Deep Desire
(この人は、強い)
意識を前方の敵に集中させながらも、ジェフェライトは背後にある存在感に安堵して小さく息を吐く。
年齢はだいぶ違うのだが、まるで族長である父親と共にいる、そんな気持ちにさせられる。負けない、という妙な確信と自信が漲《みなぎ》ってくるのが自分でもわかるのだ。
キーファリーディング……西方都市ギガの都市長にして、かつて、“真紅のキーファ”と恐れられた男。
その名は『剣技』でも有名であった。
剣術に秀でた者の名前は、『剣技』でも当然のように広がっていく。それは、一種の危機感からだ。ありえないと信じつつも、自分たちを脅かす存在になるかもしれない者への警戒を『剣技』は怠らない。大げさすぎる、と一笑に付す時代は終わっていたのだ――聖都の将軍、ルキスの台頭と共に。
かつて、ジェフェライトの姉、エリスはこう言っていた。
「ラリフ国民がどう思っているかは知らないけれど、ルキスに対抗できる剣の使い手となれば、キーファリーディングをおいて他にはいないはず」
無論、その続きには必ずと言っていいほど、「我が一族は元より、3族を除いての話であるけれども」との注釈がついていた。
ジェフェライトは、ギガを出てから、もう何度となく姉の言葉を思い起こしていた。そして、何度となく、声に出さず呟いていた。
キーファリーディングは強い。
ルキスと対抗できるかどうかはわからないが、少なくとも3族である自分以上に強い、と。
「ジェフェライト殿」
合わせた背中の向こう側から、わずかに乱れた呼吸に混ざって自分の名前が呼ばれた。
「はい」
度重なる戦闘で、その短いやりとりの中に込められた意味をジェフェライトは把握できるようになっていた。身じろぎせずに、彼はタイミングを測る。
「僕も、行きます」
いつ、とはどちらも言わなければ、尋ねもしない。が、合図せずとも、ほぼ同時に2人は互いの背から離れた。
刹那、彼らの行動に感化されたのか、雄叫びが森の空間へ放たれた。剣と剣をすり合わせたような居心地の悪い叫び声だ。
ジェフェライトは、眼前に構える“不和の者”の目を見た。黒く丸く大きなそれに、光が差し込んだかのような、きらりと赤い光が走る。
不吉な閃光――攻撃が、来る。
決して多いとはいえないが、地道に積んできた経験が彼に耳打ちをしてきた。
(このまま突っ込んでいくと、至近距離から攻撃を食らう?)
ほんのわずかな間だけ、ジェフェライトは躊躇した。
ただし、それは本当に“ほんのわずかな間だけ”の話である。駆け出した彼の右足が地面を蹴り、次に木の根を踏みしめるまでに、結論は出ていたのだから。
「多傷速斬《たしょうそくざん》!」
ジェフェライトは引かなかった。
倒せる、と判断したからだ。相手が自分に攻撃してくるその前に。
いびつな形をした大きな腕が振りかぶられたが、それよりも数段早く、ジェフェライトの剣が“不和の者”の腕の付け根を一閃した。
剣はそのまま、流れるような動きでもって“不和の者”の胴を凪ぐ。取り立てて力は入れてないが、彼の剣は“不和の者”の上半身と下半身に微妙なズレを生み出した。
軽やかに1歩退き、彼は切片と成り果てて倒れ行く黒い物体を見ていた。作り出した断面部分から、夥《おびただ》しい量の血が噴出する。異臭はないが、ジェフェライトは唇を噛みしめて、目を背けた。反射的に。
『剣技』で死んだ者たちの影がそこにちらついてしまうから……。
敵の命が完全に潰えるまでは目を逸らすな、と何度もキーファに言われていたが、今回も直視できなかった。
そのキーファはどうしているか、と振り返り、ジェフェライトは短い声を発した。
彼は剣の柄を逆手に持ち、力いっぱい投げつける。「『剣技』が剣を手放すときは死を覚悟したときだ」との父の訓戒は、投げた直後に記憶の蓋を押し上げて出てきた――思い出しても手遅れだ。
背後から強襲されるなど考えていなかったのか、ジェフェライトの剣は“不和の者”の右の翼を易々と貫いた。
“キィィィィィ――!”
眩暈《めまい》がしそうな、そして、もはや聞き慣れてしまった、異形の者の絶叫。ジェフェライトは眉を顰める。慣れてしまっても、馴染めない。
キーファも盛大に顔をしかめながら、持っていた剣を振り上げた。
肉を断つ音さえ聞こえそうなほど豪快に、キーファの剣が“不和の者”の首を宙に舞わせる。弾ける果実を思わせるように飛んだ血が、キーファの漆黒の髪を瞳と同色に塗り上げた。
乱暴にこめかみ辺りの血を拭いながら、ギガの都市長は1歩踏み出して“不和の者”へ回し蹴りをする。
頭を失った”不和の者”は、なされるがまま、真横に倒れた。胴が地面にぶつかるより先に、翼が折れる。拉《ひしゃ》げる音響は耳に心地良いわけがない。2人は“不和の者”が影に飲まれて消えるまで、無言の状態で佇んでいた。
「……終わったな」
終止符を表す言葉をキーファが告げる。
首肯して、ジェフェライトは彼に歩み寄ってきた。
「終わりましたね。キーファ様、はい」
袖で血を拭おうとしていたキーファに、ジェフェライトがすかさず布を手渡してくる。
ほとんど汚れてない布を受け取り、キーファは苦笑する。その布は、副都市長にから渡された荷に入っていた。キーファも数枚持っているが、どれも真っ赤に汚れてしまい、使い物にならなくなっている。対して、眼前の『剣技』の王子の布はというと、手渡されたものは、数日間の戦闘が嘘であるかのようにきれいなままなのだ。
キーファが血を拭っている隙に、ジェフェライトは彼の前に転がる剣を拾っていた。さきほど、“不和の者”の翼を貫いた剣だ。
彼はそれを、足場を悪くしている巨大な根と根の間に突き立てる。
「浄化」
淡い光がジェフェライトの手と剣を包み、忌まわしい化け物の血を見えない力で払拭する――剣についた血を消し去る『剣技』の浄化。
身体についた血までは浄化できませんよ、と笑って答えていた『剣技』の王子は、今回も、大した返り血を浴びていなかった。そればかりではない。平常時と変わらぬ穏やかな表情をしており、さほど汗もかいていないときた。
基礎体力は勝っているはずだ、とキーファは思っていた。その上で涼やかな顔を見ると、どうも自分の戦い方は効率が悪いのかもしれない、などと感じてしまう。
戦端が切り開かれた辺りからの自分の行動を脳裏に再生させ、キーファも剣を鞘に収めた。
「助かったぜ、ジェフェライト殿」
「いえ、先ほどの戦闘では私が助けていただきましたから」
青年は茶色い髪を風に弄ばせるように頭を軽く左右に振る。
助けた、と彼は言うが……キーファの中では、「ちょっと手を貸した」程度の話。
皮肉に聞こえてもおかしくない台詞なのだが、この『剣技』の王子が言うとそんな気配は微塵もない。間違いなく、本心からのものなのだとわかる。
(まったく……大したお坊ちゃんだ)
ジェフェライトの剣の能力は、疑いべくもなく、高い。『剣技』という独特の技を使わずとも、戦闘では十分に“使える”腕だ。
最初は、こうではなかった。
ラグレクトを含めた3人で“不和の者”と戦ったとき、「まぁ、それなりによくやるお坊ちゃん」とキーファは評した。
筋は悪くない。茶色い髪と瞳を持ったこの青年は、機敏さと正確さにおいては、最初からキーファより上であった。実戦慣れしていないので、踏み込みのタイミングが狂うときもある――そんな本人の言でさえ、的確だった。
2人でギガを経ってから、すべての主導権はキーファが握っているのだが、“不和の者”との戦闘では、その必要性も徐々に薄れてきつつある。
ジェフェライトは、キーファの指示したとおりに動く。
1度指摘したことは、ほぼ確実に身につけ、次の戦闘ではこちらが言う前に修正してくるため、共闘のための言葉は減る傾向にある。攻勢に出ることも、援護に回ることも、口に出さずとも自分で判断し、行動に移してくるので、キーファも戦闘に集中しやすくなった。
(こいつは、絶対強くなる)
それは、近い将来に見るとわかっている夢のようで、決して外れない予言に酷似した想いだ。
才能と可能性に対する、期待と羨望に他ならない。
ただ、彼は、目の前の青年に嫉妬したりはしなかった。
自分は3族ではない、それに……ジェフェライトがどれほど強くなろうとも、自分が負けることなどない。キーファは、そう考えていた。
なにせ、ジェフェライトはキーファが既に失ったものを捨てられないのだ。それは、優しさ、とも、甘さ、とも言う。
「……それにしても、多いですね」
何が、とは言わなかったが、彼の言わんとしていることは容易く理解でき、キーファは素直に頷いた。
「こんなに化けモンが徘徊してるとは思わなかったな」
「テスィカさんやハルカさんは大丈夫でしょうか」
表情を曇らせるジェフェライトに、キーファは「たぶん」と付け加える。
「ハルカは安全な経路《ルート》を進んでいるだろう」
「安全な経路《ルート》?」
「ウィングールの者にしかわからぬ、安全な道ってもんがあるらしいぜ。本当に安全かどうかは、確かめたことがないけどな」
かつて、監獄都市で意識を失ったキーファは、副都市長とハルカによってギガまで運びこまれた。
後々、副都市長に聞いたのだが、彼らが通ってきた道は、何ら目印となるものがなく、また、人が通れるとは思えないほど、根による大地の起伏が激しかったそうだ。そのくせ、森にいる獣はもとより、“不和の者”や悪行を働く人間たちにも出会わなかった不思議な道だったという話である。
あれはウィングールの者だけが知る道だから、とハルカが一言漏らしたという。
ウィングールへ向かっているなら、ハルカはそこを通っているだろう。『賢者』の王女がどの程度の実力を持っているかはわからないが、女2人で大量の“不和の者”と対するのは分が悪すぎることだけは明白だ。ハルカの言った「安全な経路《ルート》」とやらが実在するのであれば、他の道など選ばず、そこを通っているだろう。
そして、そこを通っているのであれば……ウィングールに入る前に彼女たちを捕まえるのは困難だ。
「……無事でいてくださればいいのですが……」
憂鬱そうにため息をついた王子の肩を軽く叩き、髪と顔の血を拭った布を彼は手渡した。文句も言わずにそれを受け取ったジェフェライトと目が合って、キーファは言葉を探す。
「無事だ、きっと」
ウィングールに入るまでは。
続きを飲み込んで、キーファは再び歩きだした。
「こんなことならば、ラグレクトに手紙など渡さなければ良かったです」
青年が珍しく、愚痴るように、自己の行動を反省した。そういえば、ギガを出てくる直前まで待っていた『魔道』の王子は、今ごろどうしているだろうか、とキーファは想像を巡らせる。
ギガについているならば、副都市長から事情を説明されたはずだ。だが、ラグレクトにはウィングールへ向かう理由がない。そのままギガに留まっているかもしれなかった。
ラグレクトはルキスを追っている。キーファや副都市長はそれを知っていた。本人が打ち明けたからだ、ルキスに関する有用な情報が欲しい、と。
同じように『賢者』の王女やジェフェライトも金の将軍を追っているが、彼らとラグレクトは微妙なところで異なっていた。あの『魔道』の王子は、ただルキスを追っているだけではない、追い詰めようとしているのだ。
現状を知って、彼がウィングールに来るかどうかは非常に怪しい。
ただ……。
(あいつは、変わった)
1人で生きていく方が気楽だと言った青年。
彼は、『賢者』の王女のことを「特別になりうる」と言った。
ラグレクトは変わった。もしかしたら……。
そこまで考えて、キーファは不意にジェフェライトを見やった。何となく、聞きたくなったのだ。
「ジェフェライト殿、万が一、ラグレクトと『賢者』の王女を取り合うことになったらどうする?」
「……えっ?」
虚を突かれたと、反応でもって答えたジェフェライト。思ったとおりだったので、キーファは人の悪い笑みを噛み殺せなかった。大慌てで口元に手をやり、真剣な表情を作ってごまかした。
自分の推測が正しければ――あれは推測なんぞしなくたって、疑いようもないのだけれど――、間違いなく彼は『賢者』の王女を好いているはずだ。ラグレクトを気にも留めず。
ただ、2人の王子が互いにいがみ合い、1人の女性を奪い合う姿は想像に難い。
ラグレクトが『賢者』の少女に本気で思いを寄せているのか、それがわからない。キーファは、ラグレクトがギガに滞在中、まるで何かの鬱憤を晴らすように多くの女性と関係を持った事実を知っていた。統計的に、あの黒髪の青年の好みは、『賢者』の王女からかけ離れているように見えるのだ……あくまで統計的に、だが。
ジェフェライトはというと、何かにつけて「許婚」という単語を用い、本音の部分がキーファにはわからない。ジェフェライトならば、ラグレクトが「譲ってくれ」と言えば引き下がるような気配もあるように思わせる。どうも、少女への情愛よりも、ラグレクトへの友愛の方がキーファには強く印象付けられているせいかもしれない。
真っ向から対立することになったら、彼はどうするのだろうか?
自分と副都市長のように、見てみぬふりでもするだろうか?
ジェフェライトが確認のためかキーファの言葉を繰り返す。
「……取り合う、ですか?」
「奪い合う、って表現でもいいぜ」
「キーファ様は不思議なことをおっしゃいますね。――そんなことは起こりません」
やけに自信たっぷり言うので、キーファは木の根に足を取られかけた。バランスを崩したことを悟らせぬため、幹に手を置いてゆっくりと振り返る。
『剣技』の王子は、冗談で言っているような雰囲気ではない。
彼は、怪訝そうにジェフェライトを凝視した。
「起こらない? なぜ?」
「私はテスィカさんの婚約者だからです」
簡潔にして明瞭。そして、意味不明。
ぽかん、と口を開けて、キーファは眼前の青年が口にした理由を理解しようと努めた。
無理だと決め付ける、諦めるのは早かったけれども。
涼しい表情で穏和な眼差しを向けながら、ジェフェライトはさらに続ける。
「私とテスィカさんは婚約しているのです。ラグレクトは婚約を破棄したのですよ、どうして取り合いになるのですか?」
「どうして、って……」
そう言われるととても困る。
確かに、事実だけを列挙すると、ジェフェライトの言うとおりなのだ。
「ラグレクトが私の不甲斐なさを案じ、テスィカさんを娶《めと》るというのなら、それには及ばぬと申しましょう」
「……ちょっと待ってくれ、ジェフェライト殿。別に結婚が前提じゃなくたって、付き合うなんてことは、ざらにあるだろう?」
「どうしてです? 婚儀を挙げぬのに付き合ってどうするのですか」
たぶん、キーファでなくても彼の疑問を耳にしたら頭を抱えたことだろう。
どうする、などと言われても……。
この王子は、ギガという都市を一体どういう目で見ていたのか、キーファはにわかに不安になった。まさか、と思うが――大きな結婚紹介所のように見ていたと言われても、相手がジェフェライトならば、ありえるか?
とてもじゃないが、キーファは怖くて聞けなかった。
「私は『剣技』の王子です。守ると決めた者は全身全霊で愛し、そして、守ります。『剣技』だとか『賢者』だとか、そんなことは構わずに。ですから、ラグレクトがテスィカさんの身を案じ、私の代わりに彼女を守ろうと言い出すことはありません」
断定の口調には、ジェフェライトの「代わりに守ろうなどと言わせない」という決意の程が垣間見える。
一方の眉尻を逆立てて、キーファは彼の言葉に突っ込んだ。
「それは、義務ってヤツかい、王子様」
「義務?」
「『剣技』の王子としての矜持ってやつかい、王子様」
嫌味のつもりで言ったのだが、ジェフェライトには通じなかったようだ。
彼は素直に首を振って、キーファに切り替えしてきた。
「婚約者を守り、愛することは、誰に強制されることでもない。自然なことです、どうしてそれが『剣技』の王子としての矜持に関わるのですか?」
キーファは息を飲んだ。
だめだ、と心のどこかで自分が1人ごちたのを知る。
――根本的に何かが違う。
論じ合うには、基盤《おおもと》が大きく異なっているように思えた。
もしや、と思いつつ彼は口を開く。
「……『賢者』の王女様のお考えは?」
ジェフェライトが爽やかに微笑む。
「さぁ? ただ、婚約しているのですから、彼女もきっと……」
手でもって無理矢理言葉を遮り、キーファは立て続けに問い掛けた。
「お前さんの周りはそんな感じか?」
「……そんな感じ、とおっしゃいますと?」
「親類縁者その他もろもろ、全部が全部、婚約に従って結婚するのか?」
「キーファ様、さきほども疑問に思ったのですが……地上では、婚約に従わずに結婚する者がいらっしゃるのですか?」
脱力する、とは正にこのことに違いない。
大仰にその場に座り込み、キーファは首をガクリと垂れた。
(通じねぇな……)
決められた恋愛を楽しむ一族に、恋愛がいかに法則を持っていないものかを説くことは不可能に違いない。
彼は疑ってなどいないのだ。
自分が黒髪の少女を守り、愛すのと同等に、少女も自分のことを想ってくれるものなのだ、と。
「……『剣技』にゃ、婚約者以外に惚れるヤツなんていねぇのか?」
「例外は……ございますとも」
言いにくそうにジェフェライトが顔を歪める。一瞬、聞いてはいけないことを聞いたかと、焦るキーファにジェフェライトはいつもの表情に戻った。
そして、もう一度微笑む。
「ただ、相手の婚約者に手を引けと言われたら諦めなくてはなりません」
「なんだよ、そりゃ! 何でも婚約者が優先かよ!」
「え? ……だって、キーファ様。そうでなければ、何のための婚約ですか?」
もはや口を噤むしかなかったキーファは心の奥底で、自分は『剣技』では生きていけないだろうと妙なことを確信した。
大きくため息をついたので、彼はその後のジェフェライトの言葉を聞き取ることはできなかった。
「私は……婚約者という理由を盾にしてでも、彼女を誰にも渡したくはありません」
弱い部分を抱きしめてくれた人だから――。
ジェフェライトの呟きは、彼の内側が変化しつつあることを如実に示していた。何かを盾にする行為自体を『剣技』は唾棄しているのに、彼はそんなことなど忘却の彼方へ置き去りにしていたのだ。無意識に、『剣技』よりもテスィカを選んでいたのである。
結局、キーファはジェフェライトの本音の部分を聞き逃してしまったということに他ならなかった。
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