Deep Desire

【第8章】傾きゆく世界の調べ

<Vol.2 教導>

 塔を出たラグレクトは、真っ先に中庭へ入っていった。ケイシスの部屋に行くには、中庭を通るのがいちばんの近道だからだ。
 『魔道』宙城の中庭は転移門《テレポートゲート》があるために、城門からの出入り同様、族長の許可なくしては足を踏み入れることが適わない。もっとも、『魔道』の民の行動は、総じて内向的である。くつろぎたいときは、部屋で1人になることを望むため、庭に入りたいと願う者はいなかった。
 この中庭は高い鉄製の柵に囲まれており、地上の者なら檻のようだと評することだろう。
 しかしながら、『魔道』においては、実情はともかく、外見上は開放的な場所であるように見える。なにせ、『魔道』宙城は、どこもかしこも密閉されている。城内の門扉は魔道によって開閉を自由にさせており、外観は壁と相違ない。たぶん、扉に『魔道』の紋章――形状の違う2つの杖が真中で交差している紋――がなければ、部屋の前を通り過ぎ、迷う者さえいるくらいだ。
 そんな世界の住人達にしてみれば、中庭を囲む柵は奇妙なものであった。転移門との力関係で、中庭の門には魔道がかけられていないと知る者はごく一部。が、それを知ろうと知るまいと、明け透け過ぎて、誰もが「無用心な門」と思ってることは明らかである。
 彼らがそこに侵入しないのは、魔道以外の力を使って中に入る方法を知らないからであり、一族の結束と共に心に強く刻まれている「掟」という名の楔が行動を止めるからだ。
 今のラグレクトは、手や足がかけられる門など、よじ登って越えられることを知っていたし、「掟」を守ろうという気は全然なかった。手っ取り早くことを済ませるには中庭を通るのがいい、と、一般的な『魔道』ならば考えつかないことを実行したのは、そのせいである。
 彼の放胆たる行為は『魔道』兵たちを絶句させたらしい。身軽に乗り越え、中に入っていく王子に衛兵たちは驚倒しそうな顔を向けていた。あまりにも大げさなので、ラグレクトは苦笑してしまう。馬鹿馬鹿しすぎる、と。
 そうやって中に入ったのは、今回が最初じゃない。彼は『魔道』を飛び出す前から、こっそり中庭に忍び込んでいたのだ。
 密会のために。相手はケイシスではなくて、敬愛している叔父であったが。
 最後にそこを訪れたのは、『魔道』を飛び出す当日だった。その日も、ラグレクトは1人で中庭を歩いていた。――もう、叔父はいなかったので。
 その日以来だが、庭の景観は変わっていなかった。地上ほどではないにしても、『魔道』でもそれなりに時は経過しているはずであるのに。
 常に葉をつけた枝たちが、作られた微風に面映そうに身を揺らす。足元に伸びた大樹の陰は、敷き詰められた石畳を行き来する。
 決して時は止められていない。それなのに、空は青く、葉は青々と繁りつづける。毎日毎日、同じことを繰り返す。
 ――ラグレクトは、足を止めて庭の中央、物言わぬ石板に目をやった。言わずと知れた転移門《テレポートゲート》へ。
 『魔道』の興り、宙城の成り立ちより、そこにあるという転移門。
 変わらぬ風景の支配者。
 この石板を守るために、鍵をかけられた中庭の門。
“鍵なんて、ないのだよ”
 突如として過去から飛び出してきた、透き通るような声にラグレクトは目を眇める。
 記憶の中に溶け込むように佇立していると、声の主は今にもその場に現れるような気がしてならない。
 そんなこと、ありえるわけがないと知っているのに……。
“言ったとおりやったら門を越えてこれただろう? いいかい、あそこに鍵なんてないのだよ。あるとしたら、それはお前の心の中にあるものだ。お前は、ここに入ってこれないわけじゃない。入ってこれないと思い込んでただけ”
 叔父は、柔和に笑んで彼にそう言った。
 片親を父と同じくする叔父は、父に似ているが、父ではない。
 その証拠に、空気の色さえも変えてしまいそうな笑みを彼に向けてくる。
 厳しく叱り付けることもない。
 当たり前だ、とは言わず、よくやった、と言ってくれる。
 だから、ラグレクトは父よりも叔父の方を好きになった。
 その叔父が言うことは、大抵において納得が行くことで、わからないことを話したとしてもきちんと彼に説明してくれた。必ず。
“覚えておくといい、ラグレクト。『魔道』がお前を縛っているわけじゃない、お前が『魔道』に縛られているのだ”
“私が、『魔道』に縛られている?”
 思い出して、ラグレクトは笑う。
 『魔道』に縛られる――あのとき自分は、身体に何かの魔道が施されていると勘違いして、自分の身体を見回していたのだった。
“あぁ、すまない、ラグレクト。そういうことじゃないのだ……お前の心が『魔道』の常識によって盲目になっているということだ”
“……心が……盲目……?”
“わかりにくいか?”
“わかりにくい”
“それはそれは……。では、お前がわかりやすいように言い方を変えよう。ラグレクト、お前の身体には魔道が施されている”
“叔父上、先ほどとおっしゃっていることが異なっているような……”
“前言撤回だ、さっきのは忘れろ。――お前の身体には魔道が施されている”
 その魔道とは、自族を称える魔道であると叔父は言った。
 どこよりも秀でた、優れた一族だと自分たちを思い込む魔道。
“叔父上、そんな魔道、一体いつかけられたのです?”
“生まれたときにだよ”
“生まれたとき!?”
“いや、もっと前か。生命として胎内に宿ったとき。黒い髪と茶色い瞳にかけられた魔道なのだから”
 黒髪茶瞳は『魔道』の証――誇り高き一族に名を連ねる証。
 その場所に魔道がかけられているとは、一体誰が気づくだろう?
 叔父上は、やはり、聡明でいらっしゃる、と、ラグレクトは驚きながらも叔父をますます尊敬したものだ。
 ラグレクトなど、叔父の部屋で書物に目を通すまでは、髪や瞳の異なった者たちが地上にはたくさんいるということを信じずにいたのである。
“ラグレクト、その髪と瞳にかけられた魔道は、一生お前について回る。ただ、その魔道が強いか弱いかは、お前の心次第”
“私の、心次第?”
“……その魔道は、『掟に従って、中庭に足を踏み入れてはならぬ』と言っただろう? でも、お前はここに来れた。強力な魔道がお前の行動を止めていたわけじゃない、強力だと思いこんでいたお前の心が魔道に捕らわれ、行動に歯止めをかけていた”
“あぁ、なるほど。叔父上、わかりましたよ”
 中庭の門には鍵がかけられていない。
 手と足で乗り越えられる門など、鍵がかかっていないも同然。
 それなのに、中に入れぬと思っていたのは、彼自身。
 彼の心。
“ラグレクト、その魔道に左右されるな。触れてみよ、感じてみよ。そこから知る真実こそが、正しいのだ”
 ……あの言葉がなかったら、とラグレクトは考える。
 あんな風に説いてもらわなければ、そして、その言葉を実感させるように多くのことを教えてくれなかったならば……自分は、まだ、かけられた魔道に縛られていたのかもしれない。
 オルドレットのように。
 ヴァルバラントのように。
 『魔道』の民たちのように。
 それはそれで幸せなことなのだろうけれど、ラグレクトは「そこ」には戻れない。彼は知ってしまったのである。
 6枚の石板――転移門の向こう側に広がる世界を。
 そこに横たわる、『魔道』が蔑む者たちが見せた、多くの真実を。
「……『魔道』か……」
 さまざまな想いを込めて独白し、彼は生い茂る木を見やる。
 花の謳歌は消え行く儚さの上にあるからこそ心を酔わせる。
 それを知らぬ者たちが愛でる常緑の葉に、力強い生命力は見出せない。
 おそらく木も、自らの命を強く実感したことはないだろう。
 憐れなことだ、とラグレクトは思い、ケイシスの部屋へ向かって再び歩を進めた。



 ギガの都市城《シティキャッスル》は、夕刻になると、いつものように灯りをともった。城下の喧騒は燻《くすぶ》っていたのが嘘のように、一斉に店々に伝播していった。
 貨幣と嬌声が入り混じる夜は、今宵も幕を開けたのである――都市城《シティキャッスル》を除いて。
 城内にある、ギガで1番の高級賭場は前触れもなく「本日、休場」の札を掲げた。
 不満そうな客たちとは対照的に、賭場組合は上機嫌である。城内の賭場が休場すれば、その分の客が別の賭場へ足を運ぶのだ。喜ばずにはいられまい。
 賭場の運営者たちは、最近の客数の減少を憂いていた。ギガを訪れる数自体が、『賢者』の事件以来、下降線を辿る一方だ。『賢者』は“聖女”だけではなく、ラリフ全体を守っていたため、黒髪黒瞳の一族の消滅は人々の心に不安を植え付け、行動範囲を狭めさせた。
 また、ギガ訪客の中で1番多いのは南の街、サラレヤーナの駐留軍に雇われた傭兵たちであったのも不幸な原因の1つである。
 『賢者』亡き後、サラレヤーナの街は変わった。南国イスエラが攻めてくるとの噂により、傭兵たちは任を解かれても街を去ろうとしなくなったのである。
 ギガの賭場組合は、金の将軍を恨みつつも、具体的な方策を練り始めた。
 一案として持ち上がったのが、ギガで最も賑わう都市城《シティキャッスル》の賭場に休場を願い出るものであった。
 閉場しろ、とはさすがに言えない。今はどうあれ、都市城の主は、賭博と女が好きな“真紅のキーファ”である。万が一にも彼を逆上させてしまったら、生活費を稼ぐどころの話ではない。
 組合長は、ときどき休場してみては、と言うのが精一杯であった。
 キーファに会わせてもらえなかったため、その申し出は通らぬものと思っていたのに――早速その夜に、休場である。
 物分りのいい都市長だと、彼らは驚喜した。そうやって賞賛されている当人は、執務室で険しい表情をしていたが。
 執務机に肘をつき、扉を見据えてキーファは報告を待ちつづけている。
 緊迫した気配に、ジェフェライトは無言を強いられた。いや、たとえ言葉を発することが許されたとて、何も言えずにいただろう。
「どうやら本気でウィングールに向かったらしいね」
 沈黙を破る声は唐突に、執務室に放たれた。
 弾かれたようにキーファは顔を上げ、ジェフェライトは椅子から立ち上がる。室内に入ってきた副都市長は、小脇に書類を抱え、乱暴に扉を閉めたところだった。
 彼は部屋の中、一段高いキーファの執務机に近づき、その上に束になった書類を置いた。近寄ったジェフェライトが覗き込むと、ちょうどラリフ帝国の地図が広げられたところである。
「僕たちのいるギガが、ここ。そして、ハルカたちが最後に目撃されたのが、ここだよ」
 あの“不破の者”がいる森の手前、赤い丸印に囲まれた場所を副都市長は指差した。
「ただ、目撃された時間を考えると、もう森には入っているだろうね。探すのは、難しいかもしれない」
「森とは言っても、通る場所は限られているでしょうし、今から行けば追いつきますよね?」
 早口にジェフェライトは問うた。
 女性2人、体力の面から考えても、夜に森を歩くことはないだろう。
 そういうつもりで彼は言ったのだが、副都市長の顔色は冴えない。
「ハルカが先導しているとしたら、僕らが知らない道を通っていることも考えられます」
 副都市長は言外に、森に入ったのでこれ以上の追跡は無理だと言っているようだった。
 ジェフェライトは口を閉じる。
 ハルカがウィングールの出身者だと、つい先ほどまで知らなかった。
 傷を負ったキーファが事情を説明し、その際にはじめて聞いたのである。
 もし、こんなことにならなければ、ジェフェライトは一生、ハルカの故郷がウィングールだとは知らずにいただろう。キーファも副都市長も、話すつもりなどなかったようだから。
「こうなったら、向こうで合流するしかない」
 副都市長の言う「向こう」がどこを意味するのか、問い掛けるほど愚かな者はいない。
「監獄都市ウィングールに入る前に合流することはできませんか?」
「無理だろうね。ハルカはきっと、城門以外のルートから中に入るはずだから」
 ならば中で落ち合うのも難しいのではないか? ――ジェフェライトの不安が肥大していく。
(テスィカさん……!)
 なぜそんな、危険なことを1人で行ってしまったのかと、ジェフェライトは唇を噛んでいなくなった少女を責める。その“危険なこと”を、彼は自分1人でやろうとしていたのだけれど、それは彼の中では別の話だった。
「とにかく、明日の朝早く、ギガを発てば……」
「俺は行かないぜ」
 副都市長を遮るようにして、キーファが言った。
 彼の決意を表すように堅い声音に、副都市長とジェフェライトの反応が一瞬遅れる。
「……キーファ?」
「俺は行かない。ギガの都市長だ、ここを離れるわけにゃいかんだろう」
 怖いくらいの無表情で常識的なことを言うギガの都市長に、誰もがしばし言葉を失った。
 けれども、副都市長はその後、ジェフェライトと違って、大声で反論したのである。
「馬鹿かい、君は!」
 激昂しない、と思っていた人物が思い切り机を叩いたので、ジェフェライトはさらに口を挟めなくなる。
 それでもキーファは、動揺してはいない。
「君が行かなくて、誰が行くんだ!」
「お前が行けばいい」
「――この馬鹿野郎っ!」
 とても彼の口から出たとは思えない音の羅列が室内に響く。
「僕が行ってどうする、僕が!」
「お前は普段から言ってるだろう? もっと都市長らしくしろ、と。長期間、都市を離れるのが都市長らしい振る舞いか、あぁん!?」
「確かに言ってるよ、そりゃ僕が、口を酸っぱくして言ってることだよっ! けど、あんた、都市長である前に1人の男だろう、キーファリーディング! 好きな女を迎えに行かなくて、どうする!」
「そりゃ、こっちがこのまま言い返してやるね。お前こそ、惚れた女を手に入れるチャンスじゃねぇのか!?」
 副都市長が驚愕に目を見張る。彼だけではない、ジェフェライトも。
 『剣技』の王子は、眼前で繰り広げられるケンカの末に知った新たな事実を、どう処理すればいいのかわからずに、ただただ目を丸くしていた。
 都市長は女好き。
 秘書官は都市長の恋人。
 副都市長は都市長の片腕。
 そこまでが、ジェフェライトが認識していた事実。
 そこに、副都市長の好きな相手が秘書官であり、都市長はそれを知っており、けれども都市長は知りながら秘書官と恋人同士であり、それを副都市長もわかっていて……と付け加えると、彼の頭は混乱の一途を辿った。
「攻める好機は決して見逃すな、お前は何度もそれを言ったよな? なのに、実践しないのか?」
 副都市長は緑の双眸を細め、軽く唇を噛んでからやっと口を開く。
「……同時に僕はいつも言っているはず。勝てない戦はしないもんだ、とね。――僕が行ってどうする、キーファ。ハルカは僕を待ってなんかいない、待っているとしたら、その相手は君だ」
「あいつは言ったぜ。俺を殺すために近づいた、と」
「本気でそう思っているなら、君は1度、殺された方がいい。彼女が君に向けてた気持ちに気づかずに馬鹿なことを言っているのなら!」
「気づいてたさ、気づいていたよ! そうじゃなきゃ、あんなに大切にするかよ!」
 壊れないように包み込んで。
 部下だから、抱けなくなったわけじゃない。
 キーファは自分の本心に気づいている。目を背けていた本心に。
 ……抱くたびに傷つけるのが嫌だった、だから、そっと離れたところにおいた。
「俺はあいつを手放すつもりなんてなかった。お前に譲ってやるつもりだって、これっぽっちだってなかったさ!」
「そりゃどうも。僕だって、譲って欲しくなんてなかったね! 他の男を想っている女なんて、譲られたって困るもんさ! 君は彼女を大切にしたと言い張っているけど、そんなもの、向こうが気づいてなければ意味がないんだよ!」
「気づいてないなんてことがあるかよっ!」
「だからあんたは、大馬鹿野郎だって言うんだ! 何を、彼女の外見に惑わされているんだ!? ハルカは、まだ10代なんだよ。あんたがちゃんと口で伝えなきゃ、大切なんだって言わなくっちゃ、わかるわけがないんだよ!――僕が想っていたのだって、あいつは気づいちゃいないんだから!」
 そこまで一気に言い切って、副都市長は肩で大きく息をした。
 自分がどんな状態であるか、その一呼吸で彼は認識したのだろうか。もう次の一言目には、彼は落ち着きを取り戻していたのである。
「君がいなくても、戻ってきてくれさえすれば、ギガは僕が何とかするよ」
 明らかな確信に満ちた副都市長の口調が、いつものように淡々と説明を始める。
「実際にやられたら困るから言わなかったことだけどね、短期間かつ軍事的な緊急案件さえ発生しなければ、君がギガを離れることは可能なんだ。僕が、そういう風に、この都市を作り上げた」
「ならば……」
「キーファ、君は、僕とハルカがいないギガを動かしていく自信はある?」
「……」
「僕もハルカもいない世界で大人しく椅子に座っている自信はあるのかい? ――僕は、僕なりに自惚《うぬぼ》れていたんだけど、それは過剰な自信だったかな?」
 張り詰めていた空気を振りほどくように、キーファは首を横に振る。力ないそれは、負けを認めたと暗に言っているようでもある。
「俺の部下は有能すぎる」
「僕の上司が無能すぎるだけだよ」
「悪かったな」
「本当だよ。仕事ができないなら、せめて、女くらいは繋ぎとめておいて欲しいよね。僕は、彼女が笑っているのを見ていたいんだから」
「俺があいつを連れ戻してきてもいいのか?」
 副都市長は微笑を見せた。
「それは聞く相手が違うんじゃないか?」
 キーファも、苦笑した。
「損なヤツ」
「そうでもないよ――自分の好きな人同士が幸せそうに寄り添うところなんて、そうそう見られるもんじゃないからね……でもそうだな」
 語尾を濁らせて、副都市長はキーファからジェフェライトへ視線を移す。
 終始、黙りきった『剣技』の王子は、眼差しを向けられても何を言っていいのかわからず、彼を凝視し返してくる。
 年齢差を埋めるばかりか、年齢そのものを逆転させたような様子で、副都市長はジェフェライトに笑んだ。
「“ちゃんと口で伝えないと気持ちは伝わらない”――自分で言ったことを忘れないうちに、彼女が帰ってきたらきちんと告白しましょうか。ね、ジェフェライト殿」
 なぜそこで話を振られたのかはわからぬものの、ジェフェライトは「はい」と答えてしまったのだった。

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