Deep Desire

【第5章】 見失った矜持のかけら

<Vol.6 矜持>

 テスィカは、エリスに促されて彼女の数歩前を歩いていた。
 『賢者』の魔道で、オルドレットの攻撃でできた傷口を塞ぐことができた。しかし、その傷自体を無かったものにする、というのはテスィカの力が足りなかったのか、それとも『賢者』の魔道の範疇《はんちゅう》ではないのか、さすがにできなかった。実際に血は流れたため、貧血とまでは行かないまでも、血が足りないことも自分で分かる。
 右腕の肘から手首の近くまであった切り傷は、みみず腫れのようになっている。腕には流れ出た血が乾かずについており、痛みは傷口が塞がった今でも体内で絶えず悲鳴を上げている。
 彼女は先ほどその傷を見て、思った。……間違いなく痕が残るだろう、と。
 体中に傷はあるが、それはさほど目立たぬものや、見えない部分にあるものだった。これほどはっきりとわかる場所に目立つ傷を負ったのは初めてだ。
(今まで、運が良かったのかもしれない)
 考えてみると、聖都兵に負われた日々を過ごしていたにも関わらず、厳しい事態に陥ったことはなかった。自分の力で、『賢者』の力で切り抜けることができないほどの危機に瀕したことは、無かったに等しい。
 それが、考え事をしていたとはいえ『魔道』に剣で傷を負わされた――魔道ではなく、剣で。剣、で!
 エリスの助言がなければ、まだ腕からは血が流れていただろう。
 あの場にエリスが来なければ、自分は……。
(それにしても……エリス様は、何をしようというのだ?)
 真っ直ぐ歩きながらテスィカは背後を顧みたい気持ちになっていた。
 気配がある――確実に数歩後ろからエリスとオルドレットが歩いてきているのを感じる。行く先々で待ち構える、黒衣をまとった『魔道』の民が皆、表情を強張らせ、鋭く睨みをきかせていることから、エリスがオルドレットの命を盾にしているのは見当がついた。
 エリスの行動は不可解だ。怒りが先に立つ『魔道』の民とは異なり、テスィカは冷静に首を傾げる。
 助けられたことには感謝しているが、エリスは様子がおかしい。
 オルドレットに剣をつきつけたまま部屋を出て、唖然としているテスィカに、「私たちの前を歩いていきなさい」と彼女は指示した。
 そう、それは「指示」だった。「命令」だった。
 言い方こそ丁寧だったが、反論を許さない口調だった。
 彼女が転移門《テレポートゲート》へ向かいたがっているのは本人の口から聞いてわかっていた。が、『魔道』の王子を人質にまで取って向かうべき場所ではないと思っているため、テスィカはエリスの行動がどうにも解せない。
 族長ヴァルバラントは、テスィカとエリスを魔道でもって移転させようとしたくらいだ、ケイシスが倒れた混乱でとりあえず部屋には案内されたが、朝になればこちらが「案内してくれ」と言わずとも、転移門へ連れて行かれることは間違いない。こんな方法をしてまで行く必要性、というのはないはずなのだが……?
(この場で聞かずとも、すぐわかる、か)
 テスィカは、『魔道』宙城の中庭に辿りついたため、答えの出ない自問をやめた。
 『魔道』の中庭は、特に変わったつくりではない。『賢者』の中庭と違うのは、花がないことくらいだろうか?
 あるのは背丈の倍ほどの、緑の葉をつけた木々のみだった。
 数本の木に囲まれた中庭中央に8枚の石板が立っている。――『魔道』の転移門、だ。
 月に光を浴びて背伸びした影たちが、テスィカの足元まで伸びてきている。その中には、石板の影もあったが、転移門の傍らに佇んだ族長ヴァルバラントの影もあった。
 思えば、フライから転移してきたときより、『魔道』の民に彼女達を歓迎する雰囲気は微塵もなかった。それは今も変わらない。
 変わらないどころか、オルドレットに剣を向けていることからだろう、自分たちに向けられる視線には殺気さえこもっていた。
 臣下を従えた『魔道』の族長は、手にした白銀の杖でテスィカたちを指した。
「『剣技』の族長は、礼節のある、話のわかる男だ。だが、彼の娘はそうではないらしい。そう思わぬか、『賢者』の娘よ」
 テスィカは答えなかった。
 が、横に並んだエリスは、族長の息子に剣を突きつけたまま、笑いをこぼして答えた。
「同じ言葉を言い返す。あなたは息子の教育の仕方を間違えたみたいね。……だから、第1王子も城を出たんじゃなくて?」
 そして、色めき立つ『魔道』の民を抑えるように、オルドレットの身体を一歩前に出して喉元に剣の刃を当てた。
「あまり笑わせると手元が狂ってしまう。……『魔道』族長、ヴァルバラント殿。相談がある」
「転移門くらい幾らでも使わせてやる」
 ヴァルバラントがそう言ったことで、テスィカは彼を凝視した。
 テスィカは状況を理解していなかったが、ヴァルバラントはエリスがなぜ、王子を人質にしてまで転移門にやってきたか知っているかのような口ぶりである。
 エリスは笑うことをやめた。
「では、『剣技』の宙城へ」
「それはできぬ相談。――理由はわかっているであろう?」
 『魔道』の族長は表情を変えずに断言する。
 そして、白銀の杖を高く掲げた。
 杖は、月の下で神秘的に輝く。
「ここから『剣技』の宙城へ向かうには、この『魔道』の杖が必要になる。だが、我《われ》はこれを手放さぬ」
「……王子の命がかかっていても?」
「愚問。一族の命運を握る鍵を他者に捕られた『剣技』の姿を我は見ている」
 おそらく、エリスはヴァルバラントの拒否など初めから予想していたに違いない。
 彼女は落胆せず、また、オルドレットを解放したりはしなかった。
「ならば、魔道をもって『剣技』の宙城へ転移させて欲しい」
 返答の前に、続けざまにエリスは言った。
「……『剣技』が滅ぶかどうかはあなた次第だ、『魔道』族長ヴァルバラント殿」
 ――その瞬間、テスィカの脳裏が真っ白になった。
 『剣技』が……滅ぶ?
 動揺するテスィカとは別に、ヴァルバラントが沈黙したのは数秒だった。
「我らは『魔道』。『剣技』がどうなろうと知ったことではない」
「そう言うだろうと思っていた。――そうだろう、『魔道』とはそういう一族だと知っていた、驚きはしない。あなたたちがさっきから宙城の中を行ったりきたりしていたのは、『剣技』を救うためじゃない。『剣技』が滅んだら、次は『魔道』……どうやったら自分たちの身に火の粉が降りかからないかを案じていたからだな」
「我が一族の中にも口の軽い者がいるようだ」
 落ち着いた、表面上は落ち着いたやりとり。
 テスィカは顔に出さないように、心の内で状況を整理しはじめる。
 『魔道』の宙城が落ち着かなかったのは、ケイシスが倒れたからだけではない。
 『剣技』に何かがあった、その報が入ったから。それを知ったエリスは、真っ先にテスィカの部屋に訪れた。そこでオルドレットを見つけ、彼を利用してでも『剣技』の宙城へ戻ろうと決心したに違いない。
 そこまでエリスを突き動す、『剣技』にとって重大なこととは……?
(……ジェフェライトか?)
 聖都に捉えられたままである『剣技』の王子に何かあったと考えるのが1番妥当だ。
 エリスの、弟への想いを神殿都市フライで見たテスィカはそうだと確信した。
「でも、安心するがいい。『魔道』が『剣技』を見捨てるならば、火の粉が降りかかるよりも先に、この場で『魔道』は滅びの道を行くことになる――後継者の死亡という事実によって」
「そのような要求には屈せぬ!」
 脅しに応じたのはヴァルバラントではなくオルドレットだった。
 彼は、身じろぎせずに声を張り上げた。
「父上、屈してはなりません。『剣技』ごときに屈してはなりません! 私が死したとしても、兄上がおります……『魔道』には本当に族長を継ぐべき者が残っております! だが、ここで屈して汚された名誉は戻りません」
「名誉?」
 エリスが目を細める。
 元々釣り目だからか、エリスはオルドレットを睨《》めているように見える。
 しかし、口調を聞く限り、エリスは彼を憐れんでいた。
「第2王子よ、誇り高い『魔道』の王子よ。あなたは、わかっていない」
「わかっていない?」
「私に屈しないことで『魔道』の名誉とやらが守れるとお思いか? あなたが死んでも、第1王子が戻ってくれば名誉は守られるのか?」
「そうだ」
「本当に? 一度は自族を捨てたはずの人間にすがりつき、それを崇めて生きていくことになっても? それでも、『魔道』は名誉を汚されなかったということになるのか?」
 中庭を沈黙が支配し始めた。
 オルドレットは何も言えなかった。
「……私たちを『剣技』の宙城へ転移させるかどうか、決めなさい、族長ヴァルバラント殿」
 ヴァルバラントは、そろそろと杖の先を地面に下ろした。テスィカの中では、彼らの駆け引きの結末が見えた。
 『剣技』の王女が示した選択肢のどちらを選んでも、『魔道』にとっては同じことだ。
 第2王子が自分たちよりも劣っているはずの『剣技』に背後を取られ、剣をつきつけられた瞬間、『魔道』の矜持には亀裂が走った。
 いや、実はもっと早い時点で――ラグレクトが城を出た時点で、『魔道』の矜持に大きなヒビが走ってしまったのかもしれない。
 あとは崩れていくだけのことだったのかもしれない。
「転移の用意を」
 それはヴァルバラントにしては小声だったのだろうが、森閑とした中庭に奇妙なほど大きな音として広がって行った。
「父上!」
「『剣技』に恩を売っておくも一興と考えよ、オルドレット。……お前は、失えぬのだ」
 それは、オルドレットだけでなく、中庭に集まった『魔道』の民、全てに言って聞かせているようだった。
「あなたも行くのよ、テスィカさん」
 このまま『魔道』の宙城に残されたときのことを考えてエリスは言ったのかと思ったが、そうではないようだ。
「あなたの力は使えるわ。……族長、すぐに転移を」
 強く言い捨て、エリスは「知ってるかしら?」とテスィカに再び話し掛けてきた。
「……この『魔道』の宙城はね、外と流れが違うのよ。私たちがこの宙城に来てから、外の世界は既に朝を迎え、昼も過ぎた頃のはず――こうして話している間も、私は惜しい!」
 思いも寄らぬ事実を告げられテスィカはジェフェライトの身に何が起こったのかを聞くのを忘れた。
 外と流れが違う?
 時間の流れが、違う?
 ……この宙城は空間を別にしただけでなく、流れまで変えているというのか!?
「物知りだな」
 オルドレットが吐き捨てるように言うと、エリスはテスィカへの口調とは変えて、オルドレットに笑いかけた。
「他族のことを知らないあなたたちとは違う。でも、安心して。あなたも一度『剣技』の宙城に来れば、少しは『剣技』のことを理解できるかもしれない」
「それは許さぬ!」
 オルドレットさえも『剣技』の宙城へ連れていこうとするエリスに、初めてヴァルバラントが怒りを表した。
「『剣技』に行きたくはないのか、王女よ!」
「向こうについたらすぐに自由にしてあげるわ。こんな汚い手、いつまでも使わない。『剣技』に着いたら、この王子がいようがいまいが私には関係ないこと」
「ならば、なにゆえ!」
「私たち2人だけなら、おかしなところに飛ばされないとも限らない。いい、族長。私は『魔道』を信頼していない。使えるものは最後まで使うわ」
 おそらくは怒りのためであろう、ヴァルバラントの握った白銀の杖が大きく震えていた。
 その震えで、杖は小さな煌きを生み出す。
 砕け散っていく『魔道』の矜持――その輝きのようだとテスィカは感じる。
(でも、間違っている)
 口には出さないが、テスィカはそう言った。
 エリスに、ヴァルバラントに、オルドレットに言った。
(あなたたちは見えていない)
 見失っている。誰も彼も。
 傷つけられることもなくずっと大事に抱えている“矜持”が身体の中にあることを。
(生きている――それだけで十分なはずだ)
 テスィカは、右腕を見下ろした。
 剣によってできた傷。
 死んでいった『賢者』の民がつけられることのない傷。
(生きていること、それこそが守るべき矜持だというのに……)
 きっと、彼らは気づかないだろう。
 けれども、気づかないことが幸せなのだと、テスィカだけが知っていた。



 ギガの都市門《シティーゲート》が近づくにつれ、キーファリーディングはギガで何かが起こっていると強く感じるようになった。
 人の出入りが激しくなる夕刻までまだ間がある。それなのに、ギガの都市門にはいつも以上の兵がいるのだ……おかしい、と思わないわけがない。
 ギガの兵は私兵、つまりはキーファの兵である。動かせるのは副都市長かハルカなのだが、両者ともいたずらに兵の配置や人数を変えたりはしない。権限はあるのだが、「そんな面倒なこと、頼まれたってやりゃしないわよ」と言うくらいである。
 なのに、今、必要以上の兵が槍を構えて立っていた。何かが起こっている――。
 その予感が、すぐさま確信に変わった。都市門の中からギガ兵を動かせる2人のうちの1人、ハルカが彼らの元へ駆けてきたときのだ。
「キーファ!」
 ハルカは大仰に両手を広げ、キーファに抱きつく。
「おい、ハルカ、何があった?!」
 年齢不相応の肉体を味わうように一旦抱きしめて、それからキーファはハルカの身体をやんわりと自分から離す。そして、目をむく。
 露出した肌の部分、肩から胸元にかけてついているものは、自分の体にこびりついているものを同じ――血だったのだ。
 血、だ!
「ギガに何かあったのか、ハルカ!」
 彼はハルカの両肩を掴み、問う。
「民は無事か? おい、答えろ、ハルカ」
「違うの、大変だけど、違うのよ、キーファ」
 ハルカは、今すぐにでも両肩を激しく揺さぶろうとするキーファの手を、引っぱたくようにして剥がした。
「ギガは平気、なんともないの。大変なのは『剣技』なの!」
「『剣技』?」
 不審げに問うたのは、キーファの背後に立っていたジェフェライト。
 ハルカは一歩進み出て、ジェフェライトの前で膝をついた。
「『剣技』の王子、ジェフェライト様」
「……ハルカさん?」
 ハルカは真剣な表情でジェフェライトを見上げてくる。
 ジェフェライトは、耳朶《じだ》の奥から鼓動が聞こえてくるのを知覚した。心臓が早鐘を打ち、ハルカの声が小さく聞こえる。
「おちついてお聞きください。ルキスが『剣技』の宙城に乗り込んできたそうです」
「ルキスが?」
「『剣技』の民がギガに緊急転移して参りました。助けを乞うために」
 顔から明らかに血の気が引いていくのまでジェフェライトにはわかった。
 ラグレクトが肩を叩き、大丈夫か?と訊ねてくる。
 キーファも心配そうに覗き込んできた。
 意外と冷静なんだな、とどこかで自分が言っていた。
 けれども、心臓の音だけは大きくなったままでどうにもできない。
「――その者は? その、助けを求めてきた『剣技』は!?」
「……ついさっき、亡くなりました。深手を負っておりました」
「亡くなった……」
 口元を抑え、ジェフェライトは考えた。
 ルキスが『剣技』の宙城に?
 民が、助けを求めて緊急転移してきた?
 深手を負っていた?
 亡くなった?
 何が? 何が起こっている? 何が『剣技』に起こっている?
 誰が死んだ?
 何が起こっている?
 私はどうしたらいい?
 どうしたら?
「おい、大丈夫か? ジェフェライト!」
 ラグレクトが名を呼び、ジェファライトは我に返る。
「顔、真っ青だ。気持ちはわかるが、しっかりしろ。お前が倒れてどうすんだ」
 小さな叱責で、ジェフェライトは頷く。
「さっきまで戦って疲れてるのはわかる。でも、しっかりしろ。吐きたいなら、吐け」
 よく、吐きそうなほど気持ち悪くなっていることに気づいたな、とラグレクトを彼は見つめる。
 ジェフェライト自身は気づいていなかったが、そう思えた分だけ少し彼の中には余裕が生まれてきていた。
 手を離し、ジェフェライトは首を振ってラグレクトに答えた。それから、反対側にいる、やはり心配顔のキーファに話かけた。
「キーファ様……ギガの転移門は使えますか?」
 ハルカがキーファより先に答える。
「無理でしょう。使者の緊急転移で、負荷がかかりすぎました」
 ジェフェライトは、再びラグレクトへ視線を移す。
 それだけで、『魔道』の王子は理解したらしい。
「宙城のどこに転移できるかはわからない。それでもいいんだな?」
 答える代わりにジェフェライトは黒髪の王子に聞き返した。「いいんですか?」と。
「『剣技』が攻撃を受けてるんだろ? ……宙城の防御壁《ホールド》が弱まっていればそれほど力も使うまい」
「俺も行こうか?」とキーファの申し出は、ラグレクトが断った。
「お前はギガを守れ。『剣技』の者がギガに転移したことがわかれば、ルキスはこっちも攻撃してくるだろう。お前はギガの都市長だからな」
「わかった」
「じゃあ、さっさと行け。ここから離れてろ。俺たちは、すぐ、転移する」
 ラグレクトは、手をジェフェライトに差し伸べてきた。傷を負った手だ。
 まだ、“不和の者”との戦闘からさほど時間が経ってないのを、彼は改めて実感する。
 けれども、申し訳なく思うジェフェライトの性格に気づいているのか、ラグレクトは彼の手を強引に掴んだ。
「来い、ジェフェライト。考え込んでる暇なんてない、そうだろう?」
「――ええ」
 ジェフェライトが返答する前に、早口にラグレクトが何か唱える。
「無理すんなよ! お前らは――」
 キーファの声を最後まで聞き取る前に、ジェフェライトは身体が何かに引っ張られる気がした。
(父上……皆……どうか、無事で!)
 まだ、自分が聖都に捕らえられている、そう思いこんでいるに違いない『剣技』の民を彼は案じた。
 そして、間に合ってくれと、すがれるもの全てにすがるように、ただただ一心に祈りつづけた。


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