Deep Desire

【第10章】監獄都市ウィングール

<Vol.6 暗雲>

 地上で傾いた太陽を模して灼熱色を放つ水晶木。
 “天井”という名の土色の空から止むことなく降る大鐘の音。
 昨日、一昨日、一昨昨日《さき おととい》……いつもと変わらぬ「黄昏時」が演出された地下都市の都市城《シティキャッスル》では、しかし、不測の事態が発生していた。
 不機嫌そのものの顔で都市城に戻ってきたカオルを待っていたのは、怯えた様子で横一列に並んだ臣下たちだった。
 よほど鈍い感性の持ち主でなければ「何かがあった」と悟れるだろう。
 彼らが玄関口である広間にてカオルを出迎えることなど稀な話だ。鬱陶しいだけだからやめろ、と命じてある。自分の背後に立つ、連れてこなければならなかった賓客――忌々しいギガの都市長、“真紅のキーファ”だ――に気を配らぬところを見れば、彼を迎え入れるために待っていたようでもない。……不在の間に思いも寄らぬことが起きたと推測するのは難しい話ではなかった。
(どうせ小鳥が逃げたのだろう?)
 言葉にせず、胸の奥でカオルは呟く。
 籠に入れておいたイスエラ産の雌鳥《めどり》が城を空けている隙にいなくなったとしても別に驚くことはなかった。なぜならば、そうなるように聖都から飼い主を呼びつけたのは彼なのだから。
 旧友が何を思って捕まえた鳥をカオルに預けたのかはわからない。しかし、将来におけるラリフとイスエラの関係などカオルにとってはどうでもいいことのうちの1つ……それだけは判然としていたから、面倒ごとに巻き込まれる前に元凶になるやもしれぬものを持ち主に返すことに罪悪感もなければ抵抗もなかった。
(雛が1羽、姿を消しただけだというのにえらい騒ぎだね)
 顔色の悪い臣下らを凝視しながらカオルは嘆息する。大げさな連中だ、と。
 だがしかし、彼の心境は部下の口からもたらされた凶報によって激変した。
「……侵入者だと?」
 告げられた言葉を繰り返せば、目の前に立つ男は震えながら首を縦に振る。不必要なくらい何度も。
 ――転移門《テレポートゲート》から侵入者の可能性あり。ただし、衛兵2人は既に絶命、不審な人物を目撃した者は皆無。
 前置きの長さが嘘のように“ものの数秒”で済まされた報告を頭の中で反芻させて、カオルは薄く笑う。指は腰に佩いた剣の柄に触れていた。
「……で、その不埒者はどこにいる?」
「そ、それが……未だに……」
「僕が留守の間、お前たちは何をしていたんだい?」
「し、侵入者はかなりの手練《て だ》れ……」
「僕は、お前たちが何をしていたのかと聞いているんだ!」
「お兄様!」
 背中越しに制止を促す妹の声が聞えたが、カオルは感情に逆らわず抜き身の刀に血飛沫を上げさせた。
 高音、低音、入り混じった悲鳴が室内に満ちる。
「無能者どもめ!」
 一喝は雷撃ごとく場を駆け、居合わせた者を震え上がらせた。――数名の例外を除き。
「癇癪《かんしゃく》を起こして部下に当たっても仕方あるまい」
 状況にそぐわぬ涼やかな声音にウィングールの都市長は眉根を寄せる。
 誰何《すいか》をなす気は起こらない。代わりに、放つ先を見失った怒りを秘めた眼差しを玲瓏な声の持ち主へと向ける。
「……すべては貴様の差し金か、ルキス」
 緩やかなカーブを描いた階段を優雅な、隙のない動きで下りてくる金の将軍は、カオルの怒気を受けても表情1つ変えなかった。
 まるで彼の周囲だけ別の空気が流れている、そんな風に思わずにはおれないほどの落ち着きを払い、ルキスはカオルの不穏な問いかけに答えを返す。
「私は回りくどいことを好まない」
 それは質問に対する回答とは言えなかった。カオルが求めたのは肯定か否定、どちらかの言である。
 ただし、その曖昧な言葉もルキスが口にすると趣が異なってくる。『賢者』の宙城へ直接乗り込み、その手で一族を滅ぼしたルキスが口にすると……。
 器用に右の眉だけ上げ、剣の切っ先でカオルは床をカツンと叩く。触れれば未だに温もりを持っているであろう血が刀身を滑り落ちて行くが、それよりも先にカオルは続けざまに問うた。
「……ならば、誰の所業だと言うのだ、ルキス」
「さて、な。守備兵が殺されたのは転移門《テレポートゲート》の近くらしいが、それが必ずしも外部からの侵入者の仕業とは言えまい。……狙われているのが誰なのか絞り込めないのであれば、行動を起こした者を特定するなど無理なことだ」
 そこまで言ったところでルキスは一旦口を噤み、「そう思わないか、ギガの都市長?」と付け加えた。
 途端にほぼ全員の視線が沈黙を守り続けていた来訪者に注がれる。
 右手で大仰な剣を柄ごと握っていた男は、二つ名に飾られた“真紅”の双眸で美貌の将軍を凝視した。が、すぐに口端を歪め、首肯の意を込めて大きく頷く。
「そうだな。ここには人の恨みを買っていそうな輩が俺を含めて少なくとも3人はいる」
「誰が本命か、賭けるのも一興かもしれないな」
 もし、ルキスの為人《ひととなり》を多少なりとも知っているティヴィアがこの場にいたならば、彼の発言に何かしらの裏を感じていたことだろう。金の将軍は冗談であろうとも賭け事をしない。彼がそのような表現を口にするときは、結果をある程度予見しているときだ。
 だが、広間にティヴィアはいなかった。そして、今、初めて顔を合わせたキーファがそんなことを知るはずもなかった。
「悪いが、俺は戯紙《カード》以外で賭け事はやらない主義だ」
「歓楽都市の主人ならば戯紙《カード》も桁違いの強さだろう……“機会があれば”手合わせ願いたいものだ」
 キーファは赤い瞳を眇めた。見つめる先、ルキスは女人のごとき形の良い艶やかな唇を品よく曲げて小さく笑んでいる。
(機会があれば、だと?)
 永遠に到来しないだろうが。――ルキスの口ぶりから、キーファはそんなニュアンスを感じ取った。
 何か知っている。
 勘が告げる拠りどころのない確信。
 この男は何か知っている。
 本能の嗅覚が胸の内で鳴らす警鐘。
(何を知っている?)
 キーファはルキスを睨《》める。警戒心も顕わに。
 そんなことで手の内を曝《さら》け出してしまうような相手ではないと彼にもわかってはいたが、案の定、金の将軍はどんな反応も見せなかった。自分とは対照的な、澄んだ湖面を思わせる蒼い瞳を和らげて、それ以上は何も語らぬまま会話の相手をカオルへと彼は切り替えたのだった。
「カオル。ウィングールに災厄を運んできたのが私であるならば、明日には消し去ってあげよう」
 話の矛先を向けられたカオルは、ちょうど剣の血のりを拭き取っていたところであったが手を止めぬままルキスに尋ね返した。
「どういうことだ?」
「いつまでも聖都を空けるわけにはいかない、明日には聖女様の元に戻るということだよ」
「……急な話だな」
「無くした物を見つけたのだ、忘れぬうちに元の場所に戻しておかねばなるまい」
「ほぅ……金の将軍の無くし物、か」
 一体何なのか、とウィングールの都市長は訊かぬ。
 不自然に思いながらも、2人の会話に割り込む余地など見出せぬキーファはその他大勢の者たちと同じく、金髪の剣士たちのやりとりを見守るだけだった。
 夜を知らせる鐘の音はなく、いつの間にか水を打ったような静けさに包まれていた広間で、カオルが剣を鞘へ収める音が小気味良く響く。
 合図だったわけでもなかろうが、それを機にルキスは踵を返した。やってきた階上へ引き返すつもりらしい。
 豪奢な金髪を掬うようにかきあげ、カオルは金の将軍の背に言葉を投げた。
「ルキス、君にも大事な物があったとは知らなかったよ」
 去るのを止める類のものではなかったが、ルキスの歩みは止まった。
「大事な物?」
 くくっ、と搾り出すような音がひとり言めいた呟きに付随する。
 ルキスの肩が震え出した。小刻みに、段々と大きく。
 彼がなぜ笑っているのかキーファにはわからなかった。訝りつつ、彼に話しかけたカオルを盗み見たが、決して相容れぬであろうウィングールの都市長もキーファと似たりよったりの反応を示している。
「何か勘違いをしているようだな、カオル」
 言って、振り向いたルキスにキーファは目を見張った。
 いや、キーファだけではない。広間に集まった全員が――あのカオルでさえも――ルキスの表情に目を、心を、奪われた。
 凄絶な笑みがそこにはあった。
 美しく、烈しく、底知れぬ恐怖を呼び起こすような笑みがそこにはあった。
「……私は、それが本当に大事な物ならば鎖に繋ぎとめておく。決して手離さない。誰にも渡さない。他の者が触れることさえ許しはしない」
 美貌の主の口調に荒々しさはない。荒々しさはないが、秘した情念の強さに気づかぬ愚鈍な者はいなかった。
 強烈な陽光に中《》てられたかのように、眩暈を覚えた数名が無意識に後退《あとずさ》る。
 それでも、金の将軍は自らの主張を最後まではっきりと言い放った。
「己が命など惜しくない。どんな罪科も恐れない。創世神に唾を吐いてでも離しはしない。失うくらいであれば、粉々に壊してみせる――私にとっての大事な物とはそういうもののことだ」
 反論をなす者はいなかった。
 彼が階上へ姿を消すまで声を発した者は……声を発することができた者は、ついぞいなかった。



 大音響の鐘が沈黙すると、ウィングールは時を置かずして眠りに落ちた。
 ジェフェライトは窓から外を見やったが、光は見当たらなかった。今宵は新月……ハルカの言葉を裏付けるように水晶木は完全に闇と同化している。都市城《シティキャッスル》には灯りがともっているが、その光が彼の元に届くことはない。
 宛《あて》がわれた部屋の中で、ジェフェライトは大きく息を吸うと水平に持った剣に気を送った。
 一瞬のことだった。
 剣は白光を放ち、ジェフェライトの身体に軽い衝撃を送った。
 それで戒めは解けた――今や彼の髪と瞳は元通りの色を取り戻している。
 『剣技』の王子の唇から安堵のため息が零れ落ちる。感覚的に何が変わったというわけではない。大変なのはむしろこれからであり、ホッとするのはまだ早いとわかってはいた。が、正体を隠すというのは思っていた以上に気を張る作業だったと無意識のため息で彼は知った。
(……テスィカさん……)
 先に潜入していると思われるテスィカの消息は未だ知れず。ジェフェライトの擬態が解除されたなかったところを見ると、近くにいるというわけではなさそうだった。
 『賢者』であることが明るみに出て捕らえられたのだろうか?
 不穏当極まりない考えをジェフェライトはすぐに打ち消した。4年もの間、聖都兵から逃れ続けていた彼女は用心深い、おいそれと捕まる愚は犯していないだろう。
 それに、もし、テスィカが虜囚となっているならば、罪人とはいえ外部からウィングールにやってきたジェフェライトをこうも簡単に放し飼いにするとも思えなかった。ましてや、ウィングールにおいて都市城の次に重要な“館”の警備に当たらせることなどしないはずだ。たとえ副都市長であるハルカの宣告があったとしても。
(……テスィカさんは無事だ。だから、今は忘れろ、ジェフェライト。この館の中を探る、そのことだけに集中するんだ)
 自身に説いて、彼は行動を開始した。
(この階は兵しかいない。……1階に行く)
 足音を殺して部屋から出ると、彼は目を閉じる。
 ――廊下の突き当たり、いや、そこから2部屋ほど手前に人の気配があった。制止している人の気配。
 何かしている様子はない。大きくあくびをした。気を緩めているのだと知り、ジェフェライトはすぐさま走り出す。
 気づかれることなく角を曲がり、階段まで一直線となった。
 各階に見張りは1人ずつだと聞いていた。ならば、次に気をかけるのは下だと彼は目を閉じる。
 しかし、邪魔が入った――前触れもなく扉が1つ、ゆっくりと開いたのだ。
「……!」
 ジェフェライトは必死に驚愕を嚥下した。空気が自分の衝撃を誰かに伝えてしまったら、その時点で終わりだ。
 彼は剣を握り締める。心配なのは、うるさいほどの鼓動。落ち着け、とそこへ向かって『剣技』の青年は念じる。
 部屋から出てきたのがどういった人物なのかはわからなかった。だが、痩身の男であることは暗がりに慣れた目でも確かめられた。
 ありがたい、と彼は口内で音もなく呟く。当て身を食らわせた後に支えきれぬ巨体であったならば、何かと面倒なことになると思ったのである。
 屈め気味の体勢になり、扉が閉まる前にジェフェライトは男との間を詰めた。
 声を上げられてはまずい。剣の柄で喉を強打する。
 次いで、鳩尾《みぞおち》。声ならぬ悲鳴が耳を掠めることはなかった。崩れ落ちる男の身体は重く、意識は既にない。
 入り口付近に男をそうっと座らせたところで、彼は何か布団のようなものをかけてあげなくても大丈夫なものかと心配になった。と言っても、部屋の中がどうなっているのかジェフェライトは知らない。
 この、名も知らぬ男が夜気で体調を崩してしまったとしても「運が悪かった」と思ってもらうしかなかった。あのタイミングで部屋から出てこなければ、彼の身には何事も起こらなかったのであろうから。
 気を失っているとはいえ、男に背を見せることなく慎重に部屋を出て、ジェフェライトは扉を閉める。物音を聞きつけた者はおらず、人影はなかった。
(……私は盗賊に向いているのかもしれない)
 『剣技』の王子として堂々と振舞うことを命じられてきた父が見たら何と言うだろうか。誉めることはないだろうが、手際の良さを怪しむかもしれない。その次に、彼の動きがギガ都市長の細かな助言を参考にしたものだと知れば、「ギガには2度と足を踏み入れるな」と激昂の挙句に言い出すかもしれない。
 きっと言い出す。
 ――言い出して欲しかった。
 でも、そんな日はきっと来ない。『剣技』の薬師は深く頭《こうべ》を垂れ、謝罪と共に言っていたのだ。
 『剣技』の族長が言葉を取り戻すことはない、と。
 ジェフェライトは息を吐いた。そうして、『剣技』のことを頭の片隅に追いやる。場を弁《わきま》えろ、と自分を責めた上で。
 彼は剣を抱き、階段へ向かった。
 ……話し声がした。下では2人の人間が起きているらしい。
(2人、か)
 茶色い瞳で虚空を凝視し、青年は思案を始める。一遍に2人を相手にするのは少し難がある。引き剥がし、1人ずつ対応していくのが賢い。
(どうやって引き剥がす? ……いや、交代の相談ならば待てばいいだけの話だ)
 自己との会話を続け、彼は踊り場まで段を下りていく。
 話し声の詳細は掴み取れない。
 階段の近くにはいないと察し、さらに下まで行く。残り数段というところまできて、壁に背を預けながらジェフェライトは聞き耳を立てた。
 驚いたことに、話をしているのは男と女だった。
 そういえば、と今さらながらにジェフェライトは思い出す。この“館”には「選定」の結果、その剣技を認められた者が来ると言われていた。それが男のみであると聞いた覚えはない。
 “館”に入る前も後も男の姿しか見なかったが、優れた剣技を有することについて性別は関係ない。女で腕の立つ罪人がいてもおかしな話ではなかった――想像しにくいが。
 ならば、肉体的に劣る女性の方から、と方針を決めたジェフェライトは次の刹那に固まった。
 一拍置いて、3回瞬きをする。
 その間にも顔が火照っていくのがわかった。
(な……)
 抑え気味の嬌声に心臓が踊る。
 森閑とした中に響く、忍ばせながらも悦に入った艶言《えんげん》。
(な……な……な……)
 すっぱりきっぱり、状況を忘れてジェフェライトは廊下に飛び出した。
「何をやっているんですか、こんなところで!」
 ――時間が止まった。
 言ったジェフェライトも、言われた1組の男女も。
 奇妙な沈黙が彼らの間に横たわった。
 このような場面に遭遇した経験などジェフェライトにはなかったが、闖入者に対して男は常套句とも言える月並みの台詞を彼へと投げてきた。
「な、何って、お前こそ何してるんだよ」
「え……」
 適当な言い訳ができないのはジェフェライトの美点である。がしかし、美点は必ずしもプラスに作用するものではない。時と場合によっては不利益をもたらすものであった。
 動揺の海に溺れているジェフェライトは口をぱくぽくさせるだけで肝心の言葉は発せられず、それは誰の目から見ても怪しかった。もつれ合っていた男女は顔を見合わせ、壁に立てかけてあった剣へと手を伸ばし始める。
 最悪な展開に流れていることを感じながらジェフェライトは慌てて剣を抜こうとした。
 ところが、戦闘が開始されることはなかった。
 回避されたのではなく、始まる前に終止符を打たれたために。
「お前に盗賊じみた真似なんて向いてないのはわかってるけどな、それでも間抜けすぎるぞ、ジェフェライト」
 呆れたような批難は、糸の切れた操り人形のように崩れていく男女の向こう側。
 聞き覚えのある声音にジェフェライトは「まさか」と思った。
 そんなはずはない。
 この場にいるわけがない。
 彼は胸中で否定の語を紡ぐ。
 それでも、『剣技』の血は彼の思い描いた像が間違ったものではないと伝えてきていた。
「お前の狼狽ぶりの方が見ていて恥ずかしかったぞ、俺は」
「ラグ……」
「しっ、声がでかい!」
 闇の彼方から小さな叱責があった。
 ジェフェライトは唇を結び、無言のまま剣を掲げた。そして、ほんの少しだけ鞘から抜き、いま一度《ひとたび》、そこへ気を送る。
 ぼんやりと淡く光った剣は闇の中に佇んだ人影を浮かび上がらせることに成功した。
「ラグレクト、どうしてここに!?」
 空気を振動させる程度の声音で彼は助けてくれた人物の名前を呼ぶ。
 半裸で絡み合った男女をまたいでやってきた青年は、答えるよりも先にジェフェライトの手を触れた。彼はジェフェライトの意思への確認作業を行わず、そこに力を込めて刀身をすべて鞘へと収めた――辺りを照らしていた光が消える。
 同時に、再び闇に没した黒髪の青年は彼に顔を近づけてきた。
 耳朶に囁きが吹き込まれる。
「俺が、1人で大人しくギガで待っている性格だと思ったのか、お前は!」
「けれど……」
「自分が同じ立場になってみろ。お前だって絶対にここに来てるはずだぜ」
 否、と言わせぬ雰囲気があった。
 否、と言えぬ心情にあった。
 言い返せぬ空気を読んで『魔道』の王子は声を立てずに笑った。ただし、それもわずかの間のことで、彼はすぐに声質を落としてジェフェライトに「来い」と命じた。
「妙な部屋を見つけたんだ。お前にも見てもらいたい」
「……どんな部屋ですか?」
「見ればわかる」
 彼は『魔道』らしからぬ俊敏で軽快な動きを見せて廊下を先に進んでいく。周囲を気にかけながら、ジェフェライトも後を追う。
 直進、最初の角を右に、また直進、その次の角をまた右へ――行き着いたのは袋小路。いいや、扉が1つある。
 ジェフェライトは目を凝らす。心なしか、扉は頑丈な作りをしているように思えた。
「……ここは……転移門《テレポートゲート》の?」
「違う。それはまだ見つけてない」
「では、ここは……」
「とりあえず中に入って……」
 不意に、彼の言葉が途切れた。
 理由など聞かずともわかる。ジェフェライトは剣に手をかけ、すぐに振り向いた。
 緊張感が全身を覆う。恐怖を伴って。
 いつからそこにいたのか、わからなかった。どこかに隠れていたのかもしれないし、ずうっと背後に立っていたのかもしれない。わかっていることは、突然、気配を現したということだけ。
「その部屋が気になるとは、なかなかの慧眼だな」
 漆黒の世界にあっても彼の存在感は圧倒的であり眩いくらいであった。
 ジェフェライトの肩が疼く。もう、傷は癒えたはずなのに……。
「――ルキス」
「深夜の散策では、いつ、いかなる時とて、四方への注意を怠ってはならない。これは基本中の基本だ、王子たちよ」 


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