Deep Desire

【第9章】再会が呼び込むもの

<Vol.4 始動>

 都市城《シティキャッスル》内の混乱は、さして時間をかけずに収束されていった。
 賭場が休場していたこと、思った以上に目撃者が少なかったことが幸いしたのである。――コウキの姿を目にした者は、サクヤとラグレクトを含めて片手の指の数ほどもいない。
 信頼できる者たち数名に「キーファだった」死体を処理させたサクヤは、部屋にラグレクトと2人きりになってからも、しばらくは黙り込んでいた。机に肘をついた姿勢のままで指を組み合わせ、親指で額をトントンと叩いている彼の表情は、何も物語っていない。考え込んでいるように見え、その一方で、何も考えていないようにも見える。
 ラグレクトは、執務机から離れた場所にある本棚の側面に背を預け、遠巻きに眺めていた。サクヤと、彼のさらされた右腕……そこに残された火傷の痕を。
 焼け爛《ただ》れた皮膚は、彼の秀麗さとはいかにも不釣合いだった。入れ替わり立ち代わり部屋にやってきたギガの者たちが、驚嘆しながら直視に耐えかねるかのように目を背けたのも頷ける。
 ただ、傷は幻影によって作られたものではない。確実に、サクヤの過去にあった現実の爪痕だ。私事を語ることの少ない若き“ギガの頭脳”が、素顔の裏側に隠し通してきた傷なのだ。――「事情を話せ」と語りを促すことは、ラグレクトでも敬遠せなばならなかった。
 彼は茶色の目を閉じ、腕を組み、立ったままの姿勢で「時」が動くのを待った。
 沈黙は、長く続いた。
「……監獄都市ウィングール」
 呟きがラグレクトの鼓膜を震わせたのは、窓から差し込む日差しが室内を鮮やかな橙《だいだい》色へと変えた頃。
 本棚の影に飲み込まれた自分の足元を見つめ、彼は副都市長の言葉を聞いた。
「ギガにやってきた賢者の王女殿とジェフェライト殿がウィングールへ向かおうとしている訳はわかっていた。僕やキーファはウィングールの場所を知っている。けれども、そこへ彼らを連れていこうとは思わなかった……」
 なぜ、と口を挟まずにラグレクトは目を細める。
 彼ら2人が揃ってウィングールを避けるようにした理由など、聞かずとも明白だった。
 わからないことは……疑問に思っているのは、別の部分。
「僕らは、彼らにウィングールの場所だけ教えるつもりでいた。そこまでついていってやるよ、なんて言う気にはなれなかった。ジェフェライト殿は、それでもいい、という雰囲気だったよ。ただ、彼は……『賢者』の王女殿をギガに置いていくつもりだった」
「そうらしいな……俺の服の中に、手紙が入っていた」
 彼は手紙の文面を脳裏で反芻《はんすう》させる。
 ラグレクトとテスィカが『剣技』の宙城に滞在していた数日間に書かれたと思われる手紙は、憎たらしいほどに丁寧な文体ときれいな文字で綴られていた。几帳面な折り目からも、ジェフェライトらしいと思わせる手紙だった――勝手に1人で決め付けて背負うつもりでいるところなど、特に。
「僕もキーファも、ウィングールがどんなところかはある程度知っている。潜入したことがある、って前に言ったよね?」
「あぁ、聞いた」
「だから、ジェフェライト殿が『賢者』の王女殿を連れて行かないという気持ちは、かの都市を見ているからこそ頷けるものであり、支持できるものだった。……でも、『賢者』の王女殿は納得行かなかったんだろう。夜になった頃には、ハルカと共にいなくなっていた」
 本棚から背を離し、ラグレクトは副都市長へと向き直る。
 ハルカがウィングールへ旅立ったと聞いたときから、ラグレクトは首を傾げていた。
 彼女はウィングールを恐れている。面と向かって問うたことはないし、言われたこともないのだが、近づきたくない、と、目で、全身で、訴えている場面に遭遇したことがあった。
 キーファもサクヤも、それを知っていた。ラグレクトでさえわかったことを、ハルカに近しい彼らが察せぬはずはない。そう、わかっていたから、2人はウィングールという都市の話題さえも避けるようにしていたのだ。
 なのに、なぜ、ハルカは監獄都市へと向かったのか……推測の末に導かれた答えを、怜悧な副都市長の眼差しの中でラグレクトは見つける。
「……テスィカがハルカを連れ出した、と?」
 赤髪の青年は、返答しないまま話を続けた。
「日が明けてから、ジェフェライト殿とキーファが彼女たちを追って行った。留守の間、キーファは病褥《びょうじょく》についていることにした。どのくらいで戻ってくるかはわからない」
 ラグレクトは腕組みを解く。年下とも思えぬ落ち着きを払った青年は、ただただ、じいっと上目遣いに彼を見つめてきている。
 その表情は、無い、というよりも、死んでいる、と言った方が的確そうだ。
「……お前は留守番を任された、ってことか」
「違う。代任を買って出た、だよ」
 自主性を強調する背景の心情を読み取り、『魔道』の王子はギガの副都市長に同情のため息をついた。
 黙していた間、彼は一体どれほどの葛藤と戦ったのだろうか?
 当人しか知りえぬことをラグレクトは想像してみる。
 探し求めていた妹と思《おぼ》しき少女の言葉。――「きみと遊んでいる暇はない。ウィングールに行かないと」。
 サクヤは追いかけていきたいに決まっている。生き別れの末の出会いがあのようなものであったからこそ、見失わないように背を追っていきたいに決まっている。
 しかし、彼にはギガがある。
 キーファのいない現在、このギガを統括できる者は彼をおいて他にはいない。
 サクヤたちが、どれほどにギガを愛しているか、よそ者であっても一定の期間ここに滞在したラグレクトはそれを肌で感じ取っていた。
 都市は、人が集まって形成された生活の集合体だ。手を加えなくとも、自然とできあがる。ただし、その都市を育てていくには人の手が必要であり、ギガを「享楽と賭場の都市」と位置付け、安定させ、港湾都市レーレに劣らぬ大都市として築き上げたのはサクヤたちだ。
 少女コウキが妹であるならば、西方都市ギガは息子と言いかえることもできるのではないか。サクヤにとってどちらも掛け替えのないものに違いないということを、ラグレクトは知っている。
(選べるのは1つ……)
 妹との再会を試み、ギガを離れ、ウィングールへ行くか。
 ギガを守り通すことを決め、妹を心から切り離すか。
 彼は選ばなければならなかった。
 そして、結果は「代任を買って出た」という言葉に、自分からここに残るのだとキーファに伝えたと告げる言葉に、表れていた。
「俺が……」
 乾ききってしまった唇を舌でそっと舐め、彼は副都市長へ声をかける。
 彼へと据えられた赤い目。それは人の血の色であり、痛みの色なのだとラグレクトは心のどこかで思った。
「……俺がルキスであれば、お前の妹をキーファにぶつける。キーファの首を取ることができるか否かは、関係ない。キーファの気を、ほんの少しだけ別のところへと逸らせればいい。その短時間のうちに、ギガに向かって聖都兵を送り込む」
 異論も反論も賛同もなかった。
 言っても意味がないことだと頭で理解しながらも、ラグレクトは言わずにはおれない。
「だから、お前の選択は間違っていない」
 おもむろに明晰さで知られる青年は微笑し、窓の外へ、燃えるような赤い陽へと顔を向ける。
「副都市長としては、ね。……ラグレクト」
「なんだ?」
 視線の軌跡をたどるようにして、彼もまた、暮れなずむ西の空に目を眇める。
「ラグレクトは、コウキを殺さずに戦えるかい?」
 水面を撫でる風のように、静かな声。
 静かすぎる問いかけ。
 額へ手をかざし、故意に作った小さな影の下、ラグレクトは揺るぎない声音で返した。
「そのときになってみなければわからない……けれど」
「けれど?」
「殺さない、という約束はできないな」
 俺にも守りたいものがあるから。
 そう言葉にせずとも副都市長はわかったようだった。
 再び訪れた音のない空気の中で、ラグレクトは、網膜に景観を焼き付ける。
 ――夜の帳を押し開いて地上へ昇ったあの光は、一体、いつ、あのように赤く染まったのだろう? 一体、いつ、万物を等しく赤く染め上げるものに変わったのだろう?
 眩しさが、どこか痛い。
 地下都市であるウィングールには、あの斜陽は影を落とさない。
 そう言い聞かせながらも、なぜかラグレクトは、赤く落ちゆく太陽から視線を外すことができずにいた。



 大木の内に抱かれるように、転移門《テレポートゲート》は設置されていた。
 これでは、気づく者もいない。テスィカは感嘆の息を飲む。
 『賢者』宙城が炎にまかれながら崩落する以前より、この、ラリフ帝国の国土を広く覆う森へ近づく者はそうそういなかった。これほどまでして隠さずとも、見つける者もいまい。
(それほどまでに用心するのは、“あれ”のため、か)
 内心で呟き、テスィカは木々の奥深くへ一瞥をくれる。
 足場を完全に喪失させるように不自然に密集した木々の果ては、視界で捉えることが叶わない。だが、その方向に水晶でできた巨木があることを彼女は聞いていた。
 聖都を支える水晶木、その真下にある監獄都市ウィングール。――容易に人を近づけさせるわけにはいかないだろう。
「テスィカさん」
 声をかけられ、テスィカは自分をそこまで連れてきてくれた美女を見やる。
 転移門《テレポートゲート》の石板に跪いていたハルカは、口端をきつく結んだような厳しい表情で彼女を仰いでいた。
「転移の準備、整いましたわ」
「ありがとう」
 礼を言ってから、テスィカはおもむろに顔の前で手を組み合わせるた。
 祈るかのような仕草は意識を集中させるため、だ。
 深呼吸をし、瞼の裏で鮮やかな色を思い描く。そして、それを体現した自分を。
 不意に、ふわりとした温かい風を感じた気がした。それは足元から沸き起こるようであり、それでいて、頭上から降りそそぐようにも感じ取れる。
 身体のすべてが洗われていく、不思議な感覚。
 ――変わる。
 直感に似た心の声で、テスィカは目を開いた。
 驚愕しているハルカの眼差しが最初に映ったものだった。
「……初めて見たわ……」
 徹頭徹尾、テスィカに対して畏まった口調であったはずのハルカが漏らした一言は、おそらく彼女へ向かってかけた言葉ではなかったのだろう。
 『賢者』の王女は苦笑を漏らし、目を細めた。――ハルカと同じ、赤い目を。
「これで大丈夫なはず。私の顔を知る者もいまい」
 聖都兵が追いかけているのは、『賢者』。“滅びたはず”の黒髪黒目の一族。
 その外見的特徴を切り離すことは、ウィングールに潜る絶対条件だ。監獄都市を経て、ルキスのいる聖都へ向かわねばならないのだから。
「……確かに、赤茶の髪と赤い瞳の組み合わせは、ギガにも多く見られます。でも……」
 語尾をわざと消すようにして、ハルカは疑問をぶつけてくる。
 言いたいことはテスィカにもわかっていたので、彼女は首を縦に振った。
 3族の誰かと鉢合わせすれば擬態は解ける。問題は、いつ、どこで、ジェフェライトと行動を共にするかであった。
(……怒っているかな……)
 テスィカは、ギガに置いてきた『剣技』の王子を思い描く。
 柔和な笑みとは裏腹に、彼女のウィングール同行を頑として断っていた王子が怒る姿を見たのはたった1度。
 『剣技』宙城でルキスたちと対したとき。
 あのときのように怒られることを考えると、なんだか悄然とした気持ちになりそうだった。それをテスィカは、懸命に打ち消す。
(ジェフェライトが悪いんだ)
 置いていこうとした。こちらの意思など関係なく。
 寄りかかってもいいというのに。
 『剣技』での、誰にも見せられぬ涙を零したあの夜のように、自分に寄りかかってもいいと言うのに……。
(それとも、ジェフェライト。お前は私のことを、それほど頼りなく思っているのか?)
 安心して身を任せることができないほど不甲斐ないと思われているのだろうか?
 ――あるかもしれないな、とテスィカは思う。
 多くがテスィカに期待し、その期待を裏切られたと感じ、失望のうちに去っていった。
 『剣技』の王子は、もう、見抜いているのかもしれない。
 この王女は“捨てられた者”だ、と。
 誰からも必要とされず、一族滅亡の際にも仲間に入れてもらえなかった者なのだ、と。
(……それでも、それでも私は……)
「テスィカさん」
 呼びかけに、テスィカは目を見張って我に返る。
 転移門《テレポーゲート》は、気づけばすべての石板が淡く発光していた。
「すまない」
 簡単に謝罪し、テスィカは転移門《テレポートゲート》へ足を踏み入れた。
 木の匂いが鼻孔をくすぐり、闇の中で光の渦にいる錯覚を覚える。木の中、という特殊な場所にあるからに違いない。
 ふと、ハルカが立ち去らないのが気になってテスィカは声をかけた。
「ハルカさん、ウィングールに入るのは私だけで十分」
「……そういうわけに行きません。あなたを無事にウィングールの中に潜入させるのが、キーファから私に与えられた命ですから」
 眉をしかめ、テスィカは傍らに立つ年下の美女を凝視した。
 ギガ都市長から与えられた命?
 ……“彼”は、テスィカがウィングールへ向かうと決めたことを知らなかったはずだ。
 何か、おかしい。
 訝りながらも、そういえば、ギガを出てくる寸前にハルカがキーファリーディングの部屋に行ったことを彼女は思い起こした。
 もしかしたら、そこでハルカがキーファリーディングへテスィカの意向を伝え、納得した都市長がハルカに命令を下したのかもしれない。
「ジェフェライト殿と合流する場所などは、ウィングール内で話しましょうか」
「他の罪人に聞かれたら?」
「大丈夫です、その心配は要りません。でも、テスィカさん、ここから先は気をつけて欲しいことがあります」
 徐々に強くなる光の向こうで、ハルカが真摯な眼差しで言ってくる。
 テスィカは、何か、と聞き返す。
「まず、必要以上に他の者と口を利かないこと。罪科へ話が進んだときに厄介ですから。次に、なるべく私の傍から離れないこと。終始、というわけには行きませんが、できうる限り、近くにいてください」
「わかった」
「それともう1つ……私に対して口調を改めてください」
 一瞬、意味がわからずにテスィカは言葉に詰まる。
 理由を聞こうとしたが、刹那、彼女たちは光に包み込まれた。



 肉体があらゆる方向へ牽引されるような柔らかい痛みが生まれる。そして、融解していく感覚。
 意識が、空間の中でスキップを繰り返した。過去、現在、過去、過去、過去、現在……。
 永遠に続くのかと思われる意識の午睡は、突如、光が切り裂かれるかのような激しさを持って打ち破られる。
 足が大地を、唇が大気を感じたかと思った直後、景色が目の前に広がった。
「誰だ!」
 鋭い声が自分たちに向けられたものだというのは一目瞭然。
 槍を構えた男が2人、その切っ先をテスィカたちに向けてきた。
 反応するより早く、その男たちへ向かってハルカが動く。
 彼女は悠然と一歩踏み出し、別人かと思わせる冷然とした声音で言ったのである。
「お前たち、誰に向かってそのような愚劣な問いかけをなしている?」
 男たちは気色ばんで、近づいていったハルカの喉元へ刃をあてがう。
 けれども、白銀の煌きがハルカの白い喉元を抉ることはなかった。
 音を立てず彼女は腰に下げた鞭を奮い、男の手元から槍を落として見せたのである。鮮やかな手際で。
「貴様……っ!」
「だから、誰にそのような無礼な振る舞いをしているのか自覚しろ、と言っている。――私が誰だか知らないのか?」
 一閃。ハルカは手首を返す。
 空気を切り裂く風の音がテスィカの耳朶に流れ込んでくる。それよりも先に、彼女は赤い瞳で見たのだが。
 ハルカが容赦なく、武器を落とした男の頬を鞭で叩くのを。
 痛みから発せられた唸るような短い悲鳴を受けて、男の頬に赤い曲線が生まれ出る。
 歓喜するように鞭が大地で大きく吠えた。それを合図とばかりに、ハルカが言い放つ。
「私の名は、ハルカ。ウィングールの秘書官にして、副都市長。……さぁ、お兄様のところへ案内しなさい」


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