Deep Desire
緩やかに波打つ黒髪が風もないのに揺れるとき、紡がれる歌は高く澄んで響きわたる。
『魔道』きっての歌姫と呼ばれるケイシスの歌声は、それ自体が魔道であるかのごとく人々を酔わせる。
しばしの間、ラグレクトは無言で歌声に聞き入っていた。彼はケイシスの歌声が好きだった。
大好きだった母親を思い起こすくらいに。
ラグレクトの母親は、オルドレットを産んでから病床を離れぬ身となっていた。王族の習慣から、母の元を訪れる回数は限られていたが、ラグレクトは弟と共に許される限り母を見舞った。
彼は母に隠し事をしたことなどなかった。できなかった、というほうが正しい。どんなに上手く隠したつもりでも、彼の母は見抜いてしまったのだ。
「ラグレクトはお父様の言いつけをよく守る、偉い子ね。でも、お母様の前では、もっと素直になっていいのよ」
そう言って、母は幼き王子を抱き上げて、頭を撫でながら彼の大好きな歌を歌ってくれた。
病魔の前に膝を折るまで――時間を操り、おしなべてどの一族よりも長寿が多い『魔道』一族では信じがたいほどの短命を燃やし尽くすそのときまで。
一族の誰もが悲嘆に暮れ、弟のオルドレットなど父に八つ当たりをした。誰のせいでもないということは、オルドレットとてわかっていたに違いない。ただ……1番悲しんで然るべき人が毅然としているのがオルドレットは気に入らなかったのだ。
ラグレクトとて、父親には悲しんで欲しかった。
あの厳格で無表情な父が、母といるときは別人のようになるのを彼は知っていた。だからこそ、オルドレットのように、もっと悲しんで欲しいと思っていた。
もっと……いなくなる不条理さを罵って欲しかった、と。
だが、ラグレクトは、父が母の夫である前に、族長であろうとしているのを感じ取っていた。だから彼自身も、人前では父を倣い、第1王子として振舞った。泣いたのは、1人になったときだけ。
父のように涙を殺しきれず、弟のように向こう見ずになることもできず――不安定な日々を過ごした。
そうして母の死が記憶の中で薄れていったある日のこと。
彼は、久しく誰にも見せなかった涙を見せてしまった。
婚約者である少女、ケイシスの前で。
泣くつもりなどなかったし、なぜ涙が出たのかもわからなかった。
ただ、少女の歌声を聞いているうちに、多くのことが脳裏をよぎり、熱い奔流となって目尻から零れ落ちたのだ。
――初めてケイシスを抱いたのは、その夜のことだった。
「……ケイシス」
何度も呼んだ名前であるのに、口に出すのは久しぶりで、ぎこちないと自分でもわかる。以前はもっと愛しさをもって呼ぶことのできたはず。
背を向け椅子に座っていた少女は、不意に歌をやめて振り向いた。
「ラグレクト様」
ケイシスはいつものように微笑む。
いつものように――以前と変わらぬように。
「どうされました、ラグレクト様? なんだかとても、お疲れのご様子」
立ち上がり、彼女はゆっくりとラグレクトに歩み寄ってくる。そして、彼の頬に手のひらを当てた。
見下ろす先、近しい距離で覗く少女の笑みは、見る者を迎え入れる優しさと温かさに満ちている。
悲しいことがあると、切ないことがあると、彼はこの少女の笑顔見て言ったものだ。
「歌って、ケイシス」と。
けれど、もうそれを言うつもりなどラグレクトにはない。
知ってしまったから……その歌声が癒す者は、ラグレクトではなく、『魔道』の第1王子なのだと。
彼女が求めたのは、彼女が受け入れたのは、『魔道』の第1王子なのだと。
「ケイシス……ラグレクトなんて名前の男は、この宙城のどこにもいないよ」
彼は噛み砕くように、一言ずつ言って聞かせるように少女に言う。
きつく言おうと思っていたのに、声に出したらまるで幼子に説くような口調になっていた。
「ラグレクトという男は、もう何年も前に死んでしまったんだ」
ケイシスは、大きな茶色い目をめいいっぱい開き、そこに心中を――驚愕すべてを詰め込んだとでもいうような表情でラグレクトを見返してくる。
唇が声を発することもせず動いた。
「うそ」と。
「嘘じゃない。ラグレクトはいない」
「……だって、私のお腹の中には……」
「それは『魔道』第1王子、オルドレット・ゼクティの子供だよ」
君がそんな風に笑えるよう、真綿で包むかのごとく君を愛している男の子供だ。
ケイシスは、小さく何度も首を横に振る。
予想したとおり、彼の言を否定して。
「違います。私のお腹の中にいるのは、ラグレクト様の御子でございます。オルドレット様は、もう何年も前に『魔道』から出て行かれました。私のお腹の中の子供が、オルドレット様の御子であるはずがございません」
「オルドは『魔道』から出ていないよ、姫。いなくなったのは、ラグレクトだ」
「いいえ、ラグレクト様は……」
「“最後の質問だ、ケイシス”」
その台詞を口にした途端、ケイシスの顔が一気に青ざめた。
ラグレクトはそれを見逃さなかったが、続きを言わないつもりはなかった。
真実を提示しないつもりなど、なかった。
「“君は、なぜ私に抱かれる?”」
「……“私は、第1王子の御子を産むのが定めでございます”」
それは、あの日の再現だ。
別れの夜の、最後の希望を葬り去った胸を貫く、刃を持った言葉だ。
ラグレクトは掴んだケイシスの手をそっと下ろさせた。
わかっているはず……自分が消えたことを。
心の奥底に閉じ込めただけで、忘れてなどいないはず。
「“ならば、君はきっと幸せになれる。第1王子の子を産んで、『魔道』で幸せに暮らせるはず”」
「ラグレ……」
「“さようなら、ケイシス”」
顔を伏せようとするケイシスの顎を上向かせ、ラグレクトは唇に軽く口付ける。
儀礼的に。
あのときのように。
ケイシスの双眸は不安げに揺れていた。
感情の漣が彼女に押し寄せ、瞬きもしていないのに言葉の代わりが頬を伝う。
「いないよ」
彼は、楔を打ち込む。
「もう、いないよ。ラグレクトは、ここにはいない」
救いを求める眼差しが、ラグレクトへ向けられる。何を欲しているかなど、一目瞭然。
そして、わかっているから、逆の言葉をかける。
情に絆《ほだ》されない。無情であることが、自分に課せられた役目。
「その子供は、ラグレクトの子供なんかじゃない。……オルドレットだ」
ケイシスが息を飲んだ気配が空気に染み込み、ラグレクトにまで届く。
「うそっ――!」
高い叫び声が室内にこだまし、身構える前に彼の体が宙に浮いた。抵抗などする時間を与えられず、彼は壁に叩きつけられる。
「くっ……」
至近距離から予告もなく放たれた魔道は、凶暴さを露にする。見えない手が、彼の首をきりきりと絞めつけてきたのだ。
片頬を壁に押し付けられた状態で、横目でラグレクトはケイシスを見やる。
少女は滂沱たる涙の中で、佇み、ラグレクトを見つめ、笑っていた。
笑っていた……!
波打つ黒髪は体内から発せられる魔道を受けて宙を泳ぎ、部屋の家具は狂った主の影響からか、歪みを生じさせている。
ラグレクトは、自由になる腕を力の限り持ち上げて、ケイシスへ手のひらをかざす。
ケイシスの力は、『魔道』第1王子の婚約者に相応しい強大なもので、本気で歯向かわなければ殺されてしまう。
だが、彼は呪文を唱えるどころか苦しさに喘ぐこともできない。
喉への透明な呪縛は、振りほどく隙さえ与えない……。
「この子は、ラグレクト様の御子」
両手を掲げ、ケイシスは宣告する。
「私は、第1王子の御子を産むために生を受けた者。他の誰の子供も産みはしない!」
激することなど想像もつかぬ少女の絶叫からは、強さが、狂気が、溢れている。
ケイシスは微笑みながら歌う。
大好きな人 大好きな人
私のすべては あなたのために
私のすべては あなたのためだけに
注ぐ陽光のような、囁く微風のような甘い歌声。
高く低くうねる音が、細い腕を彼へと伸ばしてくる。抱き寄せ、胸へと導いて抱くためではなく――その首を強く絞めつけるために。
ラグレクトは目をつぶった。
(……持た……ない……!)
少女の、見たことのない力と感情。
長く、誰よりも彼女を見てきたはずなのに……知らなかった、心の奥に眠ったもの。
嘲笑《わ ら》うようなざわめきが耳朶をくすぐっていく。
気が遠くなる。
(……!)
誰の名前を呼んだのか、自分でもわからなかった。
だが、その瞬間に彼は自分を苦しめる魔道から解放された。
急に喉が自由になり、伏せるようにして咳き込む。口端から零れた唾液に気に留めることもできない。
「己の行っていることをよく自覚せよ、ケイシス」
頭上から降る声が誰のものか、考えずとも答えは出る。
傲然とした冷ややかな口ぶり。
誰のものか、考えずとも、答えは出てくる。
「私は……!」
「控えよと申しておるのだ、ケイシスよ」
命じることに慣れた者独特の、他を圧して従える声音。
ラグレクトは顔を上げる。
“彼”の前では、いつまでも醜態をさらしてなどいられない。
「……大丈夫なようだな」
気遣ってなどいないとわかる一言に引っ張られ、ラグレクトは眼前に立つ父を見る。
白銀の杖を手にした父を。
――兄上は強くていらっしゃる。
この『魔道』宙城にいた頃、魔道の模擬戦をするたびにオルドレットが呟いていた言葉を彼は思い起こした。
兄上には敵いません。兄上に勝る者など、おりませんね。……父上を除いては。
『魔道』族長、ヴァルバラント。
敵わぬと自覚している、自分の父。
ヴァルバラントはラグレクトから顔を背け、ケイシスの元へ歩み寄った。
程よいタイミングで、少女はその場に崩れ落ち、ヴァルバラントは彼女の体を片手で抱きとめる。
「ケイシスに会って欲しいと確かに言ったが、危険なことをしろとまで言った覚えはない」
冷徹に言って、ヴァルバラントはケイシスを椅子に座らせた。
助けてくれた礼を述べる気にもならず、ラグレクトは起き上がる。堂々と立ち上がりたかったのだが、虚栄心を張ったとしてもよろけてしまえば意味がない。彼は慎重に、手を後ろにやり、壁にもたれかかりながら膝を伸ばした。
「危険なことをした覚えなんてないね」
「ほう、死にそうになってもそんなことを言えるのは相変わらずか」
口だけ達者だと言われた過去を思い起こし、彼は父親を睨み返す。
「……これだけは治りようがないね、きっと。親に似たから」
皮肉で返したつもりだったけれども、言われた方は平然としている。顔色を変えることなど滅多にないと知ってはいるが、それでも面白くない。
見透かしているのかいないのか、ヴァルバラントは一笑に付す。
「我に似ていると言われることを嫌っていたのではないか?」
「あぁ、嫌だね。言われたくないね。でも、俺の中には間違いなくあんたの血が流れてる。仕方ないが、これは事実だ」
「……大人になったようだな、ラグレクト」
大人になった、だって?
ラグレクトは冷笑する。
「嫌というほどの悪夢を見たからな」
ヴァルバラントは言いかけていたにも関わらず、口を真一文字に結んだ。
もしここに、ヴァルバラントをよく知る者が会したならば……その微妙な変化を感じ取ることのできる者がいたら、話は終わっていただろう。
けれども、ラグレクトは見抜けなかった。
彼ならば、見抜いたとしても話題を変えることなどしなかったかもしれないが。
相手を察して抑えられるものを「確執」などと人は呼ばない。
「だが、俺はあんたとは違う。似ているとしても、同じにはならない。……血にまみれ、息も絶え絶えな自分の弟に魔道を放ったあんたみたいにはならない、絶対に!」
ラグレクトは腕を組んで、父親を睨みつけた。
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