Deep Desire

【第8章】傾きゆく世界の調べ

<Vol.4 密葬>

「叔父上を……彼を助けることができたのは、あんただけだったはず。それなのに……あんたは……」
 ラグレクトは苛烈と評せるほどの眼力でもってヴァルバラントを凝視した。
 無意識に放出される彼の魔道に感化され、部屋の中で布や紙が爆風でも受けたかのように一気に舞い上がる。それはケイシスが暴走させた魔道ほど強いものではなかったが、どことなく不気味な魔道だ。
「彼があのとき魔道を使わなければ、あんたたちはこうして呑気に暮らしてなどいられなかったはずだろう!」
 羽のように宙を泳ぐ紙が数枚、予告もなく爆ぜる。
 だが、2人ともそちらを見ようとはしなかった。親子は互いの目を見つめ、少しも逸らそうとしない。
「それどころか……『魔道』なんて滅んでいた。 『賢者』よりも早く……3族のどこよりも早く!」
 力の篭もったラグレクトの発言に、ヴァルバラントは内心で首肯する。
 お前の言っていることは正しい、と。
 自分の弟がいなければ、今日《こんにち》の『魔道』は存在してなどいなかっただろう。――全身至るところに裂傷を負い、力などもう無くなってしまったのではないかと思える杖を支えに何とか立っていた青年、自分の弟の姿をヴァルバラントは脳裏に描く。
 すべてが闇に飲まれた日、真実さえも黒く塗りつぶされていた。見誤ることなく、忍ばせた足音と共に近づいていた、牙を剥き出しにしていた現実を彼が追い払いさえしなければ……『魔道』など、影も形も残っていなかったに違いない。
「それなのに、あんたは! ……助けるどころか、魔道を振るい、真相を葬った」
「ラグレクト。言うことはそれだけか?」
 ヴァルバラントは瞬きを1つした。
 それだけだった。
 『魔道』において禁じられた話題をラグレクトが口にしたのに、たった1回、目を瞬《しばた》かせただけだった。
「言うことはそれだけか、と我は聞いている」
 ヴァルバラントが言い切るよりも早く、また数枚の紙と布が宙で弾けた。ケイシスが身体を預ける椅子の足も、悲鳴を上げる。
 息子の剣呑たる気配に気づきながらも、ヴァルバラントは悠然としていた。切れ長の双眸は、稀有な者を見やるように眇められたが、口調は変わらない。
「我は、あれに感謝している。だが、あれに対して行ったことを非難される覚えはない」
「……“あれ”だと?」
 短い沈黙を経て、ラグレクトが小さく笑う。
「危急存亡を救った者を“あれ”呼ばわりか!」
「お前はわかっていない……」
 ひとり言のようにも聞き取れるヴァルバラントの言句には、責めるような響きはなかった。
 感情の介在を許さぬ彼の言葉は、謎ばかりを孕んでいる。断定的に言われたことに対する怒りを持つラグレクトが返答を見失うくらいに。
 その隙を見計らって、ヴァルバラントは心持ち顎を上げて息子へ言った。
「ラグレクト、あれのことはもう忘れよ。死者を思い描いたとて、世界は変わらぬ」
 時の緩慢な経過に伴い、若々しい外見のままでいる『魔道』の族長。彼の語る一言一句が経験に裏打ちされたものだと感じ取るのは難しい。
 大人であっても――『魔道』の重鎮たちの中にも――、ヴァルバラントの言葉を受け止めぬ者がいる。自分を憎む息子ならばなおさら、素直に耳を傾けることなどないだろう。それくらいはヴァルバラントとてわかっていた。
 それでも彼は、続けた。
「時は振り返らない。過去は再現できぬ。失ったものは、どう足掻《あが》いても腕の中に取り戻せないのだ」
 ラグレクトの瞳に彼は語りかける。
 その瞳が1人の女性を……亡き妻の姿を彼に思い起こさせた。
 一生涯、ヴァルバラントが永久《と わ》の眠りに身を捧げるまで近くに仕えると誓った女性。幼馴染の、今は亡き最愛の人。
(失ったものは、取り戻せないのだ……)
 『魔道』では、「詠唱、遡及すること叶わず」という言葉がある。
 これは「1度詠唱を始めたならば、その魔道は発動させなければならない。取り消しは効かぬ」という意味で、魔道を使う者なら誰でも、つまり『魔道』なら誰でも知っている言葉なのだ。
 身近にありすぎるがゆえか、この言葉に別の意味を見出した者はヴァルバラントくらいであろう。
 「詠唱、遡及すること叶わず」――時間や時空をいかに操れたとて、過ぎてしまったことをどうにかできるほどの力はない。それが、彼の見出した別の解釈。
 ヴァルバラントは妻を思い出す都度、この言葉を口端に上らせる。
 彼の妻は、第2王子を産んだすぐ後に死の病に取り憑かれていた。元より、さして身体の強い方ではなかった。近親婚による出生のためだと、彼の妻は語っていた。現実に、『魔道』族長の妻となるべき対象者の半数は病弱で、彼の妻は珍しい例ではない。
 ただ、ラグレクトを産んだ後、そんなことなどヴァルバラントが忘れてしまうほど彼の妻は元気にしていた。これならば、と多くの者が第2子をもうけることを奨め、ヴァルバラントもそれに従った。
 いいや、「それに従った」などという言い方は正しくはない。
 彼は自分の意志で妻を愛した。
 子は作らねばならぬ、それもできれば2人以上――『魔道』の定めは誰よりもよく知っていたし、族長として己が責務は果たさねばならぬと感じていた。
 しかしながら、ヴァルバラントには子供などどうでもよかったのだ。授かればそれはそれで嬉しいが、そんな目的のために彼女を愛そうなどと彼は考えていなかった。
 口下手で感情を表すことが苦手な彼は、自分の気持ちを伝える方法を他に知らない。
 華奢な身体に成す行為だけでしか、愛情を伝えることができなかった。
 その結果が……彼女の無限に近いと錯覚していた命の炎を細くした。
「ヴァルバラント様、わたくしは幸せでございます」
 両親亡き後、唯一彼の心を察することのできた彼の妻は、何も言わずに見下ろす夫に微笑む。
 幸せなのだ、と言って。
 あなたが何も悔やむ必要はないのだ、と隠して言って。
「次代を担う『魔道』の王子を……わたくしとあなた様の血を持つ男の御子を2人も産むことができました。凛々しき若者に育つ姿を拝することは叶いませぬが、それでも幸せでございます。『魔道』の、あなた様のお役に立てて、わたくしは嬉しゅうございます」
 力いっぱい妻を抱きしめて「ありがとう」と、そして、「すまない」と言えればどんなによかったことか。
 それなのに、出てきた言葉はたった一言、「そうか」。
 ――言いたいことは、伝えたいことは他にあった。聞きたいことも一緒に。
(なぜ、あなたは我を責めぬ?)
 延命の魔道を施した女性の顔には、徐々に病魔の影が刻まれていた。ヴァルバラントにも見て取れたのだから、本人がそれに気づかぬわけはない。彼女が自分を罵ってもおかしくないと彼は思っていた。
「なにゆえ、早く解放してはくださらぬのか!」と。
 子は2人いる。病は治らぬ。ならば、無駄な延命などせず、眠りにつかせてやるべきだった。
 彼の周囲は、延命の魔道に反対した。役に立たなくなった王族の面倒を見るのは世話が焼ける……そんな思いから、『魔道』のためにと称し、彼の妻の命を狙う者もいた。無論、ヴァルバラントはそれらをすべて退けたが。
 『賢者』との間に2子をもうけたヴァルバラントの兄などは、「楽にしてやるのが、『魔道』にとっても彼女にとっても良いこと」と説得に来た。現状を知り得ないほど彼の妻は空気を読めない人ではない、心痛める前に解き放ってあげるのが最良、と彼を説いたのだ。
 それでも……ヴァルバラントにはできなかった。
 自分のエゴで。
 傍にいて欲しかったから。失いたくはなかったから。彼女が、この世界から消えてしまうことなど、耐えられなかったから……。
 ヴァルバラントは古い文献を紐解いて、妻が生きる道を模索した。
 意識を失っては取り戻す――その感覚が狭められていくにつれ、彼は必死になった。
 以前のように元気な姿を見せてくれとは思わない。過ぎたる望みと知っているのだ、そんなことまでは望みはしない。
 ただ……ただ、“そこ”にいてくれればいい。
 存在だけを願って、失われた魔道にも目を通した。
 そして、彼は知ったのだ。魔道の限界を。
 魔道は冷酷に告げた。
 過去は「永遠」に繋ぎとめられる、魔道は「永遠」に触れることさえできぬ……。
 ――妻は、逝った。
「ラグレクト。お前の腕《かいな》は求めるものを違えている」
 既に失われたものを顧みて何になる?
 人知れず、嗚咽を殺し、名を呼んだとて、優しく口付け、傍に在ると誓う声は聞こえなかったのだ。それがわかったから……ヴァルバラントは、泣くことなどやめた。
 ラグレクトが『魔道』から去るときも止めはしなかった。
 その場で止めても、いつか去ると思っていたから。
 息子は怨嗟の囁きに従い、彼と道を歩むことを拒否していた。かつて在った関係を取り戻すことなど不可能なのだ。どんなに願っても、彼が愛した女性《ひ と》のように、いつかは去り、そして、2度と戻らない……ヴァルバラントはそれがわかっていた。
「お前が『魔道』を捨てることに口は挟まない。だが、あれのことは忘れよ、ラグレクト」
「……その方が自分にとって都合いい、ということか?」
 潜めるように低く落としたラグレクトの声に、殺気に近い感情が垣間見える。
 そう取られても仕方ないだろう、とヴァルバラントは諦観する。息子に最悪の場面を見られたのだという自覚がそれを促した。
 あのとき、自分が弟にどんな想いで魔道を放ったか。弟が、どんな想いでその魔道を身に受けたか。
 それを知らぬラグレクトが自分を憎むのは、むしろ自然な流れのように彼には思える。
「……あの闇日《あんじつ》、『魔道』では何も起こらなかった。それが事実」
 ラグレクトが絶句する。
 畳み掛けるように、ヴァルバラントは言う。
「何もなかったのだ、ラグレクトよ。その証拠に、今も『魔道』は存在している」
 高潔なる一族は、連綿と命を紡ぎつづけている。
 彼の妻はいなくなった。
 彼の弟もいなくなった。
 それでも人は、生きている。
 引き延ばされた「時」の中で、真相など知らなくとも生きている。
「……もう、ルキスを追うのはやめよ、ラグレクト。あの日、何もなかったのだ……かの将軍の横行は目の余るところもあるが、我が一族には関係ない」
 瞬時にラグレクトの魔道の気配が高まり、矢のような鋭利な切っ先がヴァルバラントに向かって放たれた。
 麗しき『魔道』の族長は、白銀の杖を息子へ向かった傾け、無言のうちにそれを押し返す。
 見えぬ刃は矛先を返し、ラグレクトの周囲で火花を散らした。
「我らが偉大なる族長殿よ、お答え願いたい。『賢者』滅亡の時ばかりか、先立って、『剣技』が窮地に陥った際に平然としていたのは、自族に火の粉が降りかからなかったためか? 再びルキスの目が『魔道』に向けられることを嫌ってか? それとも、その双方か!?」
 ヴァルバラントは唇を薄く開く。
「我はルキスなど恐れてはいない」
「その台詞、しかと心に刻んでおく! ――ルキスは必ず『魔道』を滅ぼしにかかる」
 ラグレクトが笑んだ。
 予言めいた口調と共に、凄絶に。
「ルキスは『賢者』を滅ぼした。そして今は『魔道』を狙っている。……手強いところから落としているんだ、彼は」
 決して『魔道』の力を前に怯んでいるわけではない、もう力を把握している余裕から、『魔道』を最後に回しただけ――ラグレクトは言外に語る。
「俺は、ルキスを追うことをやめない。だが、ルキスが『魔道』を滅ぼしにかかったとしても、俺はそれを止めはしないし、あんたたちを助けようとも思わない。……ルキスなど歯牙にもかけぬ偉大なる族長殿よ、私はむしろ、その日が来るのを楽しみに待っていましょう」
 『魔道』の王子とも思えぬ暴言を吐いた後、彼はすっかり立ち上がった。
 もうここには留まらない、と目が、訴えている。
 再び去る背にかけるべき適当な言葉などヴァルバラントは思いつかない。
 だから、告げた。
「お前になど助けてもらう必要はない。『魔道』を捨てた者の力を必要とするほど、我は衰えてはおらぬし、王子は他にもいる」
 成し遂げたいことがあるのならば、自分の都合で息子を左右させるつもりなど、彼にはない。
「ラグレクト、人の心配などしている余裕があるというのか? ルキスは、誰も己に近づけさせない。彼の懐に入り込むには、お前も相当な傷を負うだろう……」
 彼の息子は、鼻で笑った。
「いつの頃の話をしてる?」
 勝気な性格が顔を覗かせる。それを聞き、安堵も本心と一緒に封じ込め、ヴァルバラントは杖にて扉を指し示す。
 風に押される形で、部屋の扉が開け放たれる。
「そこまで覚悟があるのであれば、行くがよい。今すぐ。この場から去るが良い」
「言われずとも」
 さらりと無情な言葉を返した彼の息子は、簡単に背を向けて後ろ髪を引かれることもなく去っていく。
 ヴァルバラントは目を閉じた。
 そして、短く呟く。魔道を。
 父親である者ならば誰もが唱えるであろう魔道を。
 聞く者はいないとしても、望む者がいないとしても、信じる者がいないとしても――彼は彼なりに、ラグレクトのことを想っていた。


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