Deep Desire

【第7章】消えてしまうその前に

<Vol.6 別離>

 自分の部屋の前でテスィカは考えこんでいた。
 このままでは本当にジェフェライトは1人でウィングールに行ってしまう、何とかしなくては……、と。
 気持ちは焦るのに、具体的にどうすればいいのかという案は、まるで浮かんでこない。
 すぐに思い当たったのは、「力ずくで言うことをきかせる」。
 だが、この案はひらめいた直後にテスィカ自身が「不可」と判断した。
 ジェフェライトを力ずくでどうこうできるかが問題ではなく、もう少し穏便な方法を探せば見つかるかもしれないと思ったのである。
 そうやって考え始めてどのくらい経過しただろうか? 『剣技』の王子と共に監獄都市に行く方法は、未だに見つけられていない。
 茶色い髪の、あの人の良さそうな青年の主張は、厄介なことに“崩し”にくいのだ。
 監獄都市では女であることが不利になるというだけなら、テスィカは男装でも何でもしよう。が、2人で行動できない理由が別にある――3族は一緒にいると姿を変えることができない――のだと言われては、ついて行くと強固に主張はできなかった。
 フライのアーティクルは元より、ギガのキーファ都市長たちは『賢者』であるテスィカの存在に驚いたものの、彼女を聖都に売り渡そうとはしなかった。そのため、彼女は『賢者』であることを隠す必要などなかったが、ウィングールに潜るとなると話が異なる。最終的な目標が聖都にある限り、ジェフェライトもテスィカも自分の素性をギリギリまで知られるわけにはいかないのだ。
 よって、戦力の面から同行を主張してもジェフェライトは首を縦に振ってはくれまい。
 ならば、情に訴えるのがいいのだろうが……それは既に試してある。
 試してみて、ダメだった。
「あいつ、本当に頑固なんだから……」
 キーファや副都市長が退出した後で、テスィカはジェフェライトに懇願した。しかし、穏和な『剣技』の王子は慌てることもなく、微笑しながら、
「困りましたね……まぁ、明日じっくり話しましょう」
と、前言を翻《ひるがえ》さなかったのである。
 その台詞でテスィカは思った。
 ジェフェライトは困っていない。
 明日、じっくり話し合うつもりなんてない。
 一刻も早く何とかしなくては、と。
「……くそっ、何かないのか、何かいい手は……!」
 ため息をつき、テスィカは眼前の扉に拳を軽く当てた。本当は、そうやってジェフェライトを叩きたい気分なのだが、本人がいないので彼女はもう1度、拳を扉に当てた。
「1人でなんか、行かせられるか」
 ラグレクトを待つことには異論などない。
 再会したいというよりも、自分の魔道を解いてもらう機会が欲しいためである。『剣技』の宙城ではラグレクトと十分に話し合う時間がなかったのだ。昨夜のように倒れてしまうことのないよう、しっかりと魔道を解いてもらいたい。
 けれども、ラグレクトを待つためにジェフェライトを1人で行かせることはやはりできない。
「放ってなどおけるものか……!」
 彼は気づいていないのだろうか?
 瞳がすべてを物語っていることに。
「放ってなど……!」
 ジェフェライトの茶色い双眸に秘められていた、未知なる彼の決意を思い浮かべると、このままではいけないという気持ちになる。
 茶色い瞳――ラグレクトのそれだけでなく、ジェフェライトのものでさえ、思い起こすとテスィカは自分さえ知らない感情が心に在るのを、知る。
 昔は違った。
 昔は、ルキスへの復讐のために生きてきたここ数年間は、自ら厄介ごとに首を突っ込むような真似はしなかった。しようとさえ思わなかった。
 もし、今回のように「すべてが整うまでは傍観者でいろ」と言われれば、喜んでそれに従っただろう。
 変わってしまった自分……。
「……私は、あいつを1人で行かせたくはない」
 追い詰められるまで弱音を吐けない脆い面を、自分だけが知っている。
 支えなくては、この自分が。
 ラグレクトの魔道に動かされるのは口惜しいが、そんな感情は後回しだ。
 もう、ジェフェライトの泣いているところなど見たくない。
 あんな風に、優しく、柔らかく笑う人の悲しい顔は見たくない。
 1人ですべてを背負わせてはいけない。
(だからといって、どうしたら……)
 ジェフェライトも、キーファも副都市長も、テスィカがウィングールに行くことに反対しているのだ。
 味方など……。
 ――いや、いる!
「どうしたのですか、テスィカ様」
 その声は、彼女が心に描いた人物のものだった。
 テスィカは、勢いよく振り向いた。
「扉の前で、ぼーっとして、どうしたんです?」
「ハルカさん……」
「はい?」
 テスィカは、首を傾げるハルカを見つめた。
 ひらめきがテスィカの脳裏で羽を広げる。
 ウィングールが故郷である彼女なら、テスィカを連れていくことができる。また、監獄都市で女が生活していく方法を知っているに違いない。
(それだけじゃない……)
 仮に、テスィカとジェフェライトが別々にウィングールに潜入した際、中で合流する方法も彼女であれば……。
(ハルカさんは、あの朝食会、途中からいなかった)
 それはつまり、ジェフェライトが出した結論も知らなければ、テスィカの同行に男たち3人が反対したことも知らないはずだ。
(ならば……)
 テスィカは溜飲を下げる。
 少しばかり強引だと自分でも思うし、寡少の良心も痛むのだが……。
(あとで謝って、わかってもらおう)
 嘘をついた、その詫びはきちんとするから。
 意を決し、テスィカはハルカに、とうとう言ってしまったのである。
「実は、先ほどの会で決まったのですが……」
「……それは、ウィングールのことですか?」
「はい。夜までに、あなたの準備が整い次第、私とあなたが一足先に、ウィングールへ行くこととなりました」
「私とテスィカ様が、ですか?」
「ええ。ジェフェライトたちは、別のルートでウィングールへ向かうこととなります。あちらに入ってから、合流する予定なのですが……」
「そう、ですか……」
 ハルカが目を伏せ、微かに微笑んだ。
 その姿は、テスィカの脳裏にしっかりと刻まれたのだった。
 後《のち》に、テスィカは彼女の笑みが哀しく見えた理由を知る。
 激しい後悔の念と共に。
「わかりました。では、もう少し中でお待ちいただけますか?」
 出立前に、どうしてもやらなければならないことがあるのです。
 重々しい響きの言葉に、テスィカは感じ取ることができなかった。
 込められた意味を。
 運命の歯車がカタリと回った音さえも。



 私室に戻るや否やキーファは、一目散に寝台へ向かった。
 徹夜明けの仕事に打ちのめされていたのである。
 肉体的な疲労であれば、水や熱湯を浴びるか、もしくはグルファを飲めば立ち直ることができよう。だがしかし、精神的な疲労はそうもいかないのだ。
 大仰にため息をついて、服を脱ぎ捨てると、彼は寝台に倒れ込んだ。
 と、目の前にしわくちゃになった布を見つけ、腹筋で身体を起こして寝台の上を眺めてみせる。
「ひでぇな、こりゃあ……」
 一面、汚らしく脱ぎ捨てられた服だらけ。今しがた、放り投げたものがどれだか判別することもできない。
 もちろんすべて、キーファのものだ。キーファは私室の寝台に女を呼ぶことがないからである。
 情事は都市城《シティキャッスル》の外で行うようにしていたし、仮に中に連れ込むにしても数ある客室を使うようにしていた。
 別に私室を「自分の聖域」などと謳っているわけではない。生活の一端が垣間見られる私室に、女を連れ込んで口説く気にならないだけだ。
 彼にとって、女を抱くことは一種の現実逃避である。
 時には仕事を持ち込む私室で現実逃避などできようはずがない。
 ただ、その私室の寝台で、裸体をさらす美女も皆無というわけではない。例外は、ハルカだった。
 ハルカとの情事は、彼女の部屋よりもキーファの部屋での方が回数が多いだろう。大抵は、疲れ果てて今のように寝転がったキーファの面倒をハルカが見てくれているときに、キーファが欲情するという流れであった。
 彼女を抱かなくなって久しい今、部屋を片付ける者はいない。
 この部屋だけは掃除の者も入らないように命じてあった。一度行為を邪魔されたからだが、その命令を取り消す時期に来ているのかもな、とキーファは考える。
 自分では片付ける気にならないし、朝、起こしにくる副都市長はやってくれない。
 ハルカをここに呼ぶことも、もう無い。
(……ウィングールか……)
 金髪の少女のことを思い描いた途端、キーファの意識は地下の都市へ飛んでいく。
 監獄都市ウィングール。
 だが、キーファにとって馴染みのある言い方はこうだ――暗黒都市ウィングール。罪人を用いて暗殺者と密偵を養育する闇の都市。
 できることならば、あの都市にキーファは近づきたくはない。
 近づいてしまえば、それをハルカが感づくだろうから。
(あれから、何年経ったんだ?)
 立てた膝に頬を乗せ、キーファは記憶を遡っていく。倦怠感はあるものの、睡魔は一歩退いた。
 ウィングールでハルカに手を差し伸べてから、どれほどの月日が経っただろうか? パッと考えても出てこない。
 彼にとっては、遠い昔のような気がする。
 ただ……ハルカは違うだろう。
 彼女は今でもウィングールを恐れている。
 泣くのだ。
 夜中、あの都市での日々を思い起こし、ハルカは泣くのだ。
 夢を見てのことなので、朝になったらハルカはそれを覚えていない。けれど、彼女を抱きしめ、髪を梳き、あやすキーファが忘れることはない。
 安らかな眠りについた彼女の華奢な身体を抱きしめながら迎えた朝に、キーファは必ず自分に問う。
 ハルカをウィングールから離してよかったのか、と。
 もちろんだ。そう答える自身の声に被り、連れ出したのは良かったが、それがお前であったからこそ彼女は未だに苦しんでいるのではないのか?と責める言葉をキーファは聞く。
 寝台でハルカを抱くたび、彼女はキーファの胸の傷を痛ましそうに見つめている。
 傷を通して、ウィングールを思い起こしているに違いない。
 彼女を苦しめているのは、誰でもない、キーファリーディング、お前自身ではないのか――内なる声を聞いたとき、キーファは己を嘲笑せずにはおられなかった。
 なぜ、自分は、苦しむ少女の癒し方1つとして知らないんだろう、と。
 あんな風に、無防備に泣く少女の心を癒してあげる術を知らない、なんて無知な男なのだろう、と。
(すまねぇな、ジェフェライト殿)
 彼は、茶色い髪の王子にそっと謝罪した。
 『剣技』の現状を憂いてはいるが、積極的に協力はできない。
 ウィングールが関わる限り。
 せめて有用な情報だけでも教えて……。
 キーファの思考は、一瞬のうちに引き裂かれた。突如襲い掛かってきた殺気によって。
「――!」
 彼は膝から頬を離し、素早く寝台から転がるようにして降りた。
 近くに置いていた愛剣もしっかりと手に取る。
 キーファがいたところに、皺だらけの衣服に短剣がつきささっていた。
 誰何の声は発しない。
 強襲してきた者は見知った者、だ。
「――ハルカ!」
 応えるように、キーファの元に再び短剣が突き刺さる。
 彼は剣を鞘から抜いた。刀身で立て続けに数本叩き落す。
 そして、扉のところに佇む少女を見つめた。
 黄金色の髪。冷めるような美貌。右手に細く長い剣を、左手に幾本もの短剣を。
 キーファは笑った。
「……これは夢か?」
 朝、同じ卓で食事を取った少女である。
 今、心に思い描いていた少女である。
 ハルカである。
 ハルカなのに、なぜ、そのような格好をしている?
「夢なのか?」
「違うわ、現実よ、キーファ」
 少女は言い放ち、短剣を投げつけてくる。
 そのすべてを弾き、キーファは再びハルカを見つめ返した。
「どうして……」
「私はウィングールに戻るわ、キーファリーディング。それがあなたの望んだことだから……」
「なっ……」
 目を見開いたその刹那、おそらくは隙が生じたのだろう。
 投げつけられた短剣をすべて落としきれず、1本が太ももに突き刺さる。
「くっ……」
 痛みが全身に喚起した。
 これは現実なのだ、と。
 ただ、現実だとは到底思えぬことだった。
 彼女がウィングールへ戻るなんて。
 それを自分が望んでいることなんて……!
「何を言ってる? ハルカ?」
「あなたの望むとおり、してあげる。でも……このままじゃ、ウィングールに戻れないの」
「ハルカ……」
「あなたを生かしたまま、ウィングールには戻れないのよ!」
 言い放ち、ハルカは剣を振り上げてきた。
 キーファはそれを真正面から受け止める。
 至近距離にあるハルカの顔には表情というものがなかった。本気の行為かどうかも推察することは難しい。
 誰かに操られているのか? その可能性も視野に入れ、彼はなるべくハルカを傷つけないように戦おうと決意したが……。
「……?」
 不意に、身体が異変を訴える。
 どうしたことだ、と訝る彼の内心を察し、斬りかかった少女が酷薄な笑みを口端に刻んでいた。
「さっき投げた短剣には薬が塗ってあったのよ」
「毒か!?」
「……ここで死んじゃうあなたにはどうでもいいこと」
「ハルカ……」
 本気なのか、と問う前に。
「あのときはごめんなさいね。私が未熟だったばっかりに、あなたを死なせてあげられなかった」
 男がうっとりするような艶っぽい声音で、愛の告白でもするかのように言う少女。
「今度は、あんな傷にならないように――殺してあげる」
 剣に込められた力が増す。
 キーファは舌打ちして、彼女を力ずくで押しのけた。
 それから太ももの短剣を引き抜くが、視界は既に歪んでいる。
 立っていることも辛くなってきた。
 死ぬのかもしれない、という恐怖よりも、なぜこんなことが、という疑問の方が心の中に渦巻いてやまない。
 夢であるはず。
 これは、夢であるはずだ。
 少女は、生まれ変わったはずだ。
 自分の手を取ったあのとき、生まれ変わったはずなのだ。
 ハルカという名の暗殺者は、この世にいないはずなのだ……!
「夢、だ……」
「夢じゃないのよ」
「夢だ、これ、は、夢だ」
「違う、現実よ。お人よしね、あなたって人は……私はずっと、あなたの命を狙っていたのよ」
「嘘だ」
「嘘じゃない。だから、あなたの傍にいたし、あなたに抱かれたりもした」
 彼は何度も口にする。
 これは、夢だ、と。
 こんなことは夢に違いない、と。
 薄れていく意識の中で。



「ゆめ……だ……お、まえ……泣いて……る……」
 最後まで言い切れず、床に倒れ伏した男の言葉でハルカは泣いていることに気づいた。
 視界がぼやけて邪魔な涙を手の甲で拭うのだが、なぜかそれは、次から次へと頬を伝って落ちていく。
 諦めて、自分の剣を鞘に戻し、それを彼女はとりあえず寝台に立てかける。
 キーファは完全に意識を手放していた。
 寝台で寝ているときでさえ、刺客を気にし、意識を澄ませている彼が意識を失ったところを見るのはこれで2度目。
 ハルカがつけた傷で生死の境を彷徨った、あの時に次いで、2度目。
 じっくりと眺めてから、ハルカはキーファの上半身へ視線を移した。
 胸に踊る大きな傷は、変わらずそこに存在している。
 ハルカの罪の痕として。
 キーファの太ももに刺さった短剣、それに仕込んだものは毒ではない。意識を混同させるための薬であった。
 だから、彼はまだ死んではいない。
 この、自分のつけた傷に剣を突きたてるまで、彼はまだ生きている。
 ハルカは、懐に手を入れた。そこに短剣がまだ残っている。
 今ならば、彼を殺せる。
「キーファ……」
 今でなければ、彼を殺せない。
 わかっているのに――わかっているのに!
「キーファ……!」
 なぜ、ここに剣を突き立てられないのだろう。
 なぜ、こんなにも、名前を呼んでしまうのだろう。
 意識などないのに、どうして、どうして、その唇が「ハルカ」と呼ぶのを自分は待っているのだろう……!
「ごめんなさい、キーファ」
 あなたの口から、「行け」と命じられるのは辛すぎて。
 あなたの口から、「もう要らない」と言われるのは辛すぎて。
 だから……私の口から言わせて欲しい。
「さようなら」
 懐から剣を持たずに手を抜いて、ハルカはキーファの傷へ唇を寄せる。
 赤く残った口付けの痕に、涙が数滴伝い落ちた。



 『賢者』の王女と、ギガ都市長秘書官ハルカが監獄都市へ旅立った。
 その知らせが残った者たちに知らされたのは、日が暮れかけた頃だった。


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