ただ前を向いて日々を過ごしていらっしゃる」
ファラリスが言い終わらぬうちに、杖は強烈な光を発した。目が眩むほどの強烈な光を。
「……彼女は、迷うことはあっても、あなたのように囚われてはおりません」
片手をかざし、直視せぬようにしながら、“御使い”の少女は表情1つ変えぬ玉座の主の動揺を見守る。あと数回、反応を見れば杖にどの程度の封縛《いましめ》がなされているかを掴むことができると信じて。
ファラリスの確信は、それを実行するに足りる力が備わったものであった。ゆえに、彼女にとっての誤算といえば、杖のあまりにも強大な反応が聖都兵を呼んでしまったことに違いない。
まるで感情を押し殺すかのごとく徐々に光が息を潜めていくと、合わせたような足音が部屋の外から近づいてきた。
はっきりと落胆のため息をこぼし、ファラリスは振り返った。ルキスが数日にわたって聖都を留守にするなどまたとない絶好の機会ではあるが、これ以上、この“聖女”の間《ま》で好き勝手できようはずもない。感じ取った気配が見当違いでなければ、開け放たれた扉からはティヴィアが入ってくるはずである。
美貌の将軍に忠誠を誓う、厄介な、異国の戦姫が。
「何をしている!」
叱責の声は厳粛な空気を裂き、見えぬ鞭となってファラリスを打った。短い一言には、どうやって部屋を抜け出したのか、どうやってここにやってきたのか、そんな数々の謎への詰問も含まれているようだった。
次期“聖女”は行く手を阻むように左右に広がる聖都兵を見渡す。どの顔も、彼女が誰であるかなど関係ないといった表情をしていた。ルキスによってよく訓練されている、と感心しながら彼女は微笑んで穏やかに返答する。
「ご帰還早々、お勤め、ご苦労様でございます」
「私が聞いているのは……」
そこまで言って、ティヴィアは眉根を寄せた。心なしか青ざめて見えるのは夜陰のせいではないとファラリスにはわかっている。
おそらくティヴィアは、今、突然横たわった沈黙の中で懸命に答えを探しているのだ。出口を求めて迷路を駆けずり回るかのごとく――聖都を留守にしていたことをファラリスが知っている理由を探しているのだ。
“御使い”は、軽やかな明るい笑い声を立て、忙しく瞬きを繰り返すティヴィアに近づいていく。水面に浮かぶ花びらのように広がった衣の裾を引きずりながら、さりとて音も立てず。
「ティヴィア・ジャベルレン」
無垢《む く》な優しさを宿した瞳が深く笑み、女剣士の名を呼んだ――秘した姓を連ねて。
「私は“御使い”。この聖都において知らぬことはございません」
狼狽を面《おもて》に出し、今度こそ明らかに顔を強ばらせたティヴィアにファラリスは厳かに告げた。
他を圧するようなものなど何1つない言葉。だが、ティヴィアが無意識に一歩退くことまで、笑みの下で彼女は予見していた。
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