Deep Desire

【第10章】監獄都市ウィングール

<Vol.5 去所>

「なっ……」
 突如斬りかかってきたハルカの兄と、自分を押し退けるようにしてその刃を代わりに受けたキーファリーディング――2人の都市長の戦いは、文字通り、ジェフェライトの眼前で始まった。
 本物の殺気をまとう男同士の剣劇は苛烈さで目を奪う。声帯を封じる困惑を彼が振り払ったのは、自力で冷静になったからではなく、キーファの顎近くが斬られるのを見たからであった。
「――キーファ様!」
「邪魔だ、退いてろ!」
 駆け寄ろうとしていた足は、一喝に気圧《け お》されて思いとは逆の方向へ戻される。
 それとほぼ同時に剣を持つ腕を掴まれ、彼はまるで腕ではなく心臓を掴まれたかのような顔をして傍らを見やった。そこには、先ほどまでジェフェライトが戦っていた「選定」相手――ハルカがいた。
 少女は、赤い双《ふた》つの瞳に感情と呼べる類のものを浮かべてはいなかった。『剣技』の王子を見上げる目は、この闘技場で出会った最初の印象そのままに、ギガでの彼女とは似ても似つかぬ冷めたものだ。ジェフェライトの記憶の中で結ばれる像を打ち砕くように、瞳だけではなく、以前の温かみを失った声音でハルカは告げる。
「キーファの言うとおりよ。邪魔になるわ、離れていましょう」
 年齢に不釣合いな外見と同じように、場にそぐわぬ、落ち着きを払った声。
 ――どうして、それほどまでに冷静でいられるのですか?
 ジェフェライトは眉根を寄せ、ハルカの手を振りほどいた。彼をよく知る者が場に居合わせたならば、驚惶《きょうこう》のあまり硬直したことだろう。相手を傷つける言動を極力控えるジェフェライトには珍しい行動だ。
 本人も、自分らしくない、と頭の片隅で思っていた。さりとて、苛立ちを隠し通すことはできなかった。
 兄と恋人という、欠くことのできぬ存在が、隙あらば相手の息の根を止めようと剣を交えている状況……なのに、少女はまるで動揺していない。その端正な顔は明確に物を語らないが、ゆえに、悟り澄ましたようにも諦めきったようにも見える。それが余計に彼を憤慨させるのだった。
「黙ってみていろ、と言うのですか?」
 あなたが。
 私ではなく、あなたが。
「私は『剣技』の王子です、見ればわかります。あの戦いは、どちらが勝利を収めても無傷でなどいられない……」
 それなのに、何もせずに決着がつくのを見ていろと言うのですか!?
 押し殺し、言葉に紡がずに沈黙した部分で尋ね訊けば、金髪の少女はわずかに目を伏せておかしな答えを返す。
「あの戦いは数分で終わりますわ」と。
 ジェフェライトは睨むように少女を凝視し、言葉から真意を見出そうと懸命になる。
 戦いは数分の後に決着をみる――それは信じがたい予言だ。納得することも安堵することもできぬ、根拠のない話に聞こえる。
 眼前の激闘は、彼女とのやりとりの間も均衡が破られずに続いている。
 ウィングールの都市長が豪奢な金の巻き毛を煌かせ、忙《せわ》しく動くことによって手数でキーファを翻弄している。が、キーファもやられっぱなしではない。並以上の膂力《りょりょく》をもって攻撃回数の少なさを補い、ウィングールの都市長に確実にダメージを与えていた。
 双方の攻めの手法は異なっているものの、己の長所を活かして相手に傷を負わせるという点では同じだ。こうなると決定打が出ている方に軍配が上がりそうなものだが、それが出ていないのだから戦況は変化する兆しなど見せない。結末はわからずとも、時間に比例して生傷が増えることは確実と思える。
(数分で決着がつくなど、到底考えられない)
 希望と願望を込めた予想の台詞……とは思えぬ断固とした口調で彼女は言った。しかし、やはり信じられない。この目は、信じることなど無理だと本能へ訴えている――。
 ジェフェライトは剣の柄を握りなおす。彼らが戦いの火蓋を切って落としたその理由《わ け》は窺い知れぬが、手遅れになる前に戦いを止めよという内心の警告を無視することはできそうもなかった。キーファを、あのように自我を忘れたかのごとく戦うキーファを、“どうにかなる”前に止めなくては……。
 一歩前に進み出、ジェフェライトはタイミングを計る。今度はハルカも腕を掴んだりはしなかった。
 彼女はただ、口を挟んだだけだ。
 嘲笑を孕《はら》んだ言葉を彼の背中越しにかけただけだ。
「耐えられぬから、止めに入ると? ……自信がおありのようだけど、できるのかしら。今のあなたは剣技の力を使えない。あの2人の間に割って入る剣術をあなたは持ってらっしゃって?」
 どうなの、“灰色の”王子様。
 明らかな揶揄《や ゆ》にジェフェライトは一瞬、瞠目する。次いで剣を構えようとしていた腕を下げた。
 反論は出てこない。痛いところを的確に射た台詞に、胸の内で燻《くすぶ》っていた強い感情も吹き飛ばされた。唇を硬く一文字に結び、彼は目を眇める――茶色ではなく、灰色という偽りの色に染め上げた目を。
 『剣技』の能力を発揮させずに、彼らの戦いに立ち入ることが可能かどうか。
 ……答えは、否。不可能。
 ジェフェライトは剣技に頼った戦い方をしてきた覚えはない。特殊な力である剣技を用いずとも、ある程度の相手であれば膝を折らせることもできる。剣技は気力を削る技だ、そうそう多用するものではない、だから……だから、剣技なしでもそこそこならば戦える。
 だが、ウィングールの都市長、キーファリーディング、彼ら2人のレベルは“そこそこ”よりも格段上にある。
 そんなところへ飛び込んで行けば、何が起こるかわからない。“剣技をいつでも使える”場での戦いなど、“剣技を使えぬ”場での戦いに比べれば精神的にも余裕がある。物理的な制約はないが、ウィングールに潜入した主目的を考えれば衆目の面前で自分が『剣技』であることを明かすわけにはいかない――それは意識していることであるため、2つの剣に対して無意識に、反射的に剣技を繰り出してしまう可能性は大いにあった。
「……見ているしかないの」
 幼子に説くような響きに、ジェフェライトは肩を落とす。生理的なものはともかくとして、従わざるをえない発言であることは理解してしまった。
 尽きぬ歓声と剣たちの悲鳴は耳から離れず、胸の奥で創造されたばかりの想いが彼の唇から零れ落ちていく。
「不甲斐ない」
 落胆と口惜しさが掠れさせた呟き。
 驕っていたわけではない。
 3族と呼ばれ、『剣技』の王子と崇められ、“それ”に酔ったことなどない。
 だが、自分は“力”を持っていると思っていた。
 一族の反対など聞かず、『賢者』に出会ったならばその再興に力を貸すと口に出したのも、自分には誰かを助ける“力”があると思っていたからだ。
 それなのに……どうして、自分はこれほどまでに弱いのだろうか。
 これほどまでに、弱さに気づかなかったのだろうか。もっと早く気づかなかったのだろうか。
 こんな風に非力さを突きつけられる前に。『剣技』の民たちを失う前に。
 ――テスィカが自分を置いて監獄都市へ向かったらしいと聞いたとき、激しい衝撃にジェフェライトは立ち眩みを感じた。呼吸することすら苦しかった。
 頼られていない、そんな事実に言葉を失った。
 力になる……そう告げてはいたが、一体いつ、自分は彼女の助けとなっただろうか?
「不甲斐ない」
 握りしめた拳、手の平に食い込む爪の痛みで目頭の熱さを抑える。悔しさを抑え込む。
 そこへ、厳しく命じる声が聞こえてくる。
「顔を上げなさい、ジェフェライトさん」
 優しさなど微塵もない。
 労わる気配など一片もない。
 それどころかむしろ、うつむく彼を詰《なじ》るような、叱りつけるような語調で少女は言ってくる。
「本当に自分のことを不甲斐ないと思うのであれば、目を逸らさず、しっかりと現実を見ること。顔を上げて、起こることのすべてを目に焼き付けること。――そうしなければ変わらない」
「変わら……ない……」
 呆然と、耳に残った言葉をジェフェライトは繰り返す。
「えぇ、そうやって下を向いていたら何も変わらないわ」
 見たくないものから目を背け、ただ己の無力さを嘆いていても変革の時は訪れはしない。
「……あなたはそれでもいいの?」
 問いかけがなされた。
 いや、それは問いかけというものではなかった。訊く方も訊かれる方も、続く言葉がどのようなものであるのかわかっているのだから。
 数十秒間の――「若干」の――沈黙が2人の間に降りた。だが、やがて、『剣技』の王子は無言ながらも顔を上げ、前方へと眼差しを据える。
 その灰色の瞳は、傍らで見守るハルカに清冽《せいれつ》さを、激情と決意を漲《みなぎ》らせた純正の強さを垣間見せた。
 まるで導かれるかのように彼の視線を追い、刃を交える男の一方、大仰に剣を振りかざす想い人を彼女も見つめる。
“待つなよ。奇跡なんて、ロクでもないものを当てにして待つなよ”
 満身創痍で息も絶え絶えだったが、それなのに圧倒させる何かを持った彼の台詞がよみがえる。
“変えたいものは、自分の力で変えればいいんだ”
“……お前は……お前は何も知らないからそんなことを言うのよ! 私は変われない。私は、私以外の者になることはできない。そのように定められてこの世界に生まれてきたのだから!”
“ならば、お前のいう「世界」とやらを壊せばいいだろうが!”
“できない、そんなこと! 許されない、そんなことは!”
“やってもいないうちから否定なんてするな――来い”
“……え?”
“一緒に来い。その「世界」から抜け出して、来い。ありがたくも、この俺が連れ出してやると言ってるんだ!”
 真紅の瞳が柔らかく笑んだのをハルカは今でも覚えている。
 自分と同じ色の目。自分の兄と同じ色の目。
 見慣れていたはずの、血のように赤い2つの目。
 けれども、それが初めて知るようなものに思えたのは、見たこともないものを湛えていたからなのかもしれない。
“ボケっとしてるな。ほら、さっさと手を取れ……俺はもう限界なんだよ”
 彼の胸からは夥《おびただ》しい量の血が流れ出ていた。ハルカがつけた傷が血を流させていた。
 そんな状況なのに、男は殺気を嘘のように消し去って、微笑んで手を差し出してくる。
 ――この手を取れば、抜け出れるのだろうか?
 ふと湧き起こった希望。
 この手を取れば、この世界から抜け出せるのだろうか?
 監獄都市ウィングール――罪と罰で彩られたこの都市から……自分を生み出した、作り出したこの都市から、抜け出せるのだろうか?
“私は、このウィングールの副都市長。この都市に必要とされているの!”
“百まで言わないとわからねぇのか?”
 キーファリーディングは、苦笑しながら舌打ちをした。
 そして、一生消えぬ言葉を彼女の中に刻んだ。
“俺がお前を必要としてやる、って言ってることくらい気づけよな。――受け止めてやるから、この手を、取れ!”
「ハルカさん……あなたはギガに戻るつもりがないのですか?」
 回想に終止符を打ってきた青年に、ハルカは小さく息を吸う。記憶を過去のものとし、我を取り戻すために、小さく息を吸う。
 彼がどうしてそのようなことを尋ねたのかを推察する気にはならなかった。そう思わせることを自分は口にしたのかもしれないし、ギガのときとは別人のような振る舞いからそんな空気を感じ取られたのかもしれないが、彼がそう言うに至った根拠を知ることに意味はないとハルカは思ったのである。
 彼女は、ジェフェライトではなくキーファを見つめながら結んでいた唇を開いた。
 質問には答えず、ただ、己が胸にあるものを伝えるためだけに。
「今の私の使命は、あなたとテスィカさんを“聖都”へ導くことですわ」
 息を飲む気配。
 ジェフェライトへと彼女が身体を向けようとしたが、刹那、都市中にこだまする大鐘の音が行動を遮った。
 闘技場の熱狂は、一瞬にして無へと帰される――歓声はピタリと止んで、水を打ったような静けさの中、鐘の音が狂ったように闘技場へと降ってくる。
 カオルとキーファも距離を置き、共に空を、天井を仰いでいた。ただし、それはハルカの傍にいる『剣技』の王子とは違い、何が起こったのかを理解しての仰視だ。
 周囲をゆるりと見回してから彼女は声を張り上げた。
「双方、剣を引くがよろしかろう。集まった者たちも、各々、散ってゆけ。時の声は告げた――まもなく夜が下りてくる」
 夕陽を浴びた水晶の幹が都市をどこもかしこも赤い色で塗りつぶし、そうして、夜はやってくる。鐘はその刻《とき》を知らせるために鳴っているのだ。
「我が言葉に従わぬ者は剣の露と致す。散れ、罪人たちよ!」
 踵を返し、彼女は入ってきた門へと歩き出す。
 だが、すぐさま背中越しに「待ってください」と言われた。混乱していることが手に取るようにわかる、ジェフェライトの声音。
 長い、きちんとした説明をして欲しいのだろうが、生憎とハルカにはそんな余裕などない。
 あの嫉妬深い兄の面前で長々と会話しては、ジェフェライトに何らかの悪影響が出ることは必至である。
「勇気ある罪人、勝者ジェフィーよ……お前はこのハルカの名の下に“館”の警備を申し付けよう」
 高らかに彼女は宣言した。
 都市城《シティキャッスル》にはテスィカがいる。彼女は『賢者』の力で擬態しているが、それは3族同士が近づけば溶けるものだとハルカは聞き及んでいた。だから、ジェフェライトを都市城《シティキャッスル》に近づけるわけにはいかない。
 とすると、彼を行かせる場所は1つしかない――。
「“館”は聖都への転移門《テレポートゲート》が置かれている場所。心して警備せよ。しかも、今宵は新月だ……光は絶える、気をつけることだな」
 最低限の情報を告げれば、灰色の髪と瞳をした王子は驚愕に目を見開く。
 ハルカは口端をキッと結んだ。そうしなければ冷徹な副都市長を演じきれず、笑みをこぼしてしまいそうだったので。
 だから、胸の内だけで伝えることとした。
 大丈夫、と。
 もうギガに戻ることはないだろう、親しく話す機会はないだろう、けれども、それらと引き換えにしてでも、何を犠牲にしてでも、あなたたちの“聖都”への道を作り上げてあげるから。
 ふと、別の方向から強い視線を感じ、彼女はそちらへと目を向けた。
 一瞬だけ。ほんの、一瞬だけ。
 懐かしさが込み上げてきた。それは、共に過ごした頃ではなく、出会ったあの瞬間を思い起こさせるもの。不思議な、懐かしさ。
 ……元に戻ったのかもしれない。
 長い時間を経て、同じところに帰ってきた。
 同じ距離を置いて立っている。
 元に戻ってしまったのかもしれない。
(そうだとしても……私は確かにあの隣にいた)
 証なんてものはない。もう残ってはいない。
 それは、既に、切り落としてしまった。だから、証なんてものはないけれど――。
(私は、確かにあそこにいた)
 多くのことを知り、覚え、感じ、愛し……「生きて」いた。
(そう、だから、私にもできるはず。私にも、まだ何かを変える力はあるはずよ……)
 キーファ、と彼女は心で男の名前を呼んだ。
 あなたが望んだことを、あなたが私に期待したことを、私は成し遂げてみせる。奇跡なんてロクでもないものを待たず、自分の力で、成し遂げてみせる。見ていてちょうだい、キーファ。ちゃんと、見ていてちょうだい。
 ハルカにとって別離と決意の両方を兼ね備えたものであった。
 空気に触れ、キーファリーディングの耳に届くことはない言葉であった――。



 ウィングールには3つの転移門《テレポートゲート》がある。そのうちの1つ、都市城《シティキャッスル》の転移門を警備していた男は眉をひそめて同僚を見つめた。
 大鐘が夜の到来を告げたばかり。都市はこれから眠りにつくというのに、転移門が鳴動しているのだ。
 外部から誰かがやってくるらしい。
 男は、来訪者あり、の報は受けていなかった。おそらく、同僚もそうだろう。尋ねたいのはこちらだというのに、問うような眼差しが自分に向けられている。
 転移門は事前の知らせなしに動いたりはしない。数日前、都市長の妹君――これがまた、えらい美人な、1度くらいは夜の相手をして欲しい“副都市長”サマだ――が前触れなしの緊急転移でやってはきたが、そんなのは例外中の例外である。なにせ、水晶木の根元にある罪人送呈用の門とは違い、この都市城の“裏門”は地上では隠された場所にある。その上、使用者を限定する特別なものなのだ。
 招かれざる客かもしれない、と彼は剣を鞘から抜く。緊張感が身を包み、気分が高揚していくのが自分でもわかった。模擬戦ではなく、本物の殺し合いができるかもしれない――今となっては遠い昔に思えていた血の滾《たぎ》りがよみがえり、舌で唇を湿らせる。さっきまでは何ともなかったというのに、やけに喉が渇きだした……。
「……俺の獲物だぞ」
 放たれた言葉の主を彼は一瞥する。
 傍ら、門番だった同僚は変貌を遂げている。いるのは、牙を覗かせ、涎《よだれ》を垂らさんばかりに来訪者を迎える1人の罪人。爛々と輝かせた瞳は猛禽《もうきん》類のそれだ。
「お前には、やらねぇぞ」
 粘着質の肌を持つ生き物が地を這うような、奇妙なしゃべり方は警告の匂いが満ちている。わかりつつも気づかぬふりを装い、男は笑った。
「さぁ、な」
 転移門は徐々に光を強くしていく。多角形的空間を作り出していた6枚の石板は、1つずつ順番に光を灯《とも》した。
 片目を細めたが、それでも光源を見やるのは厳しく、最後には目を閉じねばならなかった。焦らされるようで苛つきながらも、男は転移の終わりを待つ。
 さほど間を置かずして光は弾け飛ぶはずだ。石板に囲まれた場所に佇む者が急襲してきたならば迎え撃てるように、と手はしっかりと剣を握った。
 転移の終焉は音もなく訪れる。だが、瞼の裏で閃光がかき消え、何もなかったところに人の気配を感じれば、それの終わりを知ることは意外にも容易い。
 やってきたのは1人だ――信頼するに値する己の内なる声を聞き、彼は目を開ける。どんな用事があってここに来たのかはわからないが、できれば、馬鹿で無謀な賊がいい、と思いながら。
 ウィングールに押し入る者などいようはずもないが、もしも賊ならば、この場で叩き斬ることができる……。
 さて、どんな面だ?
 いかんともしがたい期待に胸を躍らせ、正面を見つめようとした彼は頬に飛んできたものに意識を奪われた。
 ――雨か?
 瞬時に判断し、そして、瞬時にそれを覆す。
 雨のわけがない。ここは地下都市ウィングール、雨など降らない。
 では、一体?
 手の甲で頬を拭いながら、彼は“それ”が飛んできた方向を見やった。
 ……目に映ったのは、赤い色。見覚えのあるモノが赤に混在し、そこで崩れた。分解するように。
 なんだろう。これは、なんだったろう?
 ざっくりと胸元を斬られたような違和感の中で、男は懸命に自分が見たモノの正体を知ろうとする。それが何だったのか知っているはずなのに、はっきりとした答えが出てこない。
「これは……」
「成れの果て」
 答えなど求めぬ独白であったのに、声は脇から降ってわいた。
 見やれば、そこにいるのは1人の少女。未だ己が女であることを知らぬような、青臭い少女であった。
 黝《あおぐろ》い髪が目を惹く。珍しい色の髪。
 この少女は誰だろう。……いつからそこに立っている?
 今度は真に問おうとしたのだが、彼は一言も発しなかった。発せなかった。
 彼の命運は尽きたのだから――彼女が転移してきた刹那に。
「成れの果て、ってわかる? きみのお仲間、ってことだよ」
 不意に風切り音が鼓膜に突き刺さり、彼は振り向く。
 そのときにはもう……刃は目の前に迫っていた。
 ……男の首が宙を舞った。球のように、軽やかに。
 自身の血飛沫で身体を濡らしながら、もはや棒と同じ、意思を持たぬ肉体が斜めに傾く。2体の骸は綺麗に折り重なった。
 凄絶といえる風景を無感情な目に映した少女は、前方の城を凝視する。
 あそこにいるはずだ、キーファ・リーディングが。
 少女は、コウキは、円形の武器を腰に括り、足早に歩を進める。屠った者たちを踏みつけて。



 ――ウィングールは最後の役者を揃え、誰に悟られることもなく終幕を引き寄せていた……。


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