Deep Desire

【第5章】 見失った矜持のかけら

<Vol.4 先読>

 太陽が大地にその姿を現してから数時間が経過していた。
 ラリフ国内では時差などほぼない。どの都市でも、人々は朝食を終え、忙しく動き出す時間になっている。雪季《せっき》で生活時間が遅めの神殿都市フライでも、朝の祈りと訓戒が終わった頃であろう。
 ともなると、静まり返っているのは“聖都”くらいなものだ。もっとも、“聖都”は季節や時間に関係なく、いつでも「静謐《せいひつ》」という言葉そのものの状態ではあるが。
 そんな“聖都”が珍しく、蜂の巣をつついたような騒ぎになっていたのは昨晩までのこと。『剣技』の王子、ジェフェライトの逃亡劇を受けて騒然としていたのである。
 今、“聖都”がいつもの平静さを取り戻したのは、その事件が解決したからではない。二晩が経過し、兵士たちが一応の落ち着きを取り戻したためだ。もちろん、多くの兵士が落ち着きを取り戻すようにティヴィアたちが尽力を惜しまなかったからこその結果である。
 ティヴィアは、残ってしまった仕事に気を重くしながら螺旋階段を下りていた。頭の中枢に未だ巣食っている倦怠感と睡魔が、舌打ちするほど憎らしい。
 こういうときには、きつい酒を1杯でも飲めばいいのだろうが、それはできなかった。彼女はどちらかといえば酒には弱い。
 目を覚ますために飲んだ酒で寝入ってしまうことを心配し、代わりに「グルファ」という果実水を飲んでいた。
 グルファは果実水とは言うものの、実際には薬用水として用いられている。語源は、ダグルンファ、要するに「禁断の飲み物」であるとされ、それがいつの間にかなまってグルファになったという話である。
 この薬用水は、多量に摂取すると幻覚死をもたらすため、帝国内では飲用には大きな制約がついてまわっていた。少量の摂取のみが許可されているのである。
 聖都兵は、グルファを好んで口にする。味はあまり良くないのだが、確実に眠気を除去してくれるのが理由だ。飲む量を間違えれば劇薬に姿を変えると知りつつも、服用をためらう者はそれほどいない。
 ティヴィアは、いざというときにグルファが効かなくなることを恐れ、普段はその薬用水に顔さえ近づけないのだが、それをまだ日が上がらないうちに飲んできた。それでもあまり効いていない――既に耐性ができてしまっていたのだろう。
 それが、気疲れに拍車をかけているのもまた事実である。
 けれども、彼女の心を重くしている1番の要因は、他でもない、彼女が今、ようやくたどりついた部屋の中にいる人物の存在そのものであることは間違いがなかった。
「……まだ生きていたか?」
 紫水晶に囲まれた狭い部屋の壁に足を踏み入れ、ティヴィアは1人の女にそんな言葉を投げかけた。
 彼女もまた、ティヴィアと同じようにグルファを飲んでいた。しかし、その量たるや、ティヴィアの比ではない。
 グルファは、投与量をコントロールすれば薬用水から自白水へと生まれ変わる。眼前の女が、廃人になってもおかしくない量を与えられているのは、たった1日でこけた頬や窪んだ瞳から聞かずともわかることだった。
 女はまるで捕らえられた鳥のようであった。
 両膝を床につき、その足首は重しをつけた鎖でつながれていた。
 いや、足だけではない。後ろに回された手首にも鎖ははめられている。背にした壁の上方から琴線のように、ぴんと張った鎖に絡め取られた両腕がまるで翼のように見えるため、一見すると捕らえられた鳥のような印象を与える。
 その「両翼」の先端が、血液が行ききらなかったためか、すでに青紫色に変色しているのが「自分は人間なのだ」と主張しているように見えなくもない。捕らえられて1日半、その女の腕には既に感覚などひとかけらも残ってはいないというのに、それこそが彼女が生きていることを証明するとは……皮肉なことである。
 哀れな姿であることは確認すべくもない。が、傍に近寄ったティヴィアは、その女の形ばかりの両腕とは違った場所に彼女が生身の人間であることを見出した。
 目。ティヴィアを見上げてくるその女の赤い瞳は、未だに理性を保ち、意思を携えた瞳であった。罪人らしく、力なく頭を垂れたままなのに、目だけは毅然とティヴィアを見据えているのだ。
 彼女はかなりのグルファを飲まされたはずである。しかし、自白をしたという情報はまだティヴィアの元には届いていない。幻覚による死を女が迎え入れたという話もまだだ。
 グルファが効かないのは精神的なものが原因ではないだろう。おそらく、彼女がグルファと同じ、もしくはそれ以上の劇物を「体内に飼っていた」経験があるということだとティヴィアは思った。
 何らかの目的で――たとえば、敵地に潜伏し、捕虜となった際に有用な情報を漏洩させないため。
 最初、女の赤い双眸を目にしたときから、ティヴィアも嫌な予感がしていた。が、グルファが効かない――自白に耐えうる訓練を積んでいることがわかった時点で、その予感が当たっていたことに彼女は気づかざるを得なかった。
「……兄上は、ラリフのことは私に一任してあるとの陛下の旨を伝えられた。ゆえに私は未だ潜伏中である。今回の件は、どういうことだ?」
 捕らえられた女は、相変わらず目だけをティヴィアに向けたまま無言でいる。
 ティヴィアは結った金髪を大きく揺らし、苛立ちを表に出した。
「どういうことだ、と聞いている! 私に何の相談もなくこのようなことを行った責任は誰にあるのか、と聞いているのだ!」
 部屋に声が反響する。
 朝日に煌く紫水晶たちが、彼女の声に怯えるように一瞬だけ輝きを増した。――ティヴィアの気のせいかもしれないが。
「……えましょう……」
 隙間から漏れ聞こえる風に似た音が返ってきた。
 ティヴィアは女に近づくと、自らも膝を折る。
 そうして、語り始めた唇へ耳を寄せた。
「そのように大きな声ではどこぞの誰かに聞かれましょう」
 女は途切れ途切れになりながらも、そう言い切る。
 己の身よりもティヴィアの身を案じたことに、ティヴィアの苛立ちはより一層強くなった。
「案じておるのであれば、なぜ、このようなことをしたのだ!」
 今回、ティヴィアの部隊から“聖都”兵の偽者が出てきたとあって、ルキス以外の将軍たちはいっせいに彼女を非難した。
 そうでなくても、普段からルキスの横暴に何も言えず引き下がっていた「飾りでしかない」諸将軍たちは、彼の片腕であるティヴィアの失態にここぞとばかりに食いついてきたのである。とはいえ、今回の事件はティヴィアのみの責任ではない。“聖都”兵への登用を管理する部隊も、転移門《テレポートゲート》を管理する部隊も、共にティヴィアの管轄でもルキスの監督するものでもない。責任論に発展すると、誰の身にも飛び火するのは明白なため、諸将軍たちは日ごろの鬱憤《うっぷん》晴らしに騒ぎ立てたかっただけなのか、さほど追及はしなかった。
 しかし、逆に、ティヴィアの部隊のみの問題ではなかったからこそ、聖都内は騒然としてしまったと言える。潜伏兵がどの部隊からも怪しまれることなく“聖都”兵としていられたことは、大問題なのだ。
 他の潜伏兵もいるかもしれない。――諸将軍は元より、一般の聖都兵にも動揺は伝播し、潜伏兵がいるかどうか徹底的に洗いなおすということになった。
 見つかるようなへまをするつもりはないが、ティヴィアにとっては心穏やかな話ではない。
「誰の意図でこのようなことを行ったのか、釈明を聞きたい」
 凄みをきかせるようにして問うと、しばらくの沈黙が返ってきた。
 どうしたのかと思い、ティヴィアは女を見た。
 ――背筋に衝撃が走ったのは、女が血走った目を見開いて、口を大きく歪めた形で笑っていたからだ。
「すべては、我が宰相様のため」
 女はイスエラ語で語る。
「イスエラ王国、万歳。シレフィアン様に、永久《と わ》の光を――」
 搾り出した声で一気に述べた後、女は奥唇を真一文字に結ぶ。慌ててティヴィアは口を開けさせようとしたが、遅すぎた。
 毒だ。
 自決用の毒を歯に隠していたのだ。……驚くことではない。ティヴィアとて、その処置は施してある。
 垂れていたはずの女の頭が、首が、さらにガクリと大きく落ちる。
 髪の陰になって見えないが、血が滴り落ちるのが見え、事が全て終わったことをティヴィアは知る。
「兄上が……?」
 立ち上がり、同族の骸と成り果てた姿を見下ろしながら、彼女は呟く。
「何を?」
 数年の歳月を費やし、与えられた責を全うしようとしているティヴィアの邪魔を、同じジェベルレン家の長兄がする意味合いが見出せない。
 あの、美貌の長兄が『剣技』の王子を逃したとしたら、なぜなのか……それが、わからない。
「確かめに行くしかないのか?」
 兄の遣いと接触するには、南の街、サラレヤーナまで行かなければならない。
 どうしようか迷ったものの、実際に考え込んだのはほんの少しの間だった。
 潜伏兵の仲間がいる可能性を探るため、と言えば聖都軍に怪しまれずに簡単にサラレヤーナに行けることが彼女にもわかっていたからだ。
(聖戦に踏み込むのか、ラクティ陛下は)
 いつか来る日とわかっていた。けれども――彼女は、その日が近づきつつあることを確実に嫌悪していた。
 自分でも知らぬうちに。



「ラグレクト!」
 ジェフェライトの声に、ラグレクトは振り返る。
 反射的に片腕を上げ魔道で防ごうと思ったが、間に合わなかった。
「っぁぁぁっ!」
 肩、腕、頬――右上半身に何かが掠っていき、次いで痛みがラグレクトを襲う。
 顔をしかめて、彼は腰に刷いた短い剣を抜き去る。剣は、銘はないが、なかなか切れ味の鋭い護身用の剣だ。
 振り回したのは数回。何があったのか気づかぬうちに、足元に音を立てて物体が落ちる。
 それが“不和の者”の羽の一部だった。ラグレクトはそれを確認しようとしたが、それより前に、別の方向から攻撃がきた。
 本能的に顔をかばうように腕を突き出したが、衝撃はなかった。おそるおそる正面を見ると、背中が見えた。
 ジェフェライトだ。ラグレクトの前に歩み出ていたジェフェライトが剣で応戦してくれたのである。
「忘れないでもらいたいですね、私もここにいるってことを」
 全ての攻撃を防ぎ、肩で息をしながらジェフェライトがきつく言う。
 彼の全身からは殺気が立ち上り、普段の穏和さを表すものは今や口調だけになっている。普段の彼と完全に異なる気配だ。
 ジェフェライトはラグレクトほど傷を負ってはいない。『剣技』の方が『魔道』よりも発動時間が短く済むこと、それに『剣技』は『魔道』ほど無防備の状態にはならないことが理由なのだろう。――とはいうものの、ジェフェライトも無傷というわけではない。さきほど“不和の者”に体当たりされ、頭を切ってしまったようだ。額から鮮やかな血が流れ、顎まで伝いきっていた。
 ジェフェライトが自ら盾になったため、余裕が生まれたラグレクトは護身用の剣を構えたままで一気に口上を述べた。
「我が力は理《ことわり》に逆らうものなり
 見えざりし狭間より 身を圧《》す重き連鎖なり
 汝 我が前にて膝を折れ
 罪人のごとく地に伏せよ
 我は 時の支配者なり!」
 言葉の間に、ジェフェライトが剣で“不和の者”を切り刻む音が絶えずする。その音が尽きる前に、ラグレクトの魔道は発動した。
 2人の王子の前で、空間が大きく歪む。
 そして、彼らを囲むようにして立っていた数匹の“不和の者”が、空間と共に歪んだ。
 かと思うと、身長が縮むように、地面へ向って圧縮されていく。
 肩で大きく息をするジェフェライトの膝丈くらいまでつぶされた“不和の者”は、手のひらで押されるようにして、文字通りつぶされた。
 無残な残骸は凝視する間も与えられず、“不和の者”自身の影に飲み込まれていく。
 周囲に目を走らせながら頬の血を乱雑に袖で拭うと、ジェフェライトから叱責が飛んだ。
「雑菌が入りますよ、ラグレクト」
 そう言うジェフェライトも、顔に斑点ができたかのように飛び散った血を袖で拭っていた。
「そっくりそのままその言葉を返してやるよ。――キーファはどこだ?」
「あちらです」
 見ると、キーファは“不和の者”2匹に対し、果敢にも1人で立ち向かっていた。
 身体に夥《おびただ》しい量の返り血を浴びて。
 状況から判断すると、キーファは1人で敵を倒す勢いを持っていた。戦闘が終わるのは時間の問題だろう。
 ラグレクトは数秒間、考え込む。
 結論はすぐに出たのだが、それでもしばらく考えていた。
「……引く」
 彼が口にした言葉に、ジェフェライトはちょっとした間を空けてから答える。
「……このままギガへ戻ると?」
「あぁ」
 ラグレクトは短剣を鞘におさめ、ジェフェライトを見た。
 それまで気づかなかったが、『剣技』の青年は額に汗をかき、彼もキーファと同じく返り血を多数浴びていた。
「“不和の者”を全て倒したとみていいのですか?」
「わからない。あの2匹で最後かもしれないし、もっといるかもしれない」
「では、最後まで戦いましょう」
 それが当然とばかりに言うジェフェライトに言葉では言い表せない眩しさを感じ、ラグレクトは懐かしさのようなものを感じ取った。
 なぜか瞼に、一瞬だけ弟のオルドレットが蘇った。
「引くぞ。俺は、引く。――今回の目的は、“不和の者”を殲滅することじゃない。俺は転移門《テレポートゲート》を使って、さっさと『魔道』に行かなくちゃいけない……時間がないんだ」
「しかし」
「俺は、引く。お前は1人で残るか?」
 沈黙がジェフェライトの答えを如実に物語る。
(気持ちはわかるが……戦力が圧倒的に足りないんだ)
 何時間戦っただろうか? 何匹倒しただろうか?
 途中から時間など気にならなくなった。倒した数など、数えることが面倒になった。
 けれども、“不和の者”はどこからか現れる。減る気配は一向にない。
 こちらは傷つき、体力を消耗しているというのに。
(……俺たちだけじゃ、だめなんだ)
 ラグレクトは、ジェフェライトから視線を逸らした。
 そして、無事2匹を影に沈めたキーファに声をかけた。
「引くぞ、キーファ! 俺は、引くからな!」
 彼の声は放った矢の軌跡ように尾を引き、森に響く。
 それが、撤退の合図であった。


Copyright(C) Akira Hotaka All rights reserved.

←≪3.戦端≫ + 目次 + ≪5.急襲≫→