Deep Desire

【第6章】金色の戦慄

<Vol.5 誓約>

 空気に溶ける感覚。
 爪先どころか柔らかく逆立った髪の先までが溶けていく感覚。
 ルキスの意識は、現在と過去の境界線をなくす。暗黒と、それを打ち消す閃光が交互に明滅を繰り返し、幼い頃の記憶や、まだ10代であったころの思い出が流星のように煌きを残しながら消えていくのを彼は呆然と目撃した。
 しかし、その時間はさほど長くない。
 これは一体何なのか?――問いを投げかける寸前に、彼の身体は「今」を感じ、幻影は消え去ったためだ。
 体中の神経が微量ながらも痛みを感じ、次の刹那には意識と肉体が溶解しそうな感覚全てが振り払われる。目を開くと、風景は見慣れたものに変わっていた。
 見慣れた風景……一面が水晶の壁、聖都の部屋。そこに彼は立っていた。
 ルキスは大きく息を吐き出す。
 『剣技』宙城からの転移は完了したのである。
「やっぱり、慣れない」
 声を聞き、彼は顔を覆おうとしていた髪を片手でそっと払いのけつつ傍らに少女の姿があることを視認する。
 黝《あおぐろ》い、乱れた髪をかきあげながらコウキは冷然とルキスを見上げてきた。
 表情に変化はないが、口調から彼女が不満を感じているとわかる。
 ルキスは、双眸を眇めた。
「慣れるほど使わないものだ、安心しろ」
 言って彼は、刀身を抜いたままの剣に目を向けた。
 剣は――『剣技』の剣は、少し熱を持っていた。『剣技』の宙城に転移してすぐにも同じようなことがあった。転移の道具として使ったために違いない。
 宙城への転移は、各族長が張る防御壁《ホールド》を突破しなければならないのだ、通常の転移以上に負荷がかかる。宙城との転移に『剣技』の剣のような「鍵」が必要なのは、その大きすぎる負荷を、転移する本人や転移門《テレポートゲート》に負わせないためだろう。そう考えると、剣が熱を持っている理由がすんなりと片付けられた。
 ルキスは、その『剣技』の剣を、わざわざ腰に帯びた鞘を手に取り、身体の前で水平にしながらゆっくりと収めていった。
 鍔《つば》元が重い音を響かせ鞘にぶつかると、それまで閉じていた真正面の扉が開き、人が入ってくる気配がした。
 コウキの反応は素早かった。
 彼女は両手を武器に伸ばし、その場で腰を落として構える。
 それは反射的な行動だ。気配に悪意や殺意があるのか、そんなことは関係ないと傍目でもわかる。
 おそらく、誰かが善意で彼女に救いの手を差し伸べても、コウキはすぐに武器を手に取り斬りかかることだろう。それは彼女が、生まれ出でてより自然と身につけたものであり、1日やそこらでは身につけ得ない“強み”でもある。
 そう、絶対的な“強み”である。任務を遂げるために有利なものである。
 情を持たないコウキにとっては。
「案ずるな」
 ルキスは短く告げて、顎《あご》で気配の原因を指した。
「私の兵だ」
 扉から室内に入ってきたのは、数名の聖都兵。皆、一様に立礼の姿勢を取っている。
 コウキがちらりとルキスを盗み見る。それから視線を聖都兵に戻した後で、彼女は構えを解く。緩慢ともいえるほどに悠然と。
「ルキス」
「なんだ?」
 コウキは聖都兵を見据えたまま、笑うこともせずに言い放った。
「あの兵は、“私の”ではなく、"聖女の”兵だろう?」
 細かい指摘には直接的な批難の影が差している。しかし、ルキスは微笑んで彼女の言葉を受け流した。
「そう、“聖女”の兵だ。だから、“私の”兵なのだよ」
 求めていた答えとは違う。コウキの無言はそんな台詞《せりふ》の証であったが、ルキスは沈黙を会話の終止符とすることを選んだ。
 どうせこのまま話していても、コウキがルキスを受け入れることはない。
 主人の命令に盲目的に従うコウキには、“聖女”という主人を蔑《ないがし》ろにするルキスを理解できるわけがない。
 幸い、コウキもそれ以上の会話を無理にでも押し進めようとはしなかった。
 ルキスは黙り込んだままのコウキに構わず、行動を起こした。用が済んだ転移門の中、いつまでも突っ立っていても仕方がない。
 転移門を囲むように流れる小川へ彼は足を踏み入れた。
 水が、跳ねる。膝下まである長い靴の足首まで、水に浸される。
 どうでもいいことだと思ったのだが、彼は一応親切心でコウキに声をかけておいた。
「下は水晶だ、ここは滑る。お前は布石を辿ってくるがいい」
 それは、別段、何の意図も無く、どんな裏もない言葉。
 けれども、布石という語を口に出した途端、不意に思い起こす事があった。
“布石だよ。お前は”
 灼けつくような日差し。異国の空の下。
 あれは数年前。
 頭部に少し黄ばんだ布を巻き、彼は笑いを噛み殺していた。
 彼……シレフィアン・ジャベルレン。南の国イスエラの冷徹なる美貌の策士は。
 誰も見ていないと思ってか、彼は口元を覆ってなかった。ゆえに目にした、艶然と笑んだ口元が、ルキスの脳裏に色鮮やかに刻まれている。
 ルキスは、あのときのやりとりを頭の中で再現させた。
「お前と私は似ているよ、ルキス」
 シレフィアンはまず、そう言った。喜悦を体現しているとばかりの、それでもどこか冷めた声音で。
 ルキスは、問い返す。
「似ている?」
「似ているよ。私の血を分けた兄弟よりも、お前の方が私に似ている」
「どこが?」
「すべてさ。すべてが、似ている。だから私は、お前の命を救ってやった」
「……そのことには感謝している。だが、これでその礼は返したはずだ」
 言うや否や、彼は足元に転がる死体をシレフィアンの方へ転がした。
 飛び出さんばかりに目を見開いた男の屍が空を仰ぐ。
 それを見たシレフィアンは、しかしながら、顔色1つ変えずにもう一度ルキスを見つめてきた。
「これが礼? ……たったこれだけかい?」
「たったそれだけだろうが、あなたの命を救ったことには代わりない」
「救ってもらったうちにも入らないね。私は、このくらいの男たちなら自分で何とかできるものだ」
「あなたに剣が使えるとは思えんが?」
「使うのは剣ばかりじゃない。この身体を売るだけだ」
 シレフィアンはルキスを見て声高らかに笑う。
「蔑《さげす》みたければ蔑むがいい。私は使えるものは何でも使う。それが、私にとって生きていくということだ……お前もそんな綺麗な顔をしているんだ、私に拾われなければ同じような方法で何とか“生”に縋りついていただろうよ」
「私は、そんなことになる前に自分で命を断つ」
「どうかな? お前は自分で思っている以上に、“生”に執着している。それはお前を助けた私にはわかる。そして、私以上にお前自身がわかっているはずだろう?」
 話すことに苦痛を感じ、ルキスはとうとう折れることにした。
 どうせ何を言っても自分が彼に助けられたことは変わらない。変えようがない。
 そう思えばこそである。
「……何をすればいい?」
 シレフィアンは、唇に人差し指を当てて告げた。
「私はいつか、この国を手中に治める」
「……イスエラを簒奪する?」
「そう。あくまでイスエラを、だ、“聖女”の国は私には要らない。だから安心してくれ。必要なときには私から接触する。お前は、私が接触しやすいような体勢を整えてくれ」
「……」
「布石だよ。お前は。私がこの国に対して行う改革の第一歩だ。だから、今はまだ必要じゃない。今はまだ、早い」
 シレフィアンが何を考えていたのか、それはルキスにもわからない。
 あれから幾年もの月日を経た今に至っても。
 ただ、突然、サラレヤーナにいる部下を媒介にして、シレフィアンはコウキを送り出してきた。
 次いで、『剣技』の王子ジェフェライトが誰かの手引きで転移門から転移するという事件が起きた。誰かの手引き――タイミングから言って、間違いなくシレフィアンの息がかかっている者、だ。
 どうしてそのようなことを行ったのかはわからない。こちらの予定を狂わせてまで、強引に。
 ただ、ルキスは動じなかった。
 シレフィアンが何を狙うのか、コウキがどんな密命を帯びてきたのか、そんなことはどうでもいい。
 物事というのは自分の思い通りになるわけがない。流れに逆らわず、その流れを利用できるよう考えをめぐらればいい。
 コウキを斬るのは簡単だ。だが、コウキのような、躊躇なく命令を実行し、暗部を処理できる者は得がたい。
(使えるものはなんでも使う、か)
 異国の宰相がかつて言った言葉をルキスは実行する側となった。
 自分は彼に似ているかもしれない。
 口には出さずとも、そう思い始めたのも事実であった。



 格子から覗く紺青とそこに飾られた星を眺めて、テスィカは小さくため息を付く。
 夕暮れに起こった惨劇が嘘であったかのように、静謐《せいひつ》な夜の気配がテスィカを茫然自失にさせている。
 神殿都市フライから『魔道』の宙城へ。そこでオルドレットに襲われ、傷を完治させてすぐ、この『剣技』の宙城へやってきた。――時の流れが早すぎて、なんだか現実味が薄い。
 何をするでもなし、佇み星をしばらくの間眺めていたが、どのくらい経ったときだろう?
 扉を2度、ノックされた。
 彼女は夜空から目を離し、部屋の入り口へ目を向けた。
「私です、テスィ……カさん」
 ジェフェライトだ。
 彼女は立ち上がり、「どうぞ」と入室を促した。
 着替えを終え、『剣技』の王子らしい――つまりは少々堅苦しい――服をまとったジェフェライトが、扉を開け、会釈してから入ってきた。
「ご気分はどうですか?」
「ただの貧血だから案じられるまでもない。……ジェフェライトは?」
「胸の傷は大して深くありませんでした。大丈夫です。ラグレクトはまだ眠っているようですが」
 ラグレクト、と名前を聞き、テスィカの心に漣《さざなみ》が生まれる。
 戦闘が終わったあともエリスやオルドレットのことで慌ただしく、ラグレクトとは話していないが……彼を見たとき、目頭が熱くなった。
 もともと、『魔道』の宙城へ赴いたのは、彼を眠りから起こすためだった。しかし、再会を果たしたラグレクトは、1週間前と同じく、動き、しゃべる。テスィカは、自分の行動が意味のないものだったと落胆するより、安堵の気持ちを早く覚えた――自分でも不思議なのだが。
「そう……エリス様とオルドレット殿は?」
 2人とも、テスィカの目の前で傷を負って気を失ったのだ。
 目の前で。
「ラグレクトのおかげで、何とかなりそうです。あなたが気に病むことではありませんよ……眠れませんか?」
 ジェフェライトは穏やかに、テスィカを気遣って声をかけてきた。
 眠れないわけじゃない――そう言おうとしたが、彼の穏やかで優しい口調は、テスィカから強がりを取り除く。
「自分を責めてどうなるわけじゃないってことくらいはわかっている。けれども……エリス様の悲鳴が、耳から離れない」
 壮絶な叫び声だった。
 魂を削って上げた声だった。
 テスィカの耳朶から離れないエリスの悲鳴は。
「テスィカさん……」
 ジェフェライトはテスィカの名を呼び、後ろ手で扉を閉めた。
 そして『剣技』の王子は真っ暗な部屋の中をテスィカへ向かって一直線に歩いてくる。
 テスィカが驚いたのは、彼が目の前にきたときである。
 立ったままのテスィカをジェフェライトが突然抱きしめたのだ。
「ジェ、ジェフェライト?」
 テスィカは狼狽した。
 そんなことをされたのは、過去に数えるほどしかない。そのほとんどがラグレクトだったが、ジェフェライトの抱擁はラグレクトのそれとは少し違っていた。
 まるで真綿で包まれるように、彼は優しくテスィカを抱きしめている。
 ――芳しい、爽やかな樹木の香りをなぜか感じて、テスィカは肩の力を抜く。
「あなたに何の咎もない」
 囁きは諭す意味合いを併せ持った響きを放つ。
「だから、これ以上は何も言わないでください」
「……でも……」
 そんなわけにはいかない。
 紡ぐはずの言葉はあったが、ジェフェライトは無理矢理それを遮る。
「すべては――すべては、私が不用意に城を空け、ルキスの手に落ちたことが始まりだったのです。……あなたには何の咎もない。あるのは、私です」
 淡々と語るジェフェライトだったが、テスィカの胸に痛みが走る。
 ジェフェライトは、穏やかに振舞っている。テスィカを慰めることができるほど。
 けれども、彼の心は違う。内面は外見と違う。
 彼は、彼自身を責めていた。
「ジェフェライト……」
 やんわりとジェフェライトを押しのけて、テスィカは、視線を上げていった。
 ジェフェライトの茶色い瞳は、もしかしたら潤んでいたのかもしれない。
 ただ、明かりのない部屋の中では、それを確かめることはできなかった。
 おぼろげな月の光では、確かめることはできなかった。。
「テスィカさん、あなたが責任を感じる必要はありません。『剣技』のことまであなたが背負う必要は、ない」
 ジェフェライトは、どこまでもどこまでも優しく言う。
 ――どうして、そんな優しく言えるんだ?
 必死に彼が隠すものがテスィカには見えて、次第に彼女は切なくなる。
「……笑うな」
 一瞬後、テスィカは、ジェフェライトにそう言っていた。
 当然のようにジェフェライトは驚いてみせる。
「テスィカさん?」
「私がそのまま、同じことをあなたに言う。ジェフェライト、あなたが責任を感じる必要はない。どこにもない。これは、あなたの咎じゃない」
 ジェフェライトは瞬きを繰り返してから、力なく首を左右に振った。
 テスィカの言葉を否定した。
「いいえ。私は責任を感じなくてはいけない」
「なぜ?」
 テスィカはなおも食い下がる。
 「責任を感じるな」という眼前の青年は、自分よりも遅くにあの場所に駆けつけたのだ。
 どうして、責任を感じなければいけないのだ?
 テスィカの問いに、ジェフェライトはしばらく口を閉ざしていた。が、彼は、沈黙を貫き通したりはしなかった。
「……私は、小さい頃に弟を亡くした。そのときに誓ったのです。自分自身に。――私の大切なものを守っていこう、と」
 けれども、と掠れる声。
 ジェフェライトはテスィカの背から手を離し、自分の口元を覆う。
 そして、テスィカから目をそらした。
「参ったな……」
 声の震えをごまかすように、ジェフェライトは肩を震わせ、笑った。
「私は、いつも、笑って、いなければ、いけない、のに」
 彼は大きく目を見開く。
 まるで――まるで、涙が零れないようにするために。
「私は、笑って、いなければ、いけない、のに」
 自分に命じるように。
「ジェフェライト」
 呼びかけに応じ、彼はテスィカの顔を見た。
 そして、もう1度、テスィカがジェファライトの顔を注視するより早く、テスィカを抱きしめた。
 柔らかく、先ほどよりは少し強く。
「……しばらく、このままでいてください」
 どうして彼がそんな行動を起こしたのか、今度はテスィカにもわかった。察した。
 だから素直に彼女は従う。
 静かに、ジェフェライトの胸に頭を預けることにする。
 そうすると、早く脈打つ心臓よりも、ジェフェライトの身体の震えが強く感じられた。
 震えが強くなればなるほど、テスィカを抱きしめる腕も強くなっていく。
 あねうえ。
 漏れた言葉にテスィカは目を閉じる。
 守りたい者を守れずに、無力を感じたジェフェライト。
 彼はどこか自分に似ている――胸の奥で思うと、テスィカの頬にも熱いものが伝っていった。
「ジェフェライト」
 テスィカは、堅まっていた自分の腕を、そっとジェフェライトの背に回す。
「泣くな」
「私は……王子に、相応しく、ない」
 ジェフェライトが強く言う。
「私が不甲斐ないせいで、『剣技』は、傷ついて、いく」
 搾り出される感情は、ジェフェライトの中に長年かけて蓄積されたものなのだろう。
「どうして、私なんかが、『剣技』の、第1王子なんだ……」
 テスィカはジェフェライトの背をさする。
 そうして長い時間、彼女はジェフェライトを抱きとめていた。
 何も言わずに、黙ったままで。


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