Deep Desire
『剣技』でのそれとは比較にならない豪勢な朝食会は、思いのほか長く続いた。
料理人が腕を奮った料理のほとんどが下げられ、卓上には果実だけが残っている。その状態になってかなりの時間が経過していた。
それでも、集まった中で1番忙しいはずのキーファリーディングが未だに話に花を咲かせている。彼と共に卓を囲んでいる者――副都市長、ハルカ、テスィカ、そしてジェフェライト――は、今ではもう、果実を摘まむこともせず、ただ話を聞くだけのために席についていた。
キーファが語っているのは幾つもの冒険譚だ。人々の口から口へと伝わった物語などではなく、彼が“深紅のキーファ”と呼ばれていた頃、自らの身体をもって作り上げた話であった。
ギガの都市長となってからも、キーファは自分の歩んできた道を必要以上に隠すことはない。だから、そのような話をするのも決して珍しいことではなかった。
ただし、彼が自身について多くを語るのは、美女と戯れる寝台の中だけ。その事実を踏まえると、ジェフェライトやテスィカは、知らぬこととはいえ、非常に珍しい事態に直面していたのである。
3族に名を連ねる2人、特に地上の生活経験が皆無のジェフェライトは、興味深く聞いていた。
宙城から見下ろすことのできる都市や街は小さすぎて、そこに人が住んでいるという実感を抱きづらい。外観に多少の違いがあれど、どれもこれもが同じように見えてしまう。それがキーファの話を聞くと、都市や街は、すべて独自の特色を持っているようだった。
(地上にいる人々は、私たち3族をどういう風に見ている?)
キーファの話を聞くうちに、ジェフェライトは1人、自分たちのことについて考え始めた。
ラリフ国民は、3族をどう思っているのだろうか?
地上から見上げる宙城も小さすぎて、そこに誰かが住んでいると信じていないかもしれない。
3族と地上の間に交流などないに等しい。それは3族が、宙城から出ることが少ないからだと思っていた。だが……。
(もしかしたら、忘れられているのかもしれない)
実は、空に浮かぶ城の中に人が住んでいるということ、それを多くの者が忘れてしまっているのではないだろうか。
宙城には誰もいない――監獄都市ウィングールを記憶の中に置き忘れられたように、あるいは、3族の存在もいつか忘却の彼方に打ち捨てられる可能性はありうる。
そう思うと、ジェフェライトの背筋に寒いものが走った。
さらに思考の深みにはまりかけたジェフェライトだったが、そのときちょうど、大きなため息を耳にして我を取り戻した。
視線をキーファから、ため息の主、彼の隣に座る副都市長へと移す。
赤髪の青年は、実に珍しく、不機嫌さを顔に表している。
黙して語らない副都市長の内心を嘆息は如実に物語っていた。
だいたい、副都市長はキーファが食前酒を飲み始めた時点で、
「徹夜明けの酒は効くぞ……君は若くないんだから」
と彼らしい口調で注意を促していたのである。こうなることをあらかじめ読んでいたのだろう。
が、キーファの長広舌は、副都市長の予想を大幅に裏切ったようだ。忠告を無視したキーファの饒舌に、当初は無表情に沈黙を貫いていた副都市長が次第に渋面を形作っていった。目で“時間の無駄だ、早くやめてくれ”と主張しながら。
そして今では、卓に頬杖をつき、全身でキーファを批難している。
あまりにもあからさまなので、ジェフェライトは心底驚いた。彼の前にいる青年は、その地位もさることながら、常に年齢不相応な大人の落ち着きを欠かさず持っている青年である。性格を熟知しているわけではないが、少なくとも、客人の前で投げやりな態度を取るような“人となり”ではないとジェフェライトは思っていたのだ……驚かずにいられようか?
副都市長がそんな姿勢でいるのには、途中、来客をキーファが無視したことも関わっているに違いない。
少し前に、ギガの賭場組合の者が急にやってきたのである。話したいことがある、と言って。予定に入っていない、急な来訪のようだった。
「キーファの代わりに僕が出よう」
賢哲で冷静な青年が隠し切れなかった悦混じりの声は、だがしかし、残念ながら却下された。ハルカが応対に出たからだ。
副都市長よりも若い――見た目では彼と同じくらいだと思わせる――ギガ都市長の秘書の少女は「これは私の仕事でしょう」と言い、すたすたと1人で部屋から出て行ってしまった。
ハルカが帰ってくる気配もなく、キーファの話を止める者はいない。
時間が経てば経つほど深くなる副都市長の眉間の皺が、ジェフェライトの気持ちを焦らせた。
(ここはやはり、私が止めるべきなんだろうか?)
年長者の言葉を遮るのは失礼に当たるため、口は挟めない。何か適当な理由でもつけられないだろうか、とジェフェライトが笑顔の裏側で思案にくれはじめた、まさにそのとき。
一瞬、黙りこんで天井を見上げたキーファが、唐突にも上半身の服を脱きだした。
呆気に取られた傍観者たちは、一拍の沈黙の後に声を揃えて名を呼んだ。
「キーファ様!」
「キーファリーディング殿!」
「キーファ!」
突発的な行動に対する驚愕は、声にありありと表れる。
そしてその声を発した3人のうちの2人は、口を開けたまま固まった。外気にさらされるキーファの身体、その一部分に視線を辿らせた途端に。
40近い男の体とは思えぬくらい鍛えられた上半身の左胸――心臓よりもやや下ほど、そこに大きな傷痕がある。
ジェフェライトは言葉を発しないまま、溜飲を下した。
大量の血が流れ出たことなど想像するに難くない、それほどに大きな傷。直線的にわき腹から体の中央まで走っている傷は、剣によってつけられたものだろう。
自分が負ったわけではないが、血の気が引く。剣を扱うものならば、誰もが目を覆いたくなる、それほどの傷である。
「言ったろう? “深紅のキーファ”は無数の傷の持ち主だって……この傷は、俺がウィングールに潜入したときにつけちまったもんだ」
先ほどまで、数多の修羅場を熱っぽく語っていたのとは別人のように、ひどく落ち着いた声でキーファが言う。
ウィングール、という都市名にテスィカがいち早く反応した。
「行ったことがあるのですか、監獄都市に」
「あぁ。捕まえられて放り込まれたわけじゃねぇけどな。仕事で潜入したことがあるんだ」
だからウィングールの場所を知っていたのか、とジェフェライトは朝食前の会話を反芻《はんすう》させた。
仕事、というところに引っかかったが、話の腰を折らずに彼は口元を結んだ。
「俺は、ウィングールがどんなところか知らずに入った」
彼はジェフェライトとテスィカを交互に見つめたまま、指先でスーッと傷をなぞる。
「その結果が、この傷だ」
引きつった傷を指でなぞっても血など出るはずがないというのに、ジェフェライトは眉を顰めた。自分の身体の同じ場所から血が出ているような感覚が沸き起こり、呼吸さえ苦しくなってくる。
(違う、これは、私の傷じゃない)
己に言い聞かせて、ジェフェライトは目を眇める。赤い双眸を向ける都市長は、酩酊している人のそれとは思えぬ重さを持った台詞で応えた。
「軽率な行動は、一歩間違えば、死を近づける」
一瞬、ギガの都市長の姿は彼の中で別の人へと変貌を遂げた。
“命令とはいえ、深く考えず聖都に来るとは……命を粗末にするものではないよ、『剣技』の王子”
――金の将軍、ルキスへと。
ほんの一瞬のことだったが。
ジェフェライトは無意識に塞がったはずの肩の傷口に手をやる。
彼の内心など読み取れようはずもないが、キーファはそこでようやく彼らから目を逸らした。
「お前さんたちの事情は察してる、だから協力は惜しまない。――が、ウィングールへ行くことは奨められない。お前さんたちの心情が変わらぬのと同じように、俺のこの意見も決して変えられねぇ」
「……僕も同じ意見だ」
見ると、副都市長も複雑な表情をしていた。
「キーファの言っていることは正しい。あなた方は、『剣技』と『賢者』の唯一の王位継承者。身の安全を図れる場所に留まり、ルキスの動向を探ることがいいでしょう……特に『賢者』の王女殿は」
「ギガの副都市長殿、あなたの言いたいことはわかる」
テスィカは言葉に気をつけながらも堂々と言い返した。
「……わかるが、私はこの地上を4年も彷徨《さまよ》っていた。4年でわかったことがある。それは、ただ逃げ回って勝機をうかがうだけでは何も変わらないということだ」
「これから変わるかもしれないではありませんか」
「そうかもしれない。だが、もう待てない。私は、逃げることに疲れ果てた……!」
彼女の語気は強く、副都市長の口を閉じさせた。
地上で生活したこともないジェフェライトだが、テスィカの言うことは理解できた。
彼には、『剣技』の剣を持ち、“御使い”ファラリスと聖都軍から逃げていた頃があった。それも、そう遠くはない過去の話だ。
逃亡は精神力を減耗させる。行為自体が後ろ向きなので、そこから生み出されるものは少ない。攻勢に転じた方が、同じ疲労を感じるにしても得るものはあるのだ。
テスィカはおそらく、得られるものが極端に少ない方よりも、得られるものも失うものと同様に多い方を選んだ。聖都へ行くと言い出したのは、そういうことに違いない。
形は違えども、彼女も追い詰められているのだ、自分と同じく。
そう思うと、彼女の言うこともジェフェライトにはなんとなく理解できた。
「お二方のお気遣いはありがたいが、私の心は変わらない」
ギガの男たちの配慮を退けて、黒髪の王女は断じた。
それでもなお、キーファは言う。
「ウィングールには腕の立つ者が多い。あそこの中では、他国の内情を探る密偵や、暗殺者も育てられている。そいつらは、はっきり言って強い。俺のこの傷は、ウィングールにいた暗殺者につけられたもんだ。俺の隣にいる、さっきから苛立ってる誰かさんに傷を塞いでもらったり、さっき出てった愛想のいい女に毎日看病されなかったらとっくに命を落としていた――その話を聞いてもお前さんたちは、行くというのか? ジェフェライト殿、本当に本気か?」
「テスィカさんの言葉をお借りすれば、私の心も変わりません。……すみません」
しばしの沈黙の後、キーファがため息をついた。
両手を軽く広げ、降参とでも言いげな顔をする。
(……よかった)
ジェフェライトは安堵した。
監獄都市に、予想以上に詳しいキーファの協力を得られれば、聖都潜入は楽になるからだ。
それに、案じてくれるのは嬉しいが、できれば背を押して送り出して欲しい。
ジェフェライトは、『剣技』の宙城を出てくるときに覚悟していた。
命を落とす危険性に対して。
『剣技』の剣を取り戻し、あわよくば剣と共に宙城へ戻るつもりだ。
だがしかし、ルキスの剣術は自分のそれでは太刀打ちできない。彼の連れていたコウキという名の少女にさえも歯が立たなかったのだ。『剣技』の剣を取り戻すこと、存命のまま戻ること、両方を選び取ることなど難しいとわかっていた。
だから……きっと、キーファや副都市長、ハルカと会うのもこれが最後になるだろうと思っている。最後だと思っているから、多少の無理も我慢して聞いてもらいたい。
(そうだ……)
小さく深呼吸して、彼はテスィカへ向き直った。彼女にも聞いてもらいたいわがままがあったのだ。
「テスィカさん、あなたはここに残り、ラグレクトを待ってください。私が一足先にウィングールに入って、あなた方が潜入しやすくなるよう環境を整えます」
「な……なんだって……?」
「男と女が同時に監獄都市に入れば目に付きますし、私たちが共にいては、共鳴しあって姿を変えることができません」
常にない強い口調で言ったのは、心の奥底で「ついてきて欲しい」と願う自分を消すためだ。
――そう、ジェフェライトは、ついてきて欲しいと願っていた。
かの都市がどれだけテスィカに危険な都市か、キーファたちから聞いたというのに。
「確かに、私たちが一緒にいれば、共に姿を変えることは適わない。だからと言って、ジェフェライト、1人で行くというのか!?」
「そうです。罪人としてもぐりこむのは、女よりも男の方がいいですよね、キーファ様」
話を振られたキーファが「あぁ」と簡潔に返答した。
「そういうわけです。……監獄都市に入ったら、まず、連絡手段を確保します。あなたとラグレクトが合流したら、速やかに監獄都市に入れるよう話し合いましょう」
言い終わった後で笑う。
嘘だったから。
連絡手段は確保しない。足がつくと自分さえ危うくなる。
テスィカとラグレクトが監獄都市に入れるよう話し合うことはない。ラグレクトとの合流は、置いていくつもりのテスィカを預けるために考えついたのだ。彼女を頼む、との手紙は、もう既にラグレクトに手渡してある。……向こうはまだ気づいていないかもしれないが。
――すべては嘘だった。
だが、嘘とわかってしまってはいけない。
だから笑顔で言うのだ。
「ジェフェライト」
「なんでしょう?」
「そんなことを聞いて、私が納得すると思ったのか!? わかった、なんて言えるわけがないだろう!?」
真っ直ぐに自分を見詰める黒い瞳に彼は語りかける。ジェフェライトの胸が熱くなり、そして、痛みを伴った。
婚姻の儀式でもないのに、抱きしめて、口づけたい衝動にかられる。
だが、それはできなかった。
それをしてしまったら、自分の決意が揺らいでしまうために。
再び、ついて来て欲しい、という衝動が頭をもたげ始めた。
(……甘えるな)
ジェフェライトは目を閉じる。
あの、抱きしめてもらった夜を思い出した。
(……出会えただけで十分じゃないか)
もしかしたら一生会えないままだったかもしれない婚約者。
こうして、会えただけで、十分だと思った方がいい。
言い聞かせて、彼は静かに目を開いた。
「わかった、と言ってください。では、明日もう一度話し合いましょう」
そのときにはもう、いないでしょうが。――もちろんその言葉を彼は飲み込んだ。
『魔道』の宙城、2本ある塔のうちの1つは入る者が限られている塔である。
制止すべきかどうかを迷う『魔道』たちを退けて、ラグレクトは螺旋階段を昇っていた。
向かっているのは最上階。階段を一段ずつ昇らなくても、最上階へ飛ぶ『魔道』独自の転移門《テレポートゲート》が塔の入り口には設置されている。ただ、城を出て久しい自分がそれを使えるかどうか、ラグレクトには不安だった。使用できぬ転移門に入って、別の塔――『魔道』一族の掟を破った者たちが監禁される塔――にでも飛ばされでもしたら、冗談ではない。面倒くさいが、地道な方を選んだ理由はそれである。
『魔道』はあまり身体を動かすことが好きではない。それは『魔道』の特色で、彼らは剣を持たぬがゆえに身体を動かすことはもとより、汗をかくことさえ嫌っていた。
だから塔を守る兵士は、階段を昇ってこない。ゆっくりとラグレクトは昇りきることができたのだが……。
(ちょっと段数多すぎないか?)
身体を動かすことを厭《いと》わない、『魔道』一の異端として知られる第1王子も、さすがに疲れた。大仰に息をつく。
物には限度というものがある、そう言ってやりたい気持ちを抑えたのは、忍耐強いからではない。
誰も昇りきらない階段の不満を述べても、わかってもらえるはずがないからだった。
(くそ、さっさとこんなところ出てってやる)
決意した彼の眼前には扉があり、その両脇には兵士がいた。何の変哲もない杖を持った『魔道』の民たちは、扉を守るようにその杖を構える。
ラグレクトは、伝い落ちる汗を拭って、彼らに言う。
「退け」
『魔道』兵士2人は顔を見合わせて、困惑していた。
面倒くさいと思いながら、ラグレクトは再び口を開く。
「俺が誰だか知っているのなら、退いてくれ」
「し、しかし……」
「退かないなら退かないで、そりゃ結構だ。――力ずくで行く」
彼は腰に当てていた手を男たちにかざした。
といっても、この塔の中では魔道の力は発動しない。魔道を込めた杖無くしては。
それがわかっているはずなのに、魔道を放つ格好をしただけで兵士たちは青ざめて飛び退いた。
ラグレクトの唇の端に笑みが浮かぶ。言わずと知れた嘲笑だった。
「開扉《かいひ》せよ」
彼が命じると、扉は音もなく押し開かれる。
視界に入ってきた室内は、昼だというのに薄暗く、重い空気に満たされていた。
驚愕に息を飲んだ者たちの視線はすべてラグレクトに集中する。
それを気にも留めず、彼は部屋に入っていった。
「ラグレクト王子! 何たる無礼な振る舞いを……!」
「あんまり長い話し合いなんで、待ちきれなったんでね」
両手を広げ、彼はぞんざいな口調で答えた。
それが気に入らなかったのか、鎮座した老人のうちの1人が厳しい口調で彼を諌めた。
「王子、そのような言葉遣い、族長に失礼ですぞ!」
それをちらりと目で流し、ラグレクトは腕を組む。
口元に刻まれた笑みは、より一層深くなる。
「失礼で結構。――俺を受け入れるべきかどうかで揉めているんだろう?」
彼の発言に、起こりはじめていた囁きが瞬時に一掃されてしまった。
事態を伺うような様子で、居合わせた者たちが視線を交差し始める。
馬鹿馬鹿しい、とラグレクトは声に出さずに1人ごちる。
『魔道』の重臣たちは、ラグレクトを迎え入れるかどうかを決めかねているのだろう。
彼らの自尊心では、自族を捨て外に出た『魔道』の民など永久に許せぬことになる。だが、相手はラグレクト、族長の息子であり、王位継承権保持者である。加えてラグレクトは、弟のオルドレットよりも魔道も剣も優れている。剣の力は磨けばあるいは上達するかもしれないが、魔道の能力は生まれた時点で決められる。将来的に、オルドレットが族長を継ぐとしても、彼より力のあるラグレクトは常に、目の届くところにいなくては困る――紙一重で危険な存在に変わるから。
彼らは必死に悩んでいる。ラグレクトの意向など無視して。
(その、他人を顧みない身勝手さが俺は嫌いなんだよ!)
心中で毒づき、彼は吐き捨てるように言った。
「揉めることはない。俺はここから出て行くんだから。気にするな」
「そんな、坊ちゃま! 我々は坊ちゃまが必要なのです!」
扉から真正面の位置にいるヴァルバラント、そのすぐ隣。初老の男性が縋るように叫んだ。
ラグレクトは眉根を寄せる。言われた内容そのものよりも、あと数年で――ラリフ帝国一般の年歴でいえば――30になる身だというのに「坊ちゃま」と言われたことが気に障る。
「俺がいなくてもやってこれただろうが。オルドがいれば十分だろう」
「ダメなのです! 坊ちゃまでなければダメなのですよ! オルドレット様では……」
瞬間、『魔道』の第1王子は憤りを隠さずに表した。
「ふざけたことを言うなよ、爺《じい》」
茶色の双眸を眇めて彼は老人を凝視する。
「オルドは俺の弟だ。そしてそこにいる族長の血を引いている。――あいつじゃ事足りない理由などない」
青年は声のトーンを下げた。
目の前にいる、『魔道』の血に縛られた男や女が忌々しいのだ。
1人の人間に「ダメだ」という烙印を勝手に押しつけた。それが何とも腹立たしい。
彼は考える。なぜ、そこまでして部屋に集まった者たちは『魔道』を守ろうとするのかを。
別空間に隔離することによって築かれた楽土に居座りながら、さらに強い力を求めるのはなぜだろう?
オルドレットとて、能力が低いわけではない。王族に生まれた男として、抜きん出た力を持っている。それより何より、『魔道』以外を認めず、『魔道』を誰よりも愛し、『魔道』のためにあろうとしている男なのだ。
その彼ではダメだという。
『魔道』以外の存在を認め、『魔道』を誰よりも蔑んで、『魔道』を捨てようとしている男を必要なのだと言っている。
唾棄すべき滑稽さ。
自然とラグレクトは踵を返した。
「お前たちが俺を必要としていようと、俺はここを必要としていない。じゃあな」
「待て、ラグレクト」
美声、と評せるそれは既に怒りの色を失っている。
奇妙なほど落ち着いているのは悟っているようでもあり、もう顔を合わせるつもりなどないはずだった彼はゆっくりと振り向いてしまった。
固唾を飲んで見守る者たちの視線を二分する男は、白銀の杖を持って佇んでいる。
『魔道』族長、ヴァルバラント。
ラグレクトの実の父親。
険しい表情でラグレクトを見る族長は、宙城を飛び出す直前と何ら変わっていなかった。
(変わるはずがない)
ここでの“時”は、地上に比べて驚くほどゆっくりと流れている。人の心に至っては、変貌など縁のないこと。
(変わるわけがない)
この男にとって自分は、情けない息子でしかありえない。
息子? ……違う、息子なんて思っているわけがない。
ただの配下、だ。
恥知らずの『魔道』の民と思っているのだ……。
「……なぜ呼び止めた?」
彼は両手を腰に当て、真正面からヴァルバラントを見据える。
「我らが偉大な族長よ。なにゆえ私を呼び止められるかとお尋ね申し上げている」
慇懃無礼な彼の態度に、卓を囲んだ者のうち数名が色めきたった。ラグレクトは彼らへ挑発的に笑んでみせ、再度ヴァルバラントへ目を向けた。
「用向きをおっしゃっていただけませんか? あなたが私を呼び止められるなど、よほどのことでございましょう」
出て行くと告げたときでさえ、平然としていたくらいだからな。
言外に「今さら何のつもりだ」と匂わせながら、彼は返答を待っていた。
ヴァルバラントはそんなラグレクトをしばらく見つめ続けていた。
さして長くもない時間だったが、部屋に入る前から苛立ちが募っていたラグレクトである、さらに何か言おうと口をあけた直後。
「ケイシスに会ってはくれぬか」
思いもかけない――予想だにしない族長の懇願に、彼は言葉を失った。
そして……さらなる怒りが口をついて出る。
「……冗談じゃない。どうして今さら……!」
「坊ちゃま、この爺《じい》の最後の頼みでございます!」
彼の声を打ち消すように初老の男が叫びを上げた。
「どうか……どうか……ケイシス様をお救いくださいませ!」
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