Deep Desire

【第9章】再会が呼び込むもの

<Vol.6 暗澹>

 赤く染まった凶刃は、風を切る早さで下から襲いかかってきた。
(……早い!)
 息を飲むことすら許されぬスピードに対し、テスィカは反射的に身を退ける。同時に、鞘から剣を抜き去ることも忘れない。
 ただ反射的に動いただけだが……『賢者』として追われながら、絶えず生きるか死ぬかの瀬戸際で戦いつづけた中で奇《》しくも培われた剣士としての技量なくしては、何もせずに命を落としていたことであろう。――斬り上げようとする禍々しい疾風を己の剣で受け止められたのは、半ば偶然であるが、半ば必然、だ。
 テスィカが柄を持つ両手に力を込めると、押し戻されまいとするカオルの剣がそれに応えてきた。今や、ふた振りの剣は、まるで奥歯で砂でも噛みしめるような不快な和音を部屋いっぱいに奏でている。
「ふぅん……」
 不協和音に眉をひそめることもなく、吐息のような軽い呟きを漏らしたのはカオル。
 力勝負の最中であることを微塵も感じさせぬ彼の声音には余裕が感じられた。見事なまでの金の巻き毛が小刻みに揺れている、その向こう側で一体どんな顔をしているのか……気になって相手の表情を盗み見ようとした刹那、テスィカはバランスを崩しかける。
 しまった。――そう思った時点で自分の反応が完全に遅れてしまっていることに気づかぬほどテスィカは馬鹿ではなかった。
(いなされた……!)
 カオルが小さく剣を振るう。身体を斜めに傾け、真っ向からぶつけていたテスィカの力を流した後に。
 真横にステップを踏んで避けようとしたものの、それは叶わなかった。
 ――右腕の肘の辺りを斬られた。さほど深くはないが。
(……この男)
 左手で傷を抑え、剣を斜めに構えたテスィカは唇を噛みしめる。
(やはり、強い!)
 背筋を冷たいものが駆け上がり、脳内で『賢者』としての本能がにわかに騒ぎ始めた。
 この男は強い。
 魔道を使え、と。
 ……剣のみで太刀打ちできる相手ではないことは明白だ。
 カオルは実力を出し切ってはいないが、自分はそんな彼に対するほどの剣技さえ身につけていない。
 能力差なのか経験差なのか、そこまでは読み取れないものの、明らかに「劣っている」ことだけは目を逸らすこともできぬ現実として把握している。
(だが、『賢者』の力は使えない)
 『賢者』の魔道を使うことはすなわち、正体を明かすことに繋がる。
 ウィングールへ来た目的は、あくまで聖都に侵入すること、だ。カオルに斬り捨てられるわけにはいかないが、この場で黒髪黒目の一族であることが知れてしまえば元も子もない。
 薄ら笑いさえ浮かべ、まともに構えも取っていないカオルを見つめながら、テスィカはじりじりと後退する。間合いを取りつつ、この場を切り抜ける方法を懸命に思案しながら。
(何か……何か、有効な手は……)
 隙を作ったつもりはないが、攻めあぐねている彼女の行動をカオルは待ってくれなかった。
 第2撃は、さきほどとは逆に上からテスィカに押し寄せた。
「……くっ!」
 左手を刀身へと添え、目の高さで剣を水平にすると、テスィカは斬撃を受け止める。十字の形で交差した剣が、また、互いに悲鳴を発した。
 凌ぎを削る激しい音にあたかも共鳴するかのように、彼女の右腕が痛みを増していく。
 もし、剣が真っ二つに斬られたら最後、身体は綺麗に左右へと分裂するだろう。眼前に血で輝く切っ先が迫り、テスィカの恐怖が敢然とそれを拒む。
 その体勢のまま、数十秒が経過したときのことであった。
「……お前……」
 戦っている相手だと認識しづらい柔らかい声音が頭上から降ってきる。そして、鈍い光の向こう側で、赤い瞳がやんわりと歪んだのだ。
「それなりに使えるね」
 目と同じ色をした、いや、それよりももっと艶やかな唇が、緩い三日月を形作る。
(この……男は……)
 1つの単語がテスィカの頭の中に浮かび上がる。
 禍々しい。
 ――危機感が湖面に現れた水泡のように、弾けた。
(危険だ!)
 テスィカは、両手で掲げた剣をそのままにカオルの手と腹を蹴り上げる。効き足で、力の限り。
「なっ……!」
 間違いなく意表をついた行動であった。驚愕を滲ませたカオルの声音が事実を雄弁に物語る。
 テスィカは知らないことであったが、このとき、ルキスと並んでも遜色しないであろう容姿と実力を兼ね備えた都市長は、彼にしては珍しく“相手”との距離を広げた――後退した。
(畳み掛けるなら、今だ)
 カオルの反応は罠かもしれない。だが、たとえ罠であろうとも、この勢いであればそれを壊すこともできるはず……テスィカは自分を信じ込む。
 狙うは、首。
 金の髪に隠された、鎖骨から耳までの首筋。
 懐へ飛び込もうと身を乗り出したタイミングは、絶妙。が、彼女の剣はカオルの身体に掠りもしない。
 腕が思いも寄らぬ方向に引っ張られ、行動は停止を余儀なくされる。
 何が、ではなく、なぜ、という問いかけが状況を解したテスィカの脳内でこだまする。
「ハルカさん……!」
 右腕の傷口を締め付けるように、ハルカの振るった鞭が巻きついている。
 締め上げるような強さはテスィカを睨みつける眼差しの冷たさと同じく、烈しいものを宿す。
 ――ウィングールに来てから覚えた違和感が言いようの無い不安となって胸に迫ってきた。
 違う。私の知っているハルカさんじゃない。
 過ごした時間は短く、知らぬ部分の方が多いはずなのに、直感めいたところでテスィカはそんなことを思った。
「それ以上続けたら、あなたがお兄様に殺されてしまうわ」
 模擬とはいえ、1対1の戦いに割り込んだ非礼を少女は詫びない。
 それがさも当然であるかのような対応を不審に思ったのはテスィカだけではなかった。
「邪魔をしないで欲しいね、ハルカ」
「お兄様。この者の実力を知るだけであるならば、これでも十分なはずでしょう?」
 人当たりが良い、と常々思っていた少女が、にこりともせずに兄へ言い放つ。
 口調は堅くないが、反論を許さぬ響きがそこにはあった。
 眉間に皺を寄せ、しばしの間、カオルはハルカを凝視する。何か言いたげな目色《めいろ》は悲痛とも称せるほどに沈み込み、剣を振るっていた人物とは明らかに違って見えた。
 しかし、ハルカは無言を貫き、表情も変化させない。
 その時点で結末が見えていたと言っても過言ではあるまい。……最終的に折れたのは兄の方だった。
「……わかったよ」
 肩を竦め、彼は仰々しく剣を床に投げた。血染めの剣は、まるではじめからそうなることが決まっていたかのように、己が葬った輩の骸の傍に転がった。
 ――信じられない。
 テスィカは目を丸くしてカオルを見やる。
 戦いの途中に、こうも簡単に剣を手放すなんて……信じられない。
 ハルカの鞭が絡み付いているのはテスィカの右腕だ。剣は、を左手に持ちかえることができる。
 彼らは知らないかもしれないが、テスィカは左手でも多少剣を扱える。
 眼前に佇む、剣に秀でたる都市長相手では、左手の剣技など恐らくは通用しまい。左手で戦おうものなら、ものの数分も持たぬうちに屍と化すことは明白であった。……けれども、油断している丸腰の彼へならば、狙い済ました一撃で痛手を負わせる自信くらいはある。
 両効きではないが、いざというときのために、左手では的確に急所へ打ち込む訓練を積んでいるのだ。
 ハルカもカオルもそんな事情など知るわけがない。
 だが、知っている知らないという次元の話ではないような気がする。
 背を見せることと剣を捨てることは、戦いに身を投じたことのある者ならば、こうも容易く行えない。行うわけがない。
 それでも、現実にカオルは剣を捨てた。
 ハルカはカオルに剣を捨てさせた。
 この兄妹《きょうだい》の立場関係は目に見えるものだけがすべてではないようだ。
「……あなたも剣を鞘に収めなさい」
 告げられた台詞は、もはや、誰から誰のものであるのか確かめずとも理解できる。
 振り返った先で、女王然とした少女がわずかに目を眇めていた。
「あなたはお兄様には敵わないわ。そんな“目”をしても、私は戦いの続きを了承なんてしない」
 テスィカは小さく頷く。
 そんな“目”――遠回しに『賢者』の力なくしては無理だ、と語るハルカに頷く。
 長い問答を必要とせず、ハルカはテスィカの腕から鞭を解き、その一瞬に感じた痛みに少し顔をしかめはしたが、平然とテスィカは剣を鞘へと収めた。
 今や、場の主導権を握った少女は、兄へと向き直って確認も怠らなかった。
「お兄様、この者を私の傍に置くことは了承していただけますわね?」
「……大した入れ込みようだ」
 苦笑交じりにそんな一言を漏らしたが、カオルはハルカの言葉を覆す意思はないようだ。
 髪をかきあげながら、仕方ないね、とまるで自分に言い聞かせるように彼は呟く。
「問題は部屋、かな」
「北の客室は? あそこであれば、私の部屋からもさほど遠くはないはず。――私の部屋が、元の場所のままであれば、の話だけれども」
「お前の部屋はお前がいなくなったときのままだよ。だから、少し手狭かもしれない」
「構いませんわ」
「だが、生憎、僕はお前にあの部屋をあてがうつもりはない。お前は今日から、昼も夜も僕と一緒に暮らすんだ」
 さらりと、だが、断固とした口調でカオルが言う。
 ハルカは一旦、口を開きかけた。しかし、何も言わずに唇を軽く結んだ。
 その様子に、カオルが少しだけ微笑む。
「たとえお前が自分の部屋を使っても、北の客室をそいつに当てるのは無理だよ。だって、ルキスが使っているのだから」
「――ルキスが!?」
 まさか、この場で聞くことになるとは思わなかった名前にテスィカは反応してしまう。
 口に出した後で「しまった」とテスィカは思ったが、ウィングールの都市長は訝りはしなかった。代わりとばかりに、最初、瞬きを数回行い、それから高らかに笑い声を上げたのだ。
「あははは、あの男を“ルキス”呼ばわりするなんて、お前も随分豪胆だね!」
 ラリフ国民はルキスのことを、「ルキス将軍」「金の将軍」「美貌の将軍」と、将軍位をつけて呼ぶことが多い。
 帝国内で将軍の地位にいる者は彼だけではない。主要都市を守る駐留軍の指揮官は総じて将軍と呼ばれる階級である。が、実質的には駐留軍の指揮官は各都市長が兼任しているために、将軍位をつけて呼ばれるのはルキスのみとなっている。だからこそ、彼を忌み嫌う者たちからは影で「将軍様」と皮肉った物言いに興じているのだ。
 テスィカのように、「ルキス」と名前そのものを、どんな意味合いであれ敬称を略して呼ぶことはひどく稀なことに違いない。
 むろん、テスィカが3族のうち『賢者』である――つまり、聖都軍将軍よりも上位階級者である――ということを知ってさえいれば、珍しいことでも何でもないのだが。
「あの男をそんな風に呼ぶ命知らずがこんな近くにいるなんてね……でも、お前、気をつけた方がいいよ。あの男は、強い」
 修飾されていない淡白な表現は、必要以上にカオルの発現の信憑性を高める。
 いや、そんな風に言われなくてもテスィカはルキスの強さを知っている。
 剣をあわせたことがある者なら知らぬはずがない。
 ――あの男の、勝者となりえるどんな可能性さえも否定させるほどの絶対の強さを。
「あの男でなくては、『賢者』を滅ぼせなかっただろうね。『賢者』殺しは、今ではあの男の強さの証明であると共に、存在事由の提示にもなっていることだし」
「……存在事由……?」
 聞き返した自分の言葉が尖《とが》っていたため、テスィカは「はっ」とした。ルキスの行動を肯定するような言い回しに、嫌悪感を隠すことなく出してしまったらしい。
 どうごまかそうかと焦りに心を捕らわれかけたが、幸いなことにカオルは彼女が案じていた部分に目を向けなかった。
「……ねぇ、お前は3族を必要としているのかい? 僕はね、3族なんていようがいまいがどっちだっていいと思ってるんだよ」
 監獄都市の都市長は、両手を広げ、過激にそんなことを発言してみせる。
 口調は軽いが間違いなく本音だとわかるように彼は促されずとも続きを語る。
「あいつらは高見から地上の人間を見下してる。自分たちに劣る連中だ、ってね。――“聖女”様のご加護の下、この帝国内には目立った争いなんてものがない。それから、どっかの国から攻められるなんてことも、まずもってない。なのに3族は、この国を守る存在と敬われ、宙城という居城、“聖女”に次ぐ地位、日々の糧を難なく手に入れているんだ……それって、何かおかしいと思わないかい?」
「日々の糧……?」
「3族の食料は各都市から上納されているんだ。あんな、空中に浮かんでいる城の中で自給自足できるわけがないだろう?」
 テスィカにとって、それは初耳だった。
 正確に言えば、『賢者』の食べ物がどこで作られているのかなど、考えたこともなかった。
 宙城にいた頃は、何を言わずとも決まった時刻に食べ物は出てきたし、地上に降りてきてからは無くした過去のことを思い出さぬように努めてきた。飢餓に陥っているときならば尚更だ。不自由していなかった昔を思い起こすことなど虚しい行為でしかないと自覚をしていたのだから。
「どの都市も3族にはかなりの食料を渡す。都市民の目には触れないように、ね。何かあったときに転移門《テレポートゲート》を通じて助けに来てもらう密約の見返りとして供するんだけど、本当のところは3族の力が怖いから、その牽制のためにそんなことをやってる。強い者には逆らうな、ってね」
「……それではまるで、3族が各都市を力でもって脅迫しているかのようだ……」
 テスィカのひとり言に、カオルは喉の奥で笑った。
「ようだ、じゃない。脅迫してるんだ」
「……そんなことはしていない!」
「言い切れる自信はどこから来るんだか。お前、物分りが悪いよ。3族ってのは、存在が既に脅迫行為そのものなんだ」
 カオルの言葉は、それそのものが凶器だった。
 一拍、テスィカは心臓が止まったかと思った。
 そんな風に言われたことなど、ない。
 滅亡した『賢者』に対して同じように哀しんでいたり、同じようにルキスに憤っている人には会ったことがある。『賢者』が、3族が、マイナス要素であるように語られたことは未だかつてない。
 衝撃に、二の句が次げない。
「よくわからない力を使う、自分たちとは毛色の違う存在なんて、最後の最後には脅威にしかならないんだよ。だから、『賢者』滅亡の折には安堵した者だっていたはずだ……“聖女”様もそうかもね」
「お兄様」
 黙って聞いていたハルカが咎めるように口を挟む。
 口元に拳を当て、沸き起こる笑いをカオルは何とか静めた。それでも、揶揄《や ゆ》するような言葉遣いとは殺せなかったようだ。
「積極的に3族を潰そうって言う奴はいないけれど……地上の人間はルキスを悪し様に罵り、滅びた『賢者』を嘆きはしても、誰ひとりとして言わないよね、『賢者』が生きていたら、って」
「お兄様!」
「滅びてもいい存在だ、って人々が思っていた証拠さ」
 ……証拠?
 滅びてもいい存在だった?
 言葉が体内を駆け巡っていく。否定したい。否定したいのに……何も言えない。
 そう、彼の言うとおり、自分は聞いたことがない。
 『賢者』が生きていたら、という言葉を。
 『賢者』が滅びなければ、という言葉を。
 聞いたことがない……。
「どんな悪行をルキスが重ねたとて、彼が強い限り咎められはしない。ラリフ国民は、自分たちを守ってくれる者であれば、それが3族じゃなくても構わないと思ってる――ラリフが3族を必要としてるんじゃない、3族がラリフを必要としてるんだ。……強くない『賢者』、守る力もない『賢者』よりも、今はルキスの方が必要とされてるのはそういうことだよ」
 言い切って、カオルはテスィカのために用意する部屋について話を戻した。
 しかしながら、テスィカの心はカオルの主張から離れられなかった。
 ルキスに復讐する――そのためにウィングールまでやってきたが、では、ルキスを殺した後、自分はどこに行くのだろう?
 生き残った『賢者』を必要としている者がいるのだろうか?
 たった1人きりの『賢者』を必要としてくれる者がいるのだろうか?
 ルキスを葬った『賢者』など……。
(私は……全てが終わったあと、どこへ行けばいいのだろう……)
 心臓が大きく脈打ち、答えの出ない疑問の中でテスィカは深い闇を見た気がした。


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