Deep Desire
宿屋の主人が愛想笑いを浮かべながらも、「私も困っているのですよ」と目で訴えかけてくる。
言いたいことはわかるのだが、同情など露ほども感じぬまま、ティヴィアは男を睨み据えた。
この場に剣があったならば、と感じてしまうのは、このどうにもならない状況に対する苛立ちと、注意を怠った自己への後悔の念に違いない。
イスエラを出る際に、父は言った。決して気を抜くな、と。
「一瞬でも隙を見せたら、お前は死者たちの列に並ぶこととなるだろう。敵地に飛び込むとは、前方だけではない、四方八方に絶えず注意を向けねばならぬのだ。わかるか、ティヴィア?」――厳しい表情で父は彼女に言ってきかせた日のことを、彼女は今も覚えている。
覚えていたが……ラリフでの生活にも慣れ、どこかで気を抜き、物事を甘く見る自分がいたのだろう。
食事に薬を盛られたことにも気づかず、剣は取り上げられ、この部屋に監禁されて一体何日が経ったことか。
早く聖都に戻らねば、とティヴィアは焦る。
明確な理由も伝えずにサラレヤーナに来たのだ。
このままではいけない。
ルキスに勘繰られる。
そして、ルキスに切り捨てられる……。
「お願いでございます、気をお静めください。私はあなた様を逗留させよ、と命じられただけなのです」
揉み手をしながら、見上げるような視線で男はティヴィアに懇願した。磨き上げられているのかと思うくらいに、よく光っている広い額には汗の1つも浮かんでいない。こういった場面に慣れていることが伺えて、ティヴィアは自分が全く恐れられていないことを歯がゆく思う。
ため息をつくと、結っていない、染めてもいない赤い長い髪が肩から滑り落ちた。それが合図であるかのように、ティヴィアは寝台に腰掛ける。
「……もういい。わかった」
「ありがとうございます」
肥えた腹を邪魔そうにしながらも、男はなるべく深く頭を下げる。一瞥して、ティヴィアは窓を見やったが……慌てて去りかけている男を呼び止めた。
「騒ぎは起こさない。だから、教えて欲しい。私をここに繋ぎとめているのは一体誰だ?」
ティヴィアは聖都軍の将軍配下――しかも、あの金の将軍の片腕――である。そして、イスエラ軍将軍ガルトの実妹だ。巨額の金欲しさにイスエラに通じる宿屋の亭主が、彼女のどちらの顔を知っているかはわからない。
しかし、どちらかは確実に知っている……最初に剣を取り上げられたこと、今までの待遇などを見れば、まるで知らないとは思えない。
問題は、男が誰に命じられたのか、だ。
ルキスに畏怖《い ふ》の念を抱き、彼を敵視するラリフの者か。
ガルトを介さずに接触を試みているイスエラの者か。
ティヴィアにとっては大事なことだ。このあとの対応が変わってくる。
「いえ、それは……」
当たり前のように男が言葉を濁し、開けていた扉の向こうへ逃げていこうとする。
ただ、男は部屋から出て行きはしなかった。
扉の向こう側に人が立っていたからである。
「それは、私だよ」
宿屋の男が息を飲んだ。彼だけではない、ティヴィアも言葉を失った。
彼女は、薄汚れた宿屋の廊下に佇む来訪者をまじまじと眺めた。
直接会うのは何年ぶりか? 遠くから、大勢がいる場所で姿を拝したのがイスエラを出るときのことだったはず。こうして直接言葉を交わすのは、何年ぶりだろうか?
頭部を覆う布をゆっくりと解き、透けるように繊細な色をした長髪を彼女の目にさらしながら、その男は、女人のごとき色香さえ漂わせる唇に言葉を乗せた。
「ティヴィア」
遠い記憶の中に眠っていたものを掘り起こされたような響き。
ティヴィアは目を見張って、信じられぬと顔に出しながら彼を見た。
「シレフィアン様……」
「他人行儀だね、ティヴィア。兄上と呼んで差し支えないのに」
目を細め、イスエラの宰相である人――この場にいるはずがないと思われる人は、ティヴィアへ向かって微笑した。
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