Deep Desire

【第6章】金色の戦慄

<Vol.6 変転>

 夜の帳をそっと押し上げていくように、空が白みを滲ませていく。
 厳粛な気配をまとった大気が、囁くように息吹を宙城へ吹きかけた。
 神殿都市フライの上空に在る『剣技』の宙城は、雪季《せっき》をもたらす凍てついた風を黙って受け入れることしかできなかった。自然の災害全てを遮る防御壁《ホールド》は、今や湖面の薄氷に等しく吹き付ける風さえ防げない。
 真の支配者たる族長が瀕死の状態にあるがため……。
 冷風によって目を覚ました者たちは、起こってしまった、信じがたくも受け入れざるをえない事実に怒り、悲しみ、言葉を無くす。
 『剣技』がルキスに、一介の将軍に蹂躙《じゅうりん》されたという事実……それは吹き込む風よりも、彼らの心を冷やしていった。



(寒い……)
 身を震わせてテスィカは目覚める。
 項垂《うなだ》れていた頭を持ち上げ、首を左右にゆっくり振った。不満でも漏らすように、骨が鳴る。
 彼女は指を組ませたまま両手を高く上げ、小さく唸りながら伸びをした。夜通し寝台に座り込んだままだったためか、解放される喜びの声が体中から発せられる。
 ついでだから立ち上がって屈伸もしたいところだったが、それはとりあえずやめておく。
 膝の上にジェフェライトの頭があるからだ。
 『剣技』の王子は部屋に満ちた寒さも気にならないようである。寝息を立てて眠っている。床に尻をつき、テスィカの膝に突っ伏した状態で。
 テスィカはしばらく、彼の後頭部を見下ろしていた。
 柔らかそうな茶色の髪を、自分とは異なる茶色の髪を。
 と、テスィカはなぜか彼の頭を撫でたい衝動に駆られてしまった。
 理由などない。
 理由などない行為であるから、衝動を抑制する理由もやはりない。
 彼女はかつて、妹姫にやってあげたように、ジェフェライトの髪を梳くように撫でる。
 丁寧に、何度も何度も、頭を撫でる。
 そうしているうちに今度は、寝顔を覗いてみたくなる。
 顔を傾け、規則的な呼吸を繰り返す『剣技』の王子を彼女は凝視した。
 思えば、あまりじっくりとジェフェライトの顔を見る機会など今までなかった。
 レーレの街で初めて出会い、ほんの少し話したと思ったら離れ離れになったのだ。そして昨日、この宙城で再会した……考えてみれば、ジェフェライトとは大して言葉を交わしていない。
 彼のことを敬称なしで呼んではいるが、それはエリスとラグレクトの口癖が移ったようなものだろう。最初に会ったのが宙城でも聖都でもなかったことも、多少は影響していると思える。
 とにかく、ジェフェライトとはあまり親密な関係ではない。じいっと顔を見つめたことなどあるわけがないのだった。
(……エリス様とは似てないな)
 鋭角的な印象をもたらすエリスと比べると、彼は、全体的な印象が多少「そういえば」と思わせるくらいで、似ていないと言っても差し支えないだろう。
 これはあくまで「比べると」である。一般的には、ジェフェライトの目鼻立ちははっきりしている方だとテスィカは思っていた。
 寝顔は「柔和」よりも「凛々しい」という言葉の方を脳裏に先立って浮かばせる。普段、「柔和」の方が先行するのは、彼の口調が起因しているとテスィカは察した。
 それに彼は、常に穏和な空気を携えている。意識的なのか否かはわかりかねるが。
 この王子のすごいところはそういうところだとテスィカは思った。
 自分だったら、あそこまで追い詰められる前に感情を表出させている。そう、あそこまで欺瞞を通せない。
 ジェフェライトは、テスィカに似ている。己を責めつづけるところなど、特に似ている。
 だが、テスィカとは違う。テスィカには持ち得ない強さを持っている。脆さに目線を向けさせないだけの強さを、だ。
(この人は、他にどんなものを持っているのだろう……)
 手を止め、泣きつかれて眠ってしまったジェフェライトをテスィカは見下ろした。
“テスィリス、あなたの婚儀の相手が決まりました。『剣技』の王子、ジェフェライト殿です”
 母が言った。
 彼が自分の婚約者なのだ、と。
 婚約者……どんな人間なのかも知らないのに。
 彼は、どういう人間なのだろうか?
「ジェフェライト」
 呼びかけたわけではない。これは独り言。
 けれども、応えるようにジェフェライトの頭が動く。
 彼はむくりと頭をもたげて、半開きの眼でテスィカを見上げた。
 視線が絡み合ったまま、時は静かに流れていく。
 おかしくなってテスィカは苦笑し、言葉を選ぶ。選んだのだが、言うべき言葉は1つしか見当たらなかった。
「おはよう、ジェフェライト」
 ジェフェライトは数回瞬きを繰り返した。
「――し、失礼!」
 一気に目が覚めたのだろう、床に正座をし、身体を起こしてテスィカに真正面から向き直る。
 泣いたことで瞼は腫れてしまっているが、それでも可能な限り目を見開いていた。
「すみません!」
 と、大きく頭まで下げる。
「いや、謝る必要はない」
 慌てぶりがおかしくて、テスィカは小さく笑う。
 たかが一晩、膝を貸した程度。それほど大げさにされるいわれはない。
 彼女は確かにそう思っているが……彼の見解は全く違うで、ひたすら謝辞を口にする。
 これは話を変えたほうがよさそうだと判断し、彼女は寝台から立ち上がった。
「お尻、痛くないか?」
「いえ、これくらい大丈夫で……っくしょん!」
「おや、風邪を引いたかな?」
 言っているテスィカも、実は何となく喉の調子がよくないようだ。
 寒さで目覚めたくらいである。寝台の中に入っていたわけでもなく、寝台に腰掛けて寝ていたのだ。この寒さだ、風邪を引かないほうが珍しいだろう。
「とりあえず、顔でも洗ってきたらどう?」
 鼻をすするジェフェライトにテスィカが言うと、そうですね、と彼は返答する。その間にも、くしゃみが1回。
「本当に大丈夫なのか? 熊のくしゃみみたいな大きなくしゃみをしているのに?」
 しゃがみこんで、テスィカはジェフェライトの額に手をかざす。
 熱はないようだが、ジェフェライトは顔を赤らめて、案ずるに及ばないと告げる。
 心配するに決まっているというのに、だ。
 テスィカは口端を歪めながら、ジェフェライトに呟いた。
「意外と強情なんだな、あなたは」
 するとジェフェライトは、いつものように微笑む――かと思ったが、そうではなかった。
 明らかにムッとした表情で言い返してきたのである。
「……悪かったですね、強情で」
「怒るな、ジェフェライト」
「怒ってな……っくしょん!」
 鼻水が垂れそうになり、彼は慌てて鼻をすする。
 そうしてまた、視線が交差し、どちらからともなく彼らは笑い出す。
 お互いに目を合わせ、何も話さないのに彼らは笑い続けていた。
 やがて、そんな彼らを止めるように、格子窓から少し強めの風が吹き付ける。
 ジェフェライトは立ち上がった。
「……とにかく、部屋に、戻ります。族長の代わりに防御壁《ホールド》を張らなくては」
「できるのか?」
「わかりませんけれど、やってみますよ。……朝食の時間には使いを寄越しますので」
「あぁ、じゃあ、私は頑張って眠ってる」
「いい夢を」
 言って彼は、踵《きびす》を返した。
 最後にくしゃみを2回して。



 太陽が中空へ駆け上り、聖都が煌き始めた頃。
 『剣技』の民の案内により広間へ歩いていたラグレクトは、厳しい表情を崩さずに歩いていた。
 すれ違う『剣技』の民は、彼が『魔道』の王子であり、そして前日、自分たちを救ってくれた者たちの1人であることを話し聞いているのだろう。自族と等しく彼に敬礼するのだが、それに気づく余裕すら今のラグレクトにはないのだった。
(……どう考えても、そういうことだよな)
 ラグレクトは、何十回も言った言葉をもう1度心の中で呟いた。
 ――昨夜、いつの間にか寝入ってしまった彼は、明け方、思いも寄らぬ寒気で目を覚ましてしまった。
 何度寝返りを打っても眠れず、どうしようかと困っていたときのこと、話し声を耳にした。その声は、さして大きなものではなかった。聞き取れた方が奇跡的だったと言えなくもない。
 だが、それほどに小さな声だったからこそ、彼は起き上がり、扉へ向かって歩き出したのだ。
 『剣技』の族長、もしくは王女――もしくは『魔道』の第2王子に何かあったかと訝ったため。
 そろりと扉を押し開けて、彼は人影を懸命に探し、そして、見かけてしまったのである。
 テスィカの部屋から出てくるジェフェライトの姿を……。
(……そういうことだよな)
 別におかしなことじゃない。
 ジェフェライトは男だ。
 テスィカは女だ。
 そして2人は、名ばかりとはいえ婚約者。
 そういうことは十分ありえる。
 特に、今回の件でジェフェライトは相当参っているはずだ。
 そういうことは、十二分にありえると言える。
(嫉妬か? ラグレクト)
 己を嘲笑するように、彼は心で呟いた。
 いい年して嫉妬かよ? 好きな女を寝取られたことがないわけじゃないだろう。買い負けたことなんて何度もあったじゃないか。これで最後、ってわけじゃない。何を焦ってるんだ、お前。
 ……自分に言うが、「仕方ない」という気持ちにはなれない。
 どうしても、だめだ。
「くそっ」
 前を歩く『剣技』の民に聞こえないよう、彼は吐き捨てた。
 自分の気持ちに整理をつけられない。
 これから彼らに会うというのに……会うというのに。
(やっぱり、部屋で食事をとらせてもらおうか)
 それが懸命だと結論を出し、告げようと思ったところ。
「ラグレクト」
 声をかけられ、彼はハッとした。
 彼の前にいる『剣技』の民が道を開けると、前方から歩み寄ってくる青年が目に飛び込んでくる。
 ジェフェライト――あの、ジェフェライトだ。
 彼は、ラグレクトの前まで歩み寄ると、周りの目を気にすることなくその場ですっと膝をついた。
「お、おい」
「『剣技』の第1王子として、あなたに感謝いたします。『剣技』へのご助力、深く感謝いたします」
「俺は……」
「――そして、友人として、あなたに感謝いたします。……父と姉を救ってくれてありがとう、ラグレクト」
 ジェフェライトが口上を述べると、周囲にいた『剣技』の民が一斉に膝を屈する。
 まるで、自分たちの王に跪くように。
「やめろよ……」
 ラグレクトは昨夜、傷を負った『剣技』の族長と王女エリスに魔道をかけた。彼らの肉体の時間を多少、戻したのである。
 肉体の破損部分の周囲のみを。
 傷を完全に塞ぐことはできないが、この方法を用いれば早い段階で治療することができるのだ。
 弊害もある。
 肉体が幾つもの時間の流れを経験するために、魔道をかけられる者は通常の倍は精神力を消耗する。ゆえにそれは、賭け、だった。そして賭けをにジェフェライトは乗った。
 結果的にラグレクトの魔道は効を奏し、『剣技』の族長と王女エリスは瀕死の状態を脱したのである。それと引き換えに、彼は体力を消費して、明け方まで眠り込まなければならなかったのだが。
 ――言い換えれば、ジェフェライトの父親と姉を助けたために、あんな見たくもないものを見た。
 あんなことが起こるのを止められなかった。
 彼は、眼前の青年が憎い。憎々しい。
 確かに憎々しいのだが……その感情を維持することは難しかった。
 ジェフェライトがどれだけ本気で彼に感謝しているのかわかるからだ。
 『剣技』の剣を奪われたことによる不始末が引き起こした最悪の事態に、ジェフェライトは罪悪感を感じているだろう。無力にも敵を逃した己を恥じているだろう。
 守りきれなかった『剣技』の民を思って深く傷ついているに違いないだろう……。
(こいつを許せない……けど、こいつを責められない……)
 そんな複雑な感情を抱いたことなど経験上ない。
 今までは、受け入れるか、突き放すか、そのどちらかだけだった。両方は、とても無理だ。
(……どうしてお前が、テスィカの婚約者なのかな)
 もっと憎々しいヤツであったらよかったのに、とラグレクトは心中で言い捨てる。
「ジェフェライト、とりあえず立て。そのことよりも、今後について話し合いたい」
 不思議なほどに優しい声音で言うと、ジェフェライトはラグレクトを見上げて頷いてから機敏に立ち上がった。見届けて、彼はとりあえず弟の容態を聞く。
 ジェフェライトの答えは簡潔だ。
「ご弟君の傷は、数日後には癒えると医師が申しておりました」
「自力で宙城に戻れるか?」
「……それは少し難しいかもしれませんね。ここから『魔道』へ転移門《テレポートゲート》を使って転移するならまだしも、直接転移するとなると、途中で意識を失う可能性もあるのでは?」
「ありえるなぁ。……参ったな」
「できるならば、早く戻った方がいい」
 言ったのはジェフェライトではない。ラグレクトの背後からやってきたテスィカである。
 なぜかとラグレクトはテスィカに尋ね、ジェフェライトと共に目を見張った。
「――つまり、私の姉は、『魔道』の族長を脅してここに来たと?」
「そうだ。『剣技』の宙城で起こっていることを耳に挟んだらしかった。……手段を選ばすに、ここに来たんだ」
「身の安全を図るためにオルドも連れてきたのか……ならば、早く戻さないと一大事だな」
 ラグレクトは腕を組む。
 かの城は、いまや大騒ぎになっているだろう。
 他族の王女に自族の王子が拉致されたのだ。
 自分達よりも劣っていると見下している連中に、あろうことか連れ攫われたのだ。
 ……静かにしているわけがない。
「こりゃ、早めに帰らせないとな」
「どうやって?」
 テスィカが訝る。
 そう、問題は「どうやって」だ。ラグレクトも口には出さないが同じ問題にぶち当たっている。
 現状から、オルドレットに「1人で帰れ」と言うわけにはいかない。だとしたら、方法は1つしかない。
「俺が連れて帰るしかないだろう」
 え、とテスィカが目を丸くする。
「いいのか?」
 あの場所へ戻って。
 語尾に隠された言葉を聞き取り、ラグレクトは苦々しく呟いた。
「……仕方ない」
「私が、弟君を連れて伺いましょうか?」
 状況は知らないが、ジェフェライトが親切に聞く。
 ラグレクトは首を振った。
「お前がオルドを連れて『魔道』にでも行ってみろ。吊るし上げられるぞ」
「ジェフェライトが無理なら、私は……」
「当然却下だ。オルドを連れ去ってるんだから。キーファたちに頼んでも無理だな。どっかの都市でも仲介しようものなら、そこの都市長に噛み付くな――消去法で俺しかないだろう。貸しだからな、お前ら」
 語ると、そこでテスィカが「それがいいかもな」と呟いた。
「ん? なんだ、テスィカ」
「……お前、子供ができたんだから帰った方がいいだろう」
 ラグレクトの動作が一瞬止まる。
 魔道でもかけられたように。
「は、い?」
「子供ができたんだろう? そう、聞いた」
「子供?」
 耳慣れない単語を問い返すと、テスィカが大きく頷いた。
「名前は忘れたが、『魔道』の少女が言っていた。お前の子を身ごもっている、と……」
「それは、おめでとうございます!」
 わけのわからない状態でいるのに、ジェフェライトが盛大に祝辞を述べる。
「ラグレクトはお父さんになるのですか」
「ちょ、ちょっと待ってくれ」
「責任はちゃんととっておいた方がいい」
 わけのわからない間に進む話に怯え、彼はどう答えて言いか迷いに迷った。
 否定しなくては、と思うのだが、見つめる先でテスィカは俯いて笑ったのだ。
「おめでとう、ラグレクト」と言って。
「待ってくれ、俺は子供なんて覚えは……」
「まるでないのか?」
 テスィカに問われ、ラグレクトは力強く言い返す。
「ない。『魔道』の宙城にいる女が身ごもっているなんて、計算が合わない」
「何年前なら合うんだ?」
「宙城を出る前だから、かれこれ……」
 思い出しながら、ラグレクトは我に返る。
 違う。
 これでは否定にならない。
 気づいたのだが、彼より早くジェフェライトが突っ込んできた。
「『魔道』の宙城は、こちらより時間の流れが遅いんですよね?」
 余計なことを言うなと心で叫びながら、ラグレクトは口を開いた。
「その時間の違いを計算に入れても、合わないんだ!」
「……どっちにしろ、子作りをしたことは確かなんだろう」
「違う、絶対違う!」
「どちらでもいいさ」
 テスィカの冷淡な言葉がラグレクトの言葉を押し止める。
 口をつぐんだ彼の背後から、防御壁《ホールド》を張ってあるのに冷風が吹き付けてきた。
 寒さの中で、ラグレクトはしばらく無言で立ち尽くしてしまった。


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