Deep Desire

【第10章】監獄都市ウィングール

<Vol.3 不変>

 涼やかな蒼い瞳は意識を凍結させた。
 テスィカは認識しているはずの現実すべてを瞬時に忘れ去る。それは、自分とルキスとの間に存在している扉であり、部屋に満ちている闇と溶け合った埃くさい空気でもあった。
 宿敵と定めた男の瞳はテスィカを捕らえて離さず、テスィカの意識をも変じさせる。在るはずの距離感を急速に収縮させ、その錯覚をきっかけに同じ状況で出会った過去を彼女の中で反芻《はんすう》させた――炎の中で対峙した過去を。
“……『賢者』の姫よ、直《じき》にこの城は落ちるだろう”
 肌に感じるはずのない熱と痛みを、眼に描かれるはずのない朱色一面の光景を、よみがえった記憶は与えてくる。
 ただ、耳朶はルキスの声以外、何も聞き取りはしない。
 城内のいずこから聞こえてくる絶命の叫び、城が奏でる崩壊の悲鳴……聞いていたはずのそれらは一切聞こえてこなかった。ルキスの玲瓏な声のみが彼女の脳裏に直接響いてくるだけだ。
“今宵、『賢者』は大地に沈む。あなたが剣を手に取ろうとも、落城を食い止めることは叶わぬ”
 美声が告げたのは予言。
 テスィカは彼を睨みすえたが、思いとは裏腹に反駁《はんばく》は一片たりとて口をついて出なかった。
 周囲で踊り狂う炎の熱さに中《》てられたわけではない。一族をことごとく葬った男はこの上もなく憎い、憎いのに……彼が放った言葉が真実を映し出していることは否定できなかった。
 落城は近い。
 あらゆる天災から城を守った防御壁《ホールド》はいつの間にか潰えていた。それは間接的に、誰よりも強い族長が既にこの世にいないことを意味している。
 テスィカは第1位の王位継承者である。だが、力は族長である母に遠く及ばず、また、防御壁《ホールド》の張り方も知らない。
 傾く宙城の軌道、滅びの道を辿る運命。どちらの矯正もテスィカには無理な話だ。だから、認めたくはないのに、認めざるをえない。
 落城は――終焉は近い。
“姫よ、この期に及んで私に手向かってどうするというのだ? 体勢は決した、苦痛への道を選ぶこともなかろう”
 ……ならば、妹の亡骸を置き捨て、同族を見殺しにし、1人助命をせよ、と?
 金の将軍よ、貴様は何ひとつわかってはいない。それを行う者は『賢者』ではなく愚者だ!
 テスィカは勝気に笑む。
 まとわりつこうとする恐怖を払いのけるために、自分が『賢者』でいるために……笑まねばならないのだ。
“3族は皆同じ、か。同族のためともなれば、敵わぬことを悟りつつも戦いに身を投じる……その異常な献身さこそが3族の証なのかもしれぬな……良かろう、剣を構えよ、『賢者』の次期後継者よ”
 ルキスはテスィカを真っ直ぐに見つめながら小さく微笑んだ。
 他を圧するような猛々しさとは無縁だというのに、そこに潜んだ凄みのようなものにテスィカは射すくめられる。
“3族など、私がすべて滅ぼしてみせる”
「あ、あのルキス将軍……」
 無音の世界に突然、野太い男の声が割って入ってくる。それを合図としたかのようにルキスが蒼い目を閉じると、テスィカの意識を縛っていた記憶は一瞬にして現実へ回帰する。
 艶やかに衣を翻《ひるがえ》す舞い手であった炎も、数歩前に佇み自分を見下ろしていた彼の残像も、音を立てず爆ぜて――世界は本来の姿へ再構築された。その速さについていけずに混乱気味のテスィカをよそに、ルキスは彼女へ背を向けて萎縮している男たちへ命じている。
「……用があるのはお前たちではない。その身に赤い花を咲かせたくなければ、今すぐにここから去ることだ」
 穏和な口調に不釣合いな、禍々しさを秘めた言葉。
 男たちは乾いた笑い声を上げながら後退していく。彼らは主人であるカオルを恐れてはいたが、そのカオルと同等――もしくはそれ以上――の強さを持った金の将軍にかかっていく勇気を持ってはいないのだ。
 背中を見せないようにしながら男たちが去っていくと、それを見届けることもなくルキスは部屋へと入っていく。
 ゆっくりと閉じていく扉を何もせずに眺めながら、テスィカはしばし、自分の身に起こったことを確認していた。見てしまった白昼夢を。
 鼓動は耳にうるさく、手にかいた汗も不快だった。
 大きく息を吸い、吐き出して、先ほどまで自分を捕縛していた蒼い瞳を思い描き……はっとしたように彼女は唇を噛みしめた。
 自分が震えていることに気づいてしまったからだった。



 鍵が開く音で、ティヴィアは扉の向こうから誰が現れるのかということだけに注目し始めたようだった。
 それは、展望台《バルコニー》から逃げ出す機会を伺っていたラグレクトにとって、言うまでもなく好都合なことだ。
(さぁ、さっさと出てってくれ)
 心中で願い、彼はティヴィアの行動を見守る。
 常に結っていた髪を本来の色である赤に戻して垂らし、どこぞの大都市に住む富豪の令嬢顔負けの豪奢な衣服に身を包んだ女剣士は、姿格好はどうであっても気配には敏感であろう。彼女の意識の矛先は扉から入ってくる相手にのみ向けられてはいるものの、下手に動けば展望台《バルコニー》にいるラグレクトに気づくはずだ。動けぬことは煩わしいが、今はじっと嵐が過ぎるのを待つように時を重ねるだけしか彼にはできない。
(とりあえず、もっと隠れるのに適した場所に移動しないとな)
 成り行きとはいえ厄介なところにいるものだ、とラグレクトは苦笑した。
 テスィカたちの動向を掴むためには都市城《シティキャッスル》に潜入するのが1番だ。が、いくら都市城内と言えども、展望台《バルコニー》ではさすがに情報収集も無理である。しかも、中にいるのがティヴィアというのが、驚くくらいに不運だ。
(しかし、なんでティヴィアがここにいるんだ?)
 様子を伺う限り、賓客として遇されているように思えるが……。
 首を傾げていたラグレクトであったが、答えは見つからなかった。なぜならば、思考自体が次の刹那に停止させられたからだ。
「ルキス様……!」
 驚愕のために震えながらも、声は矢のような鋭さと速さを持って彼の注目を惹く。
(ルキス!?)
 展望台《バルコニー》にて背を外壁にピタリとつけ、息を殺し、ラグレクトは中を覗き見た。
 茶色い瞳が捕らえたのは、間違いなく金の将軍。偽者などではない、存在感と気配が裏づけを成す。
 ――ティヴィアがいるのであれば、ルキスがやってきてもおかしくはない。当たり前のその可能性にもっと早く着目しても良かっただろう、と己の愚鈍さに舌打ちする。金の将軍に気づかれぬようにするのは、何かと骨が折れるというのに……。
(とにかく、あいつらがここから出て行くのを待つ。これしかないよな)
 見つかるわけにはいかない。
 この都市のどこかにいるテスィカとジェフェライトが不利な状況に陥るきっかけを作ってはいけない。それは、事情を知りつつ後から来た者の、当然の礼儀だ。
 どうか展望台《バルコニー》には出てくるなよ、と祈る気持ちで彼は聞き耳を立てる。水晶木の方から遠鳴りのように聞こえてくる歓声は邪魔だが、どうにもできぬのだから仕方がない。
「どこの淑女かと思ったぞ、ティヴィア」
「ルキス様、これは……」
「やはり私は、お前には赤い髪の方が似合うと思うな」
 何も知らない者が聞けばさりげない褒め言葉だが、ティヴィアにとってみれば心臓に楔を打ち込まむ台詞であっただろう。
(ルキス……知ってたのか?)
 彼女は、髪の色を変えることでルキスを欺き続けてきた。しかし、騙していたはずの相手は「やはり」という言葉を用いて、気づいていたことを平然と告白してきたのである。
 ティヴィアの心情は、絶句している彼女の状況が何よりも克明に物語っていた。
(……甘く見るな、っていうことかよ)
 相手に届かぬことは知りつつ、己に言い聞かせる意味で彼は呟く。
 ルキスという男を侮ってはいけない。あの男は、常にこちらが考えている以上のことを知っている。出し抜くなど生半可なことではない。
「……お前は『剣技』の王子を逃した者からの情報でサラレヤーナに赴いたと聞いていたが……ここはウィングール。不思議な話だ」
「私は……」
「もっとも、サラレヤーナもウィングールもシレフィアンの手が届く場所……不思議でも何でもないと言われればそれまでだな」
 シレフィアン、という名にラグレクトは目を細め、記憶を探ろうとした瞬間に閃くように思い出した。
(――イスエラの宰相!)
 南の隣接国、イスエラの宰相が確かそんな名前だったはずだ。
(……ちょっと待て)
 それに気づいた途端、ラグレクトは惑乱する。
 ルキスは何と言っていた?
 国境近くの街であるサラレヤーナ、聖都直下の秘密都市であるウィングール、どちらもイスエラの宰相の手が届く場所である、と?
 ……イスエラはラリフを狙っている。そんなことは誰でも知っているが、そこまでイスエラの手が伸びていることをラグレクトは知らなかった。
 けれども、ルキスは知っていた。知っていて、野放しにしていたのだ。
(……どういうことだ)
 ルキスは3族を滅ぼそうとしている。これは間違いない。が、南からの脅威を放っておいて『剣技』『魔道』と対するなど計算高い彼のやることとは思えない。
 もしもラグレクトがルキスの立場にあるならば、どの目を出すかわからぬダイスなど卓の上には置かない。転がり方の読めぬものに頼って貨幣《コイン》を積むことなどしない……負うリスクが高すぎる。
(どういうつもりなんだ、ルキス)
 何を考えている?
「……私の素性をご存知なのですね。それから、シレフィアン様のことも」
「彼とは因縁めいた間柄だ」
「私のこともシレフィアン様から?」
「そんなことをあの男が素直に言うと思うか? ……私はそれなりに用心深い。正規に習ったとしか思えぬ剣の型を見て、金の髪と白い肌のもたらした奇跡ですべて納得するほど馬鹿ではないということだ」
「剣の型……」
「お前のそれは、この国のどこにおいても目にすることができないだろう。我流で覚えるには整いすぎていながら、それでいて実践的――平和ばかりが目立つこの国にはそぐわない」
 言われてみれば確かに、ティヴィアの剣術は他の聖都兵とは違っていた。
 とはいえ、そんなことを足がかりにしたルキスの慧眼には舌を巻く。人はルキスの見事なまでの剣術に着目するが、ラグレクトにとってみれば彼の察力と着眼点こそが真に恐れる部分である。
「……ならばなぜ、私をお傍に置いていたのですか、ルキス様」
「お前の力が必要だからに決まっている」
 明快な即答には一点の曇りもなかった。
 内心はともかく、声だけを聞いているラグレクトにはそこから偽りの匂いを感じることはなかった。
「お前にはお前の思惑があるだろうが、私には関係ない。ティヴィアよ、お前がどこの国の人間だろうが、髪の色が何色であろうが、私にはどうでもいい話。――私はただ、お前の力を必要としている。だから、傍に置いている」
 ラグレクトは目を閉じた。
 ルキスは自分の目的を遂行するためにティヴィアを利用する。今までと同じように。
「さぁ、おしゃべりはこのくらいにしておこう。聖都へ帰るぞ、ティヴィア。私はお前を迎えに来たのだ」
 彼が必要としているのは“力”なのであって、他の部分ではない。だから、どれほど尽力したとて、金の将軍の蒼い双眸が特別な意味を抱いてティヴィアを見る日が来るわけではない。
 だが……そんなことなどわかっていながら、ティヴィアは手を取るに違いない。
 抗うことなどできようか? どのような理由であれ、自分が想いを寄せる相手に必要とされているのだ……背を向けることなどできようか?
(惚れた者が負け、か)
 閉じていた目を開けると同時に、彼は部屋の中で頷くティヴィアの声を聞いた。
「可能な限り、このティヴィアのお力をお貸ししましょう。しかし、聖都に戻るのは……」
 彼女が言うことの先を読んでいたのか、最後まで聞くことをルキスはしない。
「シレフィアンの方はこちらで何とかしてみせよう。言ったであろう、私はあの男と知己なのだ、と」
 どういった経緯で知り合ったのか、そこがラグレクトは知りたかった。自分が知っている情報をどれだけつなぎ合わせても、ルキスと隣国の宰相はつながらない。
 ティヴィアも不思議に思っているはずだ、聞いてくれないだろうか。都合よくそんな展開を期待したが、ラグレクト自身、その期待は裏切られることもわかっていた。ルキスがそう簡単に種明かしをするわけがない。彼の性格を考慮すれば聞かぬのが賢い選択肢であり、片腕と称される位置にいる女も触れるべき点と触れざるべき点を解しながら話を先に進めた。
「ならば、聖都に戻るために、まず、この髪の色を何とかして参りましょうか」
「それと服装も、だ。――とりあえずは、私の部屋へ行け。話の続きはそこでだ……ここでは誰が聞いているかわからないからな」
 閃くような感覚でラグレクトは悟った。
 気づかれている、自分がここにいることに……!
 緊張が体内にみなぎっていく。
 気配は殺し続けたつもりだったが、果たしてルキスはいつから気づいていたのだろうか。
 先ほどの話は、自分が聞いているのを前提の上で話されたのか。
「私も後から行こう。先に行け、ティヴィア」
 ルキスの命令は有無を言わせぬものであり、人払いのような雰囲気さえも感じさせる。
 彼の様子を訝っているのか、返答まで僅かに間を空けたティヴィアだが、最終的には言に従って部屋を出て行った。
 足音が扉の閉まる音によって打ち消され、残されたのはルキスとラグレクトの2人だけとなった。
「……盗み聞きとは行儀が悪いな、『魔道』の王子よ」
 怒りなど微塵も孕んでいない淡々とした口調の中に、どのような意図があるかは測れない。
 けれども、もう隠れていることはできそうもない状況だということだけは否定しようもなかった。
 こうなるのであれば、何らかの形で機先を制すべきだった――と、後悔をしつつも彼は意を決する。今さらどうのと言っても事態は変わらないのだ、仕方あるまい。
「……わかっていながら話を始めたそっちが悪いんだろう」
 言い返し、彼はゆっくりとした足取りで中へ入っていった。
 何がおかしいのか、楽しそうな表情のルキスが彼の目に飛び込んでくる。
 腰に佩いた剣はいずれも『剣技』の剣ではない。そこまでを一瞥で確認しつつ、戦闘が始まったときのことを考えて一分の隙も見せまいとラグレクトは気を引き締めた。
「悪いけど、俺を責めるのは筋違いだと思うぜ」
「そうだな、私の失態だな」
 苦笑してルキスは言う。
 本当にそうなのか疑わずにはおれないが……突き詰めることは無理だとラグレクトは早々に判断した。その上で、強引に話題を転じさせる。
「こうして1対1で向かい合うのも久しぶりだな」
「『剣技』の宙城でも飛船でも第三者がいたが……私を追っていた甲斐があったな、王子よ」
 言われた『魔道』の王子は黒い瞳を眇めた。
 ルキスは余裕を持て余しているように見受けられる。腹立たしく思う一方で、相手がそのような態度を見せる理由を考えれば食ってかかることはできそうもなかった。
 彼は腕組みをし、指先で服に縫い付けられた短剣をいつでも抜けるようにしながら、会話を続けた。
「こうやって1対1で話せるのは貴重な機会だ……けど、こんな魔道もロクに使えない都市で念願叶ったって、素直には喜べないね」
「魔道もロクに使えない? ……ここに転移してこれた実力者が言う台詞とも思えないな」
 つられたようにラグレクトも笑みを零した。
 監獄都市ウィングールには、対魔道の結界らしきものが張られている。つまり、それほど力を消費しない魔道であっても、自由に行使するには力を封じた杖が必要になるというわけだ。
 その事実に彼が気づいたのは、ジェフェライトたちの足跡を追って都市近辺まで気づいた頃だった。
 魔道の転移は、空間の歪《ひず》みをつなぎ合わせる作業だ。聖都、3族の宙城、大都市の都市城《シティキャッスル》は、差こそあれどいずれも魔道の転移が行いにくいように結界を――3族の宙城においては防御壁《ホールド》と呼ぶものを――張り巡らしている。しかし、ウィングールのように都市全体に“魔道除け”がなされているのは例外であった。
 鉄線のような強固な結界をすり抜けるには、運やタイミングも大切だが、歪みを見抜き、それをつなぎ合わせる魔道の力が必要となる。自然、結界内への転移には実力が物を言う。『魔道』の第1王子という揺るぎない力の持ち主であるラグレクトにとって、転移できぬ場所は多くはないが、ウィングールは珍しく彼が手こずったところであると明言できた。
「苦労したぜ、ここに来るのは。もっとも、ようやく転移できた場所が展望台《バルコニー》だ、苦労してるっていうのは現在進行形さ」
 無茶を覚悟すれば転移をはじめとした簡単な魔道は使うことができる。けれども、敵の中に飛び込んで、いつぶっ倒れるかわからないことをするほど彼は間抜けではない。
 それに……この都市に張られた結界が、人に拠るものか物に拠るものか、それがわからぬうちは無闇に魔道を使いたくはない。使い方を誤り、魔道が暴発でもしてこの都市の水晶木を壊してしまったら……。
「たとえ魔道が使えぬとて、お前ほどの剣術があれば、ある程度の者たちは相手にできるだろう」
 ある程度は、ね。
 けれど、今、俺の前にいるのは“ある程度”の剣士じゃない。金の将軍と呼ばれる男だ。
 口の中で呟いて、ラグレクトは彼を凝視した。
 美貌の主は無言で視線を受け止めている。堂々と。
 それが不意に既視感を呼び起こし、言葉となって発せられた。
「ルキス……あの日のことを覚えているか?」
 言い切った後で、浮かべていたはずの笑みをいつの間にか拭い去っていた自分に気づく。嘘をつくのは苦手じゃないのに、“あのとき”のことを思い出すと感情はコントロールされることを拒む。
「それは問いかけではなく確認だな、王子よ。――未だ、忘れえぬ記憶だ。『魔道』を甘く見た自分を恥じた日でもあったのだから」
「『魔道』を甘く見た……」
 真似鳥みたいに言葉を繰り返すと、会話の主導権を奪うようにルキスが話し始めた。
「すべての傷が癒えるまで、かなりの時間を要した。大きな誤算だった。……なるほど、私を追うのはそれゆえ、か。あのときの決着を彼の代わりにつけたいということかな?」
「“彼”……」
「名前を覚えていないのが心外のようだな」
 挑発的な言われ方をされたが、ラグレクトが覚えたのは怒りではなく口で表現しきれぬ痛みだった。
 数日前に聞いたヴァルバラントの台詞を彼は思い起こす。
“我は、あれに感謝している”
 『魔道』の族長は“あれ”と称した。ルキスは“彼”と称した。
 ――誰も彼もが名を呼ばない。
 いたというのに……あの世界にいたというのに……確かに存在していたというのに……それが幻影であったかのように言うのは、なぜ?
「……ルキス、お前にとっては覚えている価値もない名前だった、ということか」
「いや、私をあれほど追い詰めた男だ。価値はあろう……私が覚えていたくないだけだ」
 金の将軍は、彼を知る誰もが驚くようなことを言ってのけた。だが、それに関してラグレクトが言及する間を与えはしなかった。
「やめておけ。気持ちはわからないまでもないが、『魔道』の第1王子よ、お前がいかに力を秘めていようとも私には敵わぬ。あの日のことなど、死者のことなど忘れる方が身のためだぞ」
 あろうことかルキスは、父である族長ヴァルバラントと同じことをラグレクトに対して言った。
 それはおそらく、彼らが言うことは誰が見てもスマートな、形よく収まる答えだからだろう。
「死者に振り回されても未来は拓けないというのに……」
 厳かに告げて、ルキスは踵を返す。
 突然の行動にラグレクトは瞠目する。背を向けられるとは思ってもみなかったのだ。
「……逃げるのか、ルキス?」
 彼の驚愕する胸の内を知ってか、ルキスは歩き始めたもののすぐに立ち止まった。そして、肩越しに彼を顧みた。
 そこには、もう、笑みは一片たりとて浮かんでいなかった。冷酷な美貌と呼ばれる美しき面から感情は消失していた。
「安心しろ、お前の決着はいずれ受けて立つ。お前の魔道が使える場所で、な」
「俺は……」
「有利な条件を提示してやろうと言っているのだ、感謝こそすれ不満を述べるのは賢くないぞ。……私はお前とは違うのだ、王子。過去に捕らわれている時間などない」
 突き放すように言い切ってから、ルキスは付け加えた。
「『賢者』と『剣技』を犠牲にする気があるなら、この場で剣を向けるが良かろう」
 今まさに抜こうと思っていた短剣から指を離し、結局、ラグレクトはルキスの後ろ姿を見送った。
 テスィカとジェフェライトの存在にルキスは勘付いている。もしかしたら、動向を完全に把握しているのかもしれない。そう思うと、見送るしかなかった。
 無論、戦っても勝てる可能性は低かった。低かったが……ただ、こうして去るのを見つめている自分はなんとも不甲斐ない。
「いつもいつも、最後は魔道、か……」
 忌々しく思い、捨てたいと願うのはこの血。
 黒い髪と茶色い瞳。
 それなのに、頼るべきものは『魔道』であり、そして、今なお、自分が引きずるものも『魔道』。
 矛盾していることなど、もうずっと前から気づいている。
“ラグレクト、その髪と瞳にかけられた魔道は、一生お前について回る。ただ、その魔道が強いか弱いかは、お前の心次第”
 そう言われたのは遠い昔。
 遠い昔のはずなのに……。
「……『魔道』ね……」
 ラグレクトは笑った。
 歯を食いしばって、笑っていた。


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