Deep Desire

【第5章】 見失った矜持のかけら

<Vol.2 遭遇>

 ヴァルバラントは表情1つ変えることなく息子に関して断言し、テスィカとエリスそれぞれに目を向けた。
「用はそれだけであろう?」
 それは、質問ではなく確認の語調であり、テスィカには言葉の裏側に隠された意味が嫌がおうにも察せられた。
 用はそれだけであろう、ならば早々に立ち去るが良い――そこにあるのは、拒絶、だ。
 ヴァルバラントは2人の王女がどちらも返事をしないうちに、行動に出る。視線を部屋に2箇所しかない出入り口のうち、さきほどオルドレットが入ってきた扉へ向け、それから、長い裾をひきずりながら歩きだしたのである。
 慌てたテスィカは、身を乗り出しながら声を張り上げた。
「『魔道』の族長よ!」
 室内に灯った灯りが、一斉に身をよじる。テスィカの声に応えるように。
 しかし、それを意に介さないヴァルバラントは歩みを止めなかった。そのため、彼の、漆黒の衣服と髪によって影そのものにさえ見えうる姿は、今にも闇に溶け込んでしまいそうだった。
 テスィカは、もう1度何とかヴァルバラントと呼び止めなくては、と思い、さらに1歩、身体を前に乗り出した。
 すると。
「お待ちください、父上!」
 彼女よりも半拍早く、オルドレットがヴァルバラントに声をかけた。
 テスィカの呼びかけでは立ち止まらなかった族長も、息子が相手であれば話は別なのか。衣を翻《ひるがえ》すように彼は振り返った。
 ヴァルバラントの、年齢不相応に若々しい端正な顔にはこのときもやはり表情がない。何を考えているのか窺い知れない彼の頬や瞳に、部屋の灯りが撫でまわすようにちらついている。
 やがて、彼は目を眇めた。
「我《われ》は今、誰も必要とせぬ」
 詩でも詠んでいるかのような流れるような言葉の意味は、聞かずともわかることだった。
 誰も必要としない。つまり、誰も、話し掛けるな。
 テスィカも、傍らで何か考え込んだままのエリスも、『魔道』の族長のあまりにもはっきりした言い方に口を挟まず黙り込んだ。が、その族長の息子は、背筋を伸ばして勢い良く話し出したのである。
「父上、私は兄上のことをはっきりとさせたく思っています」
「……聞こえぬか、オルドレット。我は、誰も必要とはしていない。誰の言《げん》も必要とはしておらぬ」
「兄上は、『魔道』一族の次期族長に相応しい力を備えております。私は――次期族長になど相応しくありません!」
 そのとき、確かにテスィカは見た気がしたのだ。ヴァルバラントの顔が苦々しいものに変わったのを。
 眉尻は上がり、薄い唇は微かに開かれ、ヴァルバラントは何かに苦悶するかのような顔つきになっていた。
 だが、それは瞬きをするかしないかの「瞬間」のことであって、テスィカが目を丸くして彼を凝視したときには既にもう、彼は先ほどまでとまるで変わらぬ無表情ぶりで佇んでいたのである。
 まるで、たった今、彼女が見ていたものは彼が見せた魔道であると言わんばかりに。
「次期族長に誰が相応しいかなど、お前の決めることではない。決めるのは、一族の総意」
 彼は厳かに口を開いた。
 相手が誰であっても変わらぬ冷然とした声音と台詞は、このとき少々、諭すような気配が混ざっているようにも聞こえた。
「そして総意では、ラグレクトという『魔道』の民は、既にこの世にはいないのだ」
「なぜ……なぜ、簡単に、そう結論づけられるのですか、父上!」
 掴みかかろうかという勢いでヴァルバラントへ向っていったオルドレットは、けれども、父親に触れることなどできなかった。手を伸ばせば触れられる距離に近づくどころか、それよりももっと前に、彼は後方へ吹っ飛んだのだ。
 ヴァルバラントが向かっていた扉とは正反対にある、もう一方の扉近くまでオルドレットは飛ばされた。どこか壁などに叩きつけられるようなことにはならなかったが、オルドレットは床に膝と手をついた。彼が肩から背中へ垂らして流していた長い布が、風に煽られるように勢い良くたなびく――風に、乗る。
 オルドレットがヴァルバラントの魔道を受けたのは明らかなことだった。ヴァルバラントが手にした白銀の杖の先端が、室内を晧々と照らしているのだ、わからぬわけはない。
「忘れよ、オルドレット。ラグレクトはもういない」
 白銀の杖をかざした『魔道』の族長は、風を受けて宙に文様を描くように踊る自らの長い黒髪を抑えることなく繰り返す。
「ラグレクトは我らを捨てた。もう、この世にはいない」
 いない、を強調して。
「嘘……」
 間髪入れずに答えたのは、オルドレットではない。
 思いもかけず現れた第三者だ。
「嘘でございましょう」
 その場に居合わせた全ての目が、ヴァルバラントの後方にある開け放たれたままの扉へ注がれた。
 そこに控えた衛兵は、2人とも互いに顔を見合わせながら、明らかに乱入者に戸惑っている。
 闇から浮かび上がるように部屋に入ってきたのは、少女であった。
「ケイシス」
(ケイシス?)
 ヴァッルバラントが少女を呼んだ。それを聞いたテスィカは、ふと、引っかかるものを感じた。
 どこかで確実に耳にした名前だった。――どこで、だった?
 彼女は己の記憶を探り出すが、それをすぐにやめてしまう。謁見の最初から一貫して堂々と振舞っていたヴァルバラントが、誰が見てもわかるほど動揺しているのを目にしてしまったために。
(動揺、している?)
 なぜなのかわからないが、眼前の『魔道』の族長は、現れた少女に対して明らかに戸惑い、困惑している。肩越しに、新たに現れた者を見つめながら、テスィカたちの前で初めて驚愕を表面に出すくらい。
「なぜ、ここに……」
 歯切れの悪い似合わぬ調子でヴァルバラントが尋ねた相手は、足取りのおぼつかない様子で部屋に入ってきた。
 小さな宝玉でもちりばめた衣服を着ているのか、灯りが揺れると少女の身体は光を発するように煌いた。そのためか、少女の出現は何か神々しいような雰囲気さえ醸し出している。
「……いつの間に……」
 テスィカの傍ら、エリスが驚きに満ちた呟きを発する。それもそのはず、彼女たちは、ヴァルバラントやオルドレットよりも少女に近い位置に立っているのだが、少女が現れたことがまるでわからなかったのだ。
 気配が、まるでなかった。気配を読めないなど、テスィカにとってはあまりないことであり、エリスにとってもなかなかないことなのだろう。思わず発した呟きから驚き具合が手に取るようにわかった。
 だがしかし、エリスは『剣技』の王女である。いつまでも惨めに目を見張ってはいなかった。
 すぐに心を落ち着かせ、彼女は少女が何者であるのか正体を見極めるように、つり目をより一層吊り上げて睨みつけるように観察し始めたのである。つられるように、テスィカも少女をしげしげと眺めやった。
 テスィカよりは一回り小さいだろう、まだ幼さの面影が残る少女は、彼女たちの視線を受けながら、ヴァルバラントに問うた。鳥が囀《さえず》るような、あるいは、弦楽器の高音をそっと爪弾くような、細く美しい声色で。
「嘘でございます。ラグレクト様は私の傍にいてくださいました。私のことを愛していると、お前だけを愛していると言ってくださいました」
「ケイシス……」
「あの方が亡くなったなんて……ありえない……私を置いて逝かれたなんて……ありえない」
 ふっ、と、空から舞い降りる鳥の羽を思わせるようにして、少女は文字通り音もなくその場に崩れる。
 まるで、生きている人間ではなく、人形か何かのように。
「ケイシス!」
 オルドレットが声を上げ、駆け寄る。
 しかし、彼女を抱きとめたのは1番近くにいたテスィカであった。
(軽い……)
 抱きとめた腕が本来感じるはずの重みを感じず、テスィカは息を詰まらせる。
 軽すぎた。
 人ではないくらいに。
 少し透ける衣服の下にある肌は、室内の灯りが少ないせいか、どことなく青白い気がする。
 人ではないくらいに――。
 大丈夫かと心配しながら身体を起こすようにして覗き込むと、緩やかに波打つ漆黒の髪の下、ゆっくりと瞼が開かれ、潤みを帯びた茶色の双眸がテスィカを見つめてくる。
(人、だ)
 当たり前のことなのにひどく安堵しているテスィカの前で少女は心を奪われそうな、眠りに落ちる寸前に見せるような無垢な笑顔を向けてくる。目を、向けてくる。
「ラグレクト様、愛しております」
 少女ケイシスは、かろうじて聞き取れる大きさでそう言った――テスィカを見つめて。否、テスィカを素通りし、何もないその先の空間を見つめて。
「愛しております。愛しているから抱かれたのでございます」
 テスィカの中で記憶が弾けた。
 ケイシスという名をどこで耳にしたか、まるで膨らんだ風船を針で突き刺し、破裂させたかのような衝撃と共に彼女は思い出したのだ。
“――兄上、ケイシスは真実、あなたを愛しているのに! あなたを愛していたから……あなたに抱かれたのに!”
“愛していたさ! 愛していたから俺は抱いたんだ!”
「ラグレクト様」
 ……改めてラグレクトの名を呼んだケイシスに対して、突如、テスィカの中にどういうわけか苛立ちが湧き上がっていく。
「私は、ラグレクトじゃない」
 テスィカはなぜか、きっぱりと否定した。
「ラグレクトは……ここにはいない」
「ねぇ、ラグレクト様、私は……」
「ここにはいない。ラグレクトは、ここを捨てて出て行った」
「……また、私をお捨てになったのですか?」
 返って来た口調は、さきほどまでとは異なっていた。
 決して大きな声ではないが、言葉は、しっかりとしていた。
「ケイシス」
 テスィカの傍らに膝をつき、名を呼び顔を覗き込むオルドレットを見ることもなく、少女は、テスィカの瞳を見つめ返す。
 少女の、ラグレクトとジェフェライトと同じ茶色い双眸とはまた微妙に違う色の瞳が何を訴えるのか、テスィカには見当もつかない。
 ケイシスは、息を大きく吐き出しながら、瞼を閉じて、確認するように言った。
「消えてしまったのね、ラグレクト様は。私を置いて」
 声が震えている。
 よくよく見れば、額には玉のような汗が浮かび、呼吸はどこか苦しそうだ。
「ケイシス、私はここにいる」
 オルドレットがケイシスの両手を握り締め、力強く言う。
 応えるようにケイシスは、目を閉じたまま呟いた。
「私のお腹の中にいる、ご自分の御子をお捨てになってしまったのね、ラグレクト様は……」
 そうして、彼女は、言葉も呼吸も忘れたかのごとく唖然としたテスィカの腕の中で、意識を手離した。
 まるで眠りにつくように、静かに、静かに。



 享楽と賭博の都市として名高い西方都市ギガに似合わぬものと言えば、朝焼け、である。
 『魔道』の宙城とは時間の経過が違う地上では、既に朝を迎えていた。
 夜を追い払うように昇る太陽を浴び始めると、ギガは一部を除き、歌うことも夢見ることも忘れ、次第に眠りについていく。
 享楽都市が次の夜まで完全な眠りにつく頃に、近辺の街や村では人々が忙しく動き始める。面白いことに、ギガとギガを取りまく街や村では生活のリズムが正反対なのだ。
 まだ西の空が夜の名残を見せている時間、まず最初に動きはじめるのはギガで調理される食材を育てている者たちだった。
 肘まである袖をまくりあげ、彼らは自分たちの庭先、もしくは少し離れた村はずれにある場所で、食物の世話を寡黙にこなす。華美な世界を形成するギガを支えているのは、こうした地味な仕事を行う者たちなのだ。
 その森閑とした空間を切り裂くように、突如、悲鳴が響きわたった。いや、男のがなりたてる声は、悲鳴と言うよりもむしろ雄たけびに近い。
 それは、森の中、街道から数歩中に入った場所から発せられていた。
「た……っけ……」
 言葉になっていない台詞が男の混乱ぶりをよく示している。
 男が混乱しているのは当然といえば当然だ。
 眼前に、見たことのない羽を生やした生き物がいるのだから。
“聖域ヲ侵スナ、愚カ者ヨ”
 真っ黒の生き物は、彼の脳に直接響く言葉で告げ、そして大きく口らしきものを開けた。
 男は、それまで張り詰めていたものが切れるのを自分で察知した。もう、我慢できなかった。何も言わず男は失神したのである。
 真っ黒な生き物の、口の中に広がる一面の闇を見つめて。
“愚カナ人間メ”
 化け物はそう言って、男に触れようと肩に手を伸ばす。が――次の瞬間、その腕は爆発を起こすように内側から弾けた。
“グッ……”
 喉に何かを詰まらせたような声で、その異形の者――“不和の者”は後ずさった。もう一方の手らしきもので、無残な断面図を見せる肩の付け根を抑えながら。
「……1匹か」
 いつ、その場に現れたのだろうか?
 左の手のひらを“不和の者”に向け佇むラグレクトが、確認するように言ったのは“不和の者”の肩からドロリとした赤黒いものが滴った後のことである。
「1匹だな、今のところはぁ」
 近くの茂みから出てきたキーファが、鼻をすすりながらラグレクトの言葉に答える。彼の傍らに立つジェフェライトは、口を開けたまま“不和の者”を見つめていた。
「まぁ、子供らしいし、手始めにはちょうどいい」
 3人のうち1番背の高いキーファと同じくらいの“不和の者”を見て、ラグレクトがそう評した。
 眉をひそめたのはキーファだ。
「子供、って……お前、わかんのか?」
「いや。勘だ。さほど力がなさそうだから、そう思っただけだよ」
「か、勘、ですか……」
 呆れたように言うジェフェライトに、ラグレクトは口端を歪めた。
「あぁ、勘、だ」
“愚カ者タチ”
 割って入るように声が響く。しかし、それは先ほどまでの、脳裏に直接響くような声ではなかった。
“愚カ者タチ”
 “不和の者”は、闇しか覗けない口を開け、繰り返した。2人の人物が同時にしゃべったような、高音と低音が入り混じる声だ。
 笑ったのはキーファだ。
 背中に背負った大きな剣を肩越しに抜き去ると、構えながら彼は大声で笑った。
「確かに、低級なヤツかもな。さっきから同じ、単語の少ない化け物だ」
 ラグレクトが不機嫌そうな顔つきになる。キーファの声が大きすぎたからだ。
「単語が少ない、じゃなくって、言葉が少ない、って言えよな、キーファ」
 彼は、突き出していた手のひらを引っ込め、胸元で拳を形作りながら小馬鹿にするように注意した。
 圧倒され、固まっていたジェフェライトも場の雰囲気を察したのだろう。腰に差した長剣を優雅な動作で抜き去ると、静かに構え、会話に滑り込む。
「ラグレクト、それでは意味が異なってしまいます。こういうときは、語彙《ご い》が少ないと言うんです」
「……細かいヤツだな」
「人のこと言えねぇぞ、ラグレクト」
“愚カ者タチ”
 “不和の者”は果たしてどちらに言ったのかわからない方向を向いてまたしても同じ言葉を紡ぐ。呪いの言葉でも吐きかけるように。
 しかし、先ほどまでと違うものがその言葉には含まれているのを、彼らは皆、誰に問うまでもなく察したのである。
 言葉には、明確な殺気が込められている――。
「さて、と」
 キーファが舌で上唇を湿らせながら、顔を向けずに彼ら2人の王子に話し掛けた。
「誰が一番手の名誉に預かるのかな?」
 王子たちは目線を交差させた。
 それから、ラグレクトはジェフェライトの手を見つめる。
 同じように、ジェフェライトはラグレクトの手を見つめ返した。そして、諦めたようなため息をつく。
「……最初かどうかはわかりませんが、少なくとも私は後方支援じゃないでしょうね」
「だろうな」
「戦ったことのない相手に対して私が一番手ですか? “不和の者”と初手合わせなのに?」
「……変わってやろうか、王子様」
 キーファの申し出は揶揄《や ゆ》する口調でもあったので、ジェフェライトはてっきり拒否するとラグレクトは思っていた。しかし、ジェフェライトは人のよさそうな微笑を浮かべ、では、と剣に手を当てると頷いたのだ。
「では、キーファ様、お願いいたします」
 こんなときにもご丁寧に敬称をつける『剣技』の王子へ、こちらは「人懐っこい」と称される笑みを浮かべたギガの都市長は、首を縦に振る。
「俺が頼まれごとに弱いって、お前、知ってたろう」
 自分から提案しておいて何を言ってる、と思ったが、ラグレクトはあえてそれを口にしなかった。変わりに、確かめるように自分の役割を告げた。
「では、俺は肉体労働の2人に支援を」
 ラグレクトが結んだ拳を解き、2人へ何かを蒔くような仕草をする。
 と、キーファとジェフェライトの身体に金粉のようなものが降りかかった。
「本番、ですね」
 ジェフェライトが、剣を握り返し、そうして“不和の者”へ向ってその1歩踏み出した――。 


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