Deep Desire

【第8章】傾きゆく世界の調べ

<Vol.6 欲心>

 大地を蛇が這っている。太く、長く、そして硬い、幾匹もの「根」という蛇が。
 自分の体の倍以上は幅がある幹へと手を置き、テスィカは慎重に歩いていく。数刻前が嘘のように、葉の天井を仰ぐ余裕など、今は全く持ち合わせていなかった。
 こめかみに浮かんだ汗が伸びたままの前髪を吸い寄せ、立ち止まることを喚起する。促されるまま歩みを止め、乱暴に腕で髪を退けながら、彼女は前方の美女を見やった。
 昨夜は寝ずの番をしていたはずなのに、ハルカは疲れを微塵も感じさせない足取りで先を行く。正直、華奢なハルカよりも自分の方が進みが遅いなど、思いもよらぬことだった。だから、あまり知られていない道に入ってもいいか、と彼女に尋ねられたとき、「歩き慣れているから大丈夫だ」などと答えたのである。
 テスィカは4年間、聖都兵から逃れるためにラリフ国内を点々とした。歩き慣れている、との返答に偽りはなかった。……「平らな地面」に限定すれば。
 ラグレクトとこの森を彷徨《さまよ》った時を思い出せていれば、現状は変わっていたかもしれない。あのときもそうだったが、テスィカは根の上を上手く歩けないのだ。育った環境のせいなのだろう――『賢者』の宙城には大地から出っ張った根っこどころか、樹木そのものがなかったのだから。
 そう、『賢者』の宙城には木というものが存在していなかった。
 理由は、宙城には「雨」がないからである。
 雲と同じ高度を浮遊しているため、『賢者』の宙城に雨は降らない。族長の命によって――それがどのようなタイミングで、どのような事情を背景に発せられるものか、テスィカは知らなかったのだが――、宙城が雲間に潜ることはあった。しかし、その際には必ず防御壁《ホールド》で外界と宙城を遮断させていたので、彼女は地上での生活を始めるまで雨というものがどんなものかさえ知らなかったくらいである。
 テスィカが最初に遭遇した雨は、短い時間に激しく地面を殴打した雨だった。誰かの強大な魔道かと思い、宿屋の部屋の片隅で、1人、息を殺して外を見ていた――思い返すと、ひどく滑稽だ。
 空から降ってきたものが水であり、それを濾過《ろ か》することで飲料水とする……それを知ったのは、しばらく後のこと。
 『賢者』では、水は石によって創りだされるものだった。創水石《そうすいせき》という、名のとおりの石が城の奥深くで水を生み出していた。
 陥没した穴の底に安置された創水石は、月の光を浴びることにより水を生成する。水面が揺れなければ何もないかのように見える、穴の深度を感じさせない清澄《せいちょう》たる水は、体内に入れる際に濾過など必要としなかった。
 空から降ってくる水を集めて飲むことができる、と耳にしてテスィカは以前のとおり、それをがぶがぶと飲んだ。結果、宿屋で寝込んだのは、彼女にとって人生の汚点とも言える大失敗である。親切な宿屋のおかみさんが「濾過しないで水を飲む馬鹿がいるもんかい!」と自分を叱ったとき、濾《》さなければ飲めないなんて不浄だ、と悪態をついたものだ。腹痛を堪えて、心の中で。
 しかし、濾しさえすれば際限なく使える便利さが考え方を改めさせた。港湾都市レーレを通り、国内を走る幾つもの河川が食べ物にありつけない日には腹を十分膨らませてくれたのである。地上の水は『賢者』のものよりも格段に不味かったが、量は多かった。人間や動物だけではなく、実をつけない、花のように心を癒す術も持ち得ない樹木に命を与えられるほどに。
「それにしても……こいつらは水を飲みすぎだ」
 ごつごつした根を踵で蹴りつけてテスィカは八つ当たりをする。あまり大きな声で言ったつもりはなかったが、ハルカの笑い声がテスィカの耳に入ってきた。
 ……聞かれた。
 やや赤らめた顔を上げ、自分を見つめる年下の――そうとはとても見えないくらい大人びた雰囲気を持つ――女性をテスィカは凝視した。
「少し休みましょうか、テスィカさん」
 明るいうちに歩けるだけ歩いた方がいい、と言っていた本人が予想外のことを口にして彼女の元までやってくる。気遣わせた、と直感で悟ったが、テスィカが口を開く前にハルカは目の前でしゃがみこんだ。
「私も疲れてしまいましたわ。適度に動いたからでしょうか、実は少し眠いんですの」
 まるで秘密を打ち明けるように、長く細く白い指を唇に当ててハルカが言う。
 元気そうだが、目元に疲労の影を見出せなくもない。眉宇を寄せ、ハルカの傍らへ寄ろうとした刹那――テスィカはバランスを崩した。
 寸でのところで、ハルカが支えてくれ、何とか転倒は免れる。
(……これじゃあ、逆じゃないか)
 体調の悪い相手を煩わせる自分を叱責し、テスィカは憎々しげに足元の木の根を睨みつけた。すべてはこいつが悪い、と言わんばかりに、だ。
 意味を汲み取ったハルカがテスィカの代弁をする。
「本当に育ちすぎ、ですわね」
 ゆっくりとテスィカを横に導いたハルカは、「……人に似て強欲だから」とも付け加えた。
 強欲……その響きにテスィカは目を眇める。
 心の中がざわつくほどに、忌々しい音を羅列した言葉。
 沈黙しているテスィカとは対照的に、ハルカは長々と語り始める。
「最初は、ただ生きるだけでよかったはず。それなのに、いつの間にか、多くのものを得ようとした……他者の分まで得るべく四方へ伸ばされた木の根は、強欲たる証。深く大地と結ばれたために、もう、元の姿に、多くを望まなかったころには戻れない……」
 腰を落ち着けている根に手を触れ、ハルカは唇に笑みを刻んだ。蔑んだ笑みを。
 愚かだわ。
 最後に付け加えられた一言は、テスィカの聞き間違えでなければそれだったはず。
 ただ、幻聴かもしれない。
 なぜだろうか、木に対しての言葉には思えなかった……。
「……ギガには」
 暗い微笑みを払拭したくて、テスィカは無理矢理話題を変える。
 何を話せばいいのか、まるでわからなかったが……昨日は自分が『賢者』での生活について少し話した。だから、今日はハルカにギガのことを話してもらうことにする。
「花がありますか?」
 それが間抜けな質問であることは、言い切った後で本人が察する。
 花があるか、だと? ――あるに決まっている。
 心を癒す色彩豊な植物が置かれていない都市や街など、見つける方が困難だ。南の国、イスエラにある砂漠地帯では真っ当な問いかけになるが……享楽と賭博の都市として観光客が多いギガに「花はあるか?」と問うのは、おそらく自分以外にはいまい。
 人間の「花」さえ数多く用意しているのだ、ギガという都市は。
「もう少し日にちが過ぎると、色とりどりの花が咲きます。赤や黄色、紫、それから青緑……都市城を囲むようにして、たくさんの花が咲くのですよ」
 どこか遠いところを見るような素振りで、ハルカが語る言葉にテスィカは、想像の翼を広げる。
 何の花なのか種類を聞いていないからか、『賢者』宙城での花々の様子が真っ先に脳裏に浮かんだ。
 幻想の中の芳香が甘く切ない記憶と共に心を刺激する。
 軽く頭を左右に振り、テスィカはそれを打ち消した。百花繚乱、咲き乱れる花を思い浮かべると、それは最後に炎に包まれた情景にとって変わるだけだからだ。
 『賢者』でのすべての情景は、必ず業火に包まれたものへ帰結する。
「キーファは面倒くさがりだから、花に水をやらないのです。彼はいつもそう。花を植えるのは手伝うのです。物珍しがって、最初は水やりも手伝うのですが……1度花が咲いてしまえば、飽きてしまうのですよ」
「……じゃあ、ハルカさんが花に水を?」
「私だけじゃありませんよ。副都市長も手伝ってくれます」
 言葉を交わした回数どころか、それほど顔を合わせていない赤い髪の青年は、花に興味があるように見受けられなかった。どちらかというと、無機的なものを好みそうに思える。苗を大事に植えている姿よりも、薄暗い部屋で埃まみれの書物を漁っている方が似合っているくらい。
 もっとも、人の好みなどそう簡単に推し測れるものではない。
 疑問を察したのか、ハルカが、ふふ、と小さく笑う。
「副都市長は、私を手伝ってくれただけです。彼は、私のことを気にかけてくれるのです、いつも」
 たとえば、と披露された複数のエピソードにテスィカは「へぇ」と声を上げる。
(人は見かけによらない、か)
 嘘か本当かはわからないが、語るハルカの目に宿っている優しさはテスィカを信じさせるのに十分だ。
「彼は、私のことを好いていてくれました。最初の頃に、言われたことがありました。君は妹に似ている、と。しっかりしてそうで、どこか危なっかしいところなんてそっくりだ、と」
 ハルカのどこが、危なっかしいのだろうか? とテスィカは首を傾げてしまう。
 自分よりよほどしっかりしているが……普段は見えないけれども危なっかしく思う人というのは確かにいるものだから、きっとそうなのだろう。ジェフェライトの顔を浮かべながら、テスィカは話に意識を戻した。
「彼は、とても妹思いなんです。彼の、妹に対する想いを聞くと、再会させたくなってしまいますわ」
「再会?」
「副都市長は、もう長い間、行方知れずになった妹を探しているのです。名は、確か……」
 一旦、唇と目を閉じた。開けるまでにそれほど時間はかからなかったが。
「コウキだったかしら?」
「コウキ?」
 口の中で呟くように音を発し、テスィカは記憶を巡らせる。
 胸の奥で何かがざわついた。
 どこかで聞いたことがある。
 どこで? ――わからない。
 つい最近だったはず。誰かがその名を呼んだはず。
 ……誰だった?
「確か、コウキだったはず。私もそうですけど、西の方から来た発音だから、珍しい名前なんです。手がかりがないはずもないんですけど……」
 そう、珍しい音の綴りだ。ラリフではあまり聞かない響き。
 では、どこで聞いた?
 誰から聞いた?
「――テスィカさん?」
 彼女の様子に訝ったハルカが声をかける。
 我に返って、言おうか言うまいか迷いながら……結局、テスィカは何も言わなかった。
 有力な情報を思い出せない限りは、何を告げても意味がない。
 いや、思い出せたとしても……自分はウィングールへ向かっている。告げるべき機会がない。
 意識のすべてを現実に向け、何でもないと言うように『賢者』の王女は首を左右に振った。



 宙城内の各階層をつなぐ『魔道』独自の転移門《テレポートゲート》。それを都合4回使用し、何とか大門の近くまで来たところで、ラグレクトはオルドレットに掴まった。
 門を守る『魔道』に話をつけていたところに駆けつけてくる彼は、明らかに焦っていた。
 上手くまいたと思っていたラグレクトは、聞こえるように舌打ちをする。あともう少し遅ければ、宙城から――『魔道』から出られたのに、と。
 さきほど、短剣を放った後でジェフェライトからの小さな手紙を彼は見つけていた。テスィカを置いていく、後は頼む……そんな内容の手紙である。
 地上では、もう、夜が明けただろうか? 1人先走る『剣技』の王子を彼は止めねばならないと考えていた。テスィカと2人になりたいが、どうもジェフェライトを放ってはおけない。その複雑な感情を自分で理解しきれぬまま、とにかく彼はギガへ一刻も早く駆けつけたかった。
 何を言っても、「嫌です」「だめです」と縋りつく弟の相手をしている時間も惜しいくらいに。
「……さっさと門を開けろ」
 オルドレットへ目を向けながら、彼はちらりと衛兵を見やった。
 『魔道』の、少年といえるほど幼い衛兵たちは、顔を見合わせてどうしていいかわからずにいる。
「さっさと開けろ!」
 叱り付けるように言うと、1人がおろおろと話し出す。
「し、しかし、ヴァルバラント様のご許可がなければ……」
「さっきもらってきた」
「オ、オルドレット様がお止めになっていらっしゃいますし……」
「……あいつに怒られるのと、俺の魔道を食らうの、どっちがいいわけ?」
 少年たちは真っ青になる。
 急いでいるのだから、魔道を放つ余裕なんてないことはわかってもいいのだが……それに気づかれぬよう、彼はにっこりと笑って、穏和な口調で繰り返した。
「で、どっちがいいわけ?」
 笑顔の効果覿面。
 『魔道』の少年たちは、慌てて持っていた杖を門へと向けて悲鳴のような声を発した。
「開門!」
「開門!」
 巨大な門が外に向かって開いていく。
 重量があるためだろうか、その動作は緩慢だ。
 隙間が少しできた段階で、ラグレクトは身を滑り込ませるようにして外に出た。振り向くと、門は人が1人通れるスペースを残した状態のままである。今となっては、「向こう側」になった門の中、杖を手にしたオルドレットの姿があった。――少年のうちの1人から杖を奪い取って、開門を止めようとしたのだろう。外に出れたのは、間一髪のタイミングだった。
「兄上……」
「……言いたいことがあるならこっちに来て言え、オルド」
 それが卑怯な返し方だという自覚はある。
 誰よりも『魔道』の掟を守らねばならないオルドレットは、族長の許可なくしては門から出られない。ラグレクトの傍には来れない。わかってて、言っている。
 黙り込んでしまったオルドレットへ、ラグレクトは真顔になって続けた。
「本気でケイシスのことが好きならば、お前が彼女を助けるんだ」
 それは兄上が、といつものように言いかけたオルドレットの言葉を彼は無視する。
「“今”を見て欲しい、と思っているのは誰だ? 自分を見て欲しい、と願っているのは誰だ? それを、よく考えろ」
「……ケイシスは、兄上を想っている。兄上を願っている。兄上を求めている……」
「だが、俺は彼女に、自分を見て欲しいとは思っていない。オルド、違うだろう? 相手がどうのこうの、じゃない。自分がどうしたいか、だよ」
 求められていることを読み取り、その期待に沿うのが王族。
 自分を殺すこと。
 自分を消すこと。
 そればかりを覚えた弟は、ラグレクトをまじまじと見つめるだけだった。
「オルド、俺にも想っている人がいる。彼女が想っているのは憎い相手であって、俺じゃない。彼女が願っているのは、そいつの死であって、俺が傍にいることじゃない。――最初から、俺のいる場所なんて、彼女の中にはないんだ。それでも、俺は……」
 言葉を切って、胸の内で自分に語りかける。
 それでも、俺は彼女が好きだ、と。
 自分が求められていなくても、彼女が求める相手が『剣技』の王子だったとしても、自分は彼女を愛している。
 あの『賢者』の王女に幸せになって欲しいと願う。そして、それ以上に、自分が幸せにしてやりたい、と願う。
「オルド、想いってのは伝えようとしなければ、いつまで経っても片思いのままだよ」
 言ってラグレクトは一歩ずつ後ろに下がっていく。
「兄上!」
 門から出られぬオルドレットが止めようとするが、それを打ち消すように言った。
「もう一生会わないかもしれないな――元気で、オルド」
 語尾は思念のように実体のない響きとなってオルドレットの耳に滑り込む。
 自然発生するはずのない風が、彼の黒い髪を撫でていった。



 同時刻、ケイシスは意識を取り戻し、ゆっくりと身体を起こした。
 誰かが先ほどまでこの部屋にいたような気がするのだが、彼女はなぜだか思い出せない。
 ふと、前触れもなく気になって、緩慢な足取りで少女は展望台《バルコニー》へ出た。
「門が……」
 闇日《あんじつ》以外には、おいそれと開かぬ門がわずかに外を覗かせているのが彼女にもわかり、目を丸くする。
 一体どうしたことだろうか、と訝っていると、横合いからケイシスは声をかけられた。
「ラグレクトが出て行ったのですよ」
 ケイシスは驚愕して身構えて振り向いた。
 少しも気配を感じなかったのに、展望台《バルコニー》の入り口に男がいたからだ。
 誰、と問うことはしなかった。少女は誰何《すいか》を忘れ、見入っていたのである。
 わずかに肩にかかる、眩いばかりの光沢を放つ金の髪、空よりも澄んだ青い瞳、透き通るほどに白い肌が男の美貌を際立たせている。
 背が低く、身体の線が丸ければ、女性に見えてもおかしくない。
「聞こえましたか、『魔道』の姫君。あなたの愛しいラグレクト王子は、あなたを捨てて旅立たれましたよ」
 小さい頃に侍女たちが聞かせてくれた寝物語のような、優しい声音が奏でる言葉は神秘さえ漂わせている。
 ただ、言われた内容は、夢物語に彼女の意識を引っ張り込むようなものではなかったけれども。
「……ラグレクト様が?」
「風を感じて目覚めたでしょう? それはラグレクト王子が転移した際に起こった風」
 男は艶やかな赤い唇に笑みを乗せた。
 音もなくケイシスの前へ歩み出て、これまた音もなくその場に跪く。
 自分を仰いでくる双眸を凝視しながら、ケイシスは彼の言葉に耳を傾けた。
「ラグレクト様にお会いしたいですか、姫」
 首を縦に振るのに時間はかからなかった。
 ラグレクト様が、私を置いて行かれるはずはない。
 そう思っているのに、頭の奥がとても痛い。
「お会いしとうございます」
「では、ついてまいりませ。必ずや会わせて差し上げましょう――あなたを愛するラグレクト王子に」
「私を愛する……ラグレクト様に……」
 向けられた手のひらにそって手を乗せると、男は立ち上がった。
 彼は両肩に留めた蒼き布の裾を持ち、自身とケイシスをその布で包み込む。
「このルキスにお任せあれ……すべては姫君の思うがままにしてみせましょう。姫君は、その素晴らしいお声で、至福の歌を奏でてくださいませ」
 例外なく誰もを魅了する笑みを浮かべ、ルキスは一瞬だけ喉の奥で笑った。なぜならば、彼が本当に聴きたいのは、『魔道』の歌姫が奏でる悲痛な叫び声であったから……。


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