Deep Desire

【第8章】傾きゆく世界の調べ

<Vol.1 批正>

 『魔道』宙城は高い白壁に囲まれている。
 2本の尖塔の高みへ達しない限りは、壁と門の外にある草原を見ることは叶わない。もっとも、常日頃から目にすることができたとて、何の得にもならないだろう。ただただ草の海が続く情景しかそこにはないのだ。
 その草原を、『魔道』の民たちは「城の外」と呼んでいる。宙城から出ない彼らにとって、壁の向こう側も、雲を隔てた下の世界も、等しく「城の外」である。ゆえに、族長の許可なく草原へ出ることは固く禁じられている――たった1日の例外を除けば。
 例外は、年に1度訪れる「闇日《あんじつ》」――五の月の半ばにある、1日のほとんどが闇に覆われる特別な日。
 元はといえば、この「闇日」は、自分たちが施している魔道によってどの程度時間軸に狂いがあるのかを把握するために設けられている日だった。
 俗に「王族」と呼ばれる、現族長の4親等以内の者たちは、宙城に残り、自分たちの空間に思いも寄らぬ歪みがないかを確かめる。場合によっては時間の流れを変える必要が生じるために、太陽を多くの『魔道』の目から隠すのだ。
 だが、いつの頃からか「闇日」がある本当の理由は、人々から忘れ去られていた。
 今では『魔道』のほとんどが、「闇日」は『魔道』一族の祭りの日、とだけ認識している。魔道の時間を修正する日、というよりも、そちらの方が覚えやすいし親しみやすい。時間と場所が限られた祭りの日、と言う方が。
 薄暗い世界の中で目覚めた『魔道』の民たちは、黒の長衣を身にまとい、目元だけを覆う仮面をつける。そうして、開け放たれた門から草原へと心を躍らせて足を踏み出す。
 その後は、皆が、誰とは知れぬ相手の手を取って踊り、口付けを交わし、思い出を紡ぐ。
 この「闇日《あんじつ》」では、思いもかけない恋物語が生まれることもある。それは決して珍しいことではなかった。
 「王族」たちの婚姻は厳しく制限されている『魔道』であるが、一族内の恋愛に関してはそれほど多くの戒律がない。血の濃さが魔道の強さを表す一族にとって、大切なのは「王族」たちの血だけである。『魔道』一族を守る「王族」の血には固執しているが、他の者たちには無頓着なことこの上ない。
 「王族」たちの血は、子が女の腹に宿った段階で将来結ばれるべき相手を定め、薄まらないように配慮していた。また、「王族」に限り、「闇日」には宙城の外に出ることさえも固く禁じ、“間違い”など起こらないようにしていた。そのような背景から、その特別な祭りの日に生まれる恋は、「王族」の関わらぬものと決まっている。
 およそ禁忌というものがないこの日は、想い合えば、親兄弟とて交わることが許されるという、同じ3族の『剣技』からすれば到底信じられない1日なのだ。
 オルドレットは、この祭りの日に興味を持っていた。
 恋しい相手がいるわけでもなく、それを見つけたいと思っていたわけではない。そのどちらも、現族長ヴァルバラントの息子にして第2王子の彼には、手にすることのできぬ権利であり、同時に、要らぬ権利である。
 彼は、侍従や侍女の語る「闇日」というのを自分の目で見たいだけ。
 ある者は、「自分を覆う世界のすべてを知ることのできた日」と言い、またある者は、「自分を覆う世界が謎に満ちた日」と称する「闇日《あんじつ》」。
 惹かれるな、という方がきっと無理だったろう。
 けれども、オルドレットは諦めていた。「王族」である限り、その祭りに参加できない。
 だから、兄であるラグレクトが、「闇日」には外に出よう、と言ったときに驚愕せずにはおれなかった。
「兄上……本気ですか?」
 尋ねた時点で、彼はラグレクトがおどけた顔をして「冗談だ」と言うのを信じていた。
 ラグレクトは、正真正銘、オルドレットの兄なのだ。それはつまり、現族長ヴァルバラントの息子であることを指し、「王族」と呼ばれる者たちの、まさに中心たる人物であることを意味している。
 ……「闇日」に外に出られるわけがない。族長の横で、時の歪みを検分するという役割があるはずだ。
 しかし、ラグレクトは口の端を吊り上げて、小さく首を縦に振った。
「本気も本気だ。私は、もう決めたのだ」
「掟に逆らうつもりですか?」
「そんな大げさなことじゃない。少し様子を見るだけのこと」
「しかし、兄上の姿が消えたとなっては、父上も訝ることでしょう」
「それは叔父上が何とかしてくださるとおっしゃった」
 やはり、と呟きながらオルドレットはラグレクトを見つめる。
 兄が突拍子もないことを言うときは、背後に叔父の影があることがほとんどだ。
「……叔父上は、今度の「闇日」に塔から出てこられるのですか? 父上の命で?」
「父上は、『手伝って欲しい』と一言もおっしゃってはいない。けれど、叔父上もたまには外の空気を吸いたいんじゃないかな」
 ラグレクトは眩しそうに目を細めて叔父のことを語る。
 族長ヴァルバラントの異母弟は『魔道』一の変わり者として有名であった。前《さき》の族長――オルドレットたちにとっての祖父――が亡くなった直後、塔のうちの1つに身を移して以来、公式の場にもあまり姿を現していない。批難されてしかるべきその態度は、しかしながら、誰も話題にしなかった。
 多くが彼と関わることを嫌がっているからだ。
 だが、ラグレクトは、その叔父を好いていた。守り役の爺《じい》の目を盗み、叔父の部屋を訪ねては、オルドレットの知らない話をたくさん聞いて帰ってくる。
 ラグレクトも叔父の博識を不思議に思い、どうしてあんなに物知りなのだ? と、伯父(ヴァルバラントの同腹兄)にある日聞いてみた。
 3族間の取り決めのため『賢者』との間に子を成した伯父は、自らの異腹の弟を「『イタンシャ』だからだ」と彼らに答えたものである。
 このとき、伯父が叔父のことを『イタンシャ』という、幼い2人にとって難解な言葉で評さなければ、その後の『魔道』の歴史は変わっていたのかもしれない。
 あるいは、叔父が『イタンシャ』と呼ばれることが、父親が『ゾクチョウ』と呼ばれることと同じようなものだと彼らが解釈しなければ……。
 そう思うと、オルドレットは叔父を憎まずにはおれなかった。
 もういない人だというのに、憎まずにはおれなかった。
 自分の肩に突如降りかかった重荷、それに耐え、生きていくためには誰かのせいにする必要があったのだ――真実であるかどうかは問題などではなくて。



「珍しいな、ここにお前がいるなんて」
 我に返り、オルドレットは本を手にしたまま反射的に振り返る。
 その途端、『剣技』宙城で受けた背中の傷が声なき悲鳴を上げた。
「っ……」
「完治してないだろう? 寝てりゃいいのに」
 ため息混じりに言ったラグレクトは、オルドレットに歩み寄ってきた。埃をかぶった書物の群れの中、止まらずに。
 まるで、どこに何があるか覚えているかのようだった。
 案外、覚えているのかもしれない。
 床に積み上げられた本たちは、背表紙を見るだけで何かしらの規則性の元に整然と置かれていた印象がある。部屋の主の性格を考えると、この部屋はたぶん、ずっと昔から同じ状態であったとしてもおかしくない。それならば、ラグレクトが泳ぐように部屋の中を歩いてくることも可能だろう――彼はこの部屋に何度となく足を運んだ。
 あの「闇日」の前までは。
「ここに用事があったのですか?」
「そりゃ、こっちの台詞だ、オルド」
 自分が相手の立場であっても同じことを言っただろう。
 オルドレットは、素直に答えた。
「気まぐれです」
「気まぐれ、ね」
 ゆっくりと彼の言葉を反芻させたラグレクトの瞳には、どことなく刺々しい色が浮かんでいる。
「人の命を弄ぶときもそうやって答えるのが『魔道』の流儀なのだったな、確か」
 言うとラグレクトは酷薄な笑みを唇に湛えた。
 皮肉めいた兄の表情に、オルドレットは嘆息する。『剣技』宙城で頻繁に様子を伺いに来てくれた、そしてこうして『魔道』宙城に連れ帰ってきてくれた彼は、事あるごとに『魔道』を批判する。不本意ながら慣れてきたとはいえ、気持ちいいものではない。
「……人命をぞんざいに扱うことなど致しません」
 本を閉じ、机の上にそっと置いてオルドレットは眉をひそめる。
 静かに置いたつもりだったのだが、溜まった埃は小さく舞い上がった。彼らを取り囲む空気が、変わる。
「では、人命ではなく心はどうだ?」
 咳き込むこともせず、変わらぬ顔つきで彼を注視する兄王子は、優しい口調で問うてくる。
 心はどうだ、と。
 考えるべくもない。心とて同じだ。
 魔道で心は操れない。
 操りたいと思ったことはあったけれども。
「愚問です、兄上」
「ならば、問う。――ケイシスは、なぜ、俺の子供を身ごもっていると言っている?」
 刹那、オルドレットは全身の血が引いていく音を聞いた。
 防御壁《ホールド》の隙間から、抑えきれなかった風が吹き込んできたときのような、凄絶な音だった。
 いつか……いつか、咎められるに違いない。――そう思っていたはずなのに、理解していたはずなのに、いざ“その瞬間”に接すると、語るべき言葉は息を潜め、告げるべき想いは心に沈んだ。
 彼の様子に、ラグレクトは笑みを消し去る。
 そのように、無表情になるとラグレクトは実の父であるヴァルバラントによく似ていた。茶色い双眸に冷酷な気配を忍ばせるときに冴え渡る美貌が、沈黙しているオルドレットをさらに萎縮させる。
「話は聞いた。……俺は、ケイシスの腹の中の子が誰であっても構わない」
 まるで魔道の詠唱であるかのように、一言一言をはっきりと発するラグレクト。
「お前のガキでも問題ない。ただ……どうして、俺の子ってことになってるんだ?」
「……それは……」
「ケイシスがお前のことを俺だと思い込んでるから?」
 言い淀んでいるオルドレットとは対照的に、ラグレクトは自分で答えを口にする。そして、代わりの質問とでも言うかのように、オルドレットに尋ねたのだ。
「なら、なぜお前はそれを訂正しない?」
 語気が微かに強くなる。
 顔は変わらないが、オルドレットは瞬時に察した。
 ラグレクトは怒っている。それも本気で。
 感情の抑えきれない部分が魔道となって発せられて、彼らの周囲に積まれた本の何冊かが埃を撒き散らし、自分でページをめくり始めた。まるで、風に煽られたかのように、ものすごい勢いで。
「自分の子だと……ラグレクト・ゼクティではなく、オルドレット・ゼクティの子供であると主張しない?」
「ケ、イシス、が……壊れて、しまう、ので……」
 たどたどしく、オルドレットは答えた。
 それは、ケイシスの現状を説明した者たちと同じ理由で、ラグレクトは眉根を上げる。
 ――壊れてしまう、だって?
 胸の内からとめどなくおかしさが込み上げてきて、彼は危うく噴き出しかける。
 口元に手を当てて、笑みを噛み殺すのは、弟に遠慮してのことではない。
 ここで笑うと喉を痛めそうだと思ったから。
「そう簡単に壊れるものなら、壊れてしまえばいい」
 目を丸くして言葉を失う弟に、彼は言い放つ。
「それぐらいで壊れるものならば、壊れてしまえばいいんだよ」
「そんな、兄上……!」
 何を驚く必要があるというのだろう?
 驚かれることは言っていない。
(人が1人、目の前から消えただけ)
 それだけで、世界を崩壊させてしまう脆弱さ。
 優しく騙すことで守ってやるなんて、ラグレクトには理解できない。
 壊れるならば壊れてしまえばいい。
 ラグレクトは、地上に下りて知ったのだ。
 人は膝をついても、再び立ち上がることができるのだ、と。
 立ち上がれなくなった者の手を引き、無理矢理立たせることは、その者の生への冒涜なのだ、と。
 ……自分は立ち上がった。
 尊敬する、大好きな人を失って、隠された真実を知って、世界のすべてを壊してしまいたいと願ったこともあったというのに――膝を伸ばして立ち上がり、前を見つめ歩いている。
 自分だけじゃない。
 ジェフェライトも、テスィカも……大切な者を失った過去を誰かに守ってもらわず、自分で自分の道を歩いている。
 それこそが、“生きる”ということ。
「……ケイシスに真実を話す」
 断言して、ラグレクトは背を向ける。
 本当は、その役目はオルドレットにさせようと思っていた
 あの、可憐な少女が力尽きながらも懸命に立ち上がろうとしたとき、手を差し伸べる役はオルドレット以外には演じられぬゆえ。
 しかし、オルドレットはそれができない。
(壊すのは俺の役目か)
 幻の中に閉じこもる少女。
 その幻を見せているのが過去の自分ならば、それくらいの役目は負ってもいいだろう。
 ただ、自分は突き放すだけ。
 助け起こすことはしない。
「――お止めください!」
 制止する声は、焦りと哀願に彩られている。
「放っておいてください! 私は、自分の子であると言葉に出せないとしても、それでも……それでも、ケイシスが傷つかなければそれでいいのです!」
「ケイシスは傷つかないだろうけどな、別に傷つくヤツだっているんだ」
「だから、私は自分が傷ついても……」
 必死に訴えるオルドレットの声を遮り、ラグレクトは顔だけで振り向いて言い放った。
「……あのまま勘違いされてると俺が傷つくんだよ」
「えっ?」
 一体何のことなのか、わからずに弟が黙したその隙に、彼は部屋から出て行った。
 かつての恋人、ケイシスの元を訪れるために。


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