Deep Desire

【第5章】 見失った矜持のかけら

<Vol.0>

 大きく欠けた月は、雲間に隠れた。
 天空より降り注ぐ光を失って、水晶たちはまるで眠りにつくように、音もなく煌くのをやめた。
 ファラリスは右手を伸ばす。闇の中で、そこにあるものを信じて。
 指先に触れるものはない。だが、触れずとも、扉が開く気配を彼女は感じた。
 微風が、長い金糸を思わせる彼女の髪を揺らした。さわりさわり、と。
 風が吹いてくる先には、何もない。闇しかない。
 部屋の外へ踏み出す勇気を持ちえずに、ファラリスは頬を掠める風の声を聞く。
 外の世界は――遠く感じられた。
「月はもう、隠れてしまいました」
 詩人の詠歌を彷彿させる優しい声音は、背後から。
 振り返らずに彼女は名を呼んだ。
「ルキス……私に何か用ですか?」
 答えはない。
 いや、耳に届いた微かな笑い声が、あるいは問いへの返答か。
 眼前に広がる夜には深みを、不安を抱える胸には波紋を与えるような微かな笑い声こそが。
「ルキス……」
「……いいえ。用などございません」
「――ならば下がりなさい。一介の将軍がこの部屋に入ることは許しません」
 ファラリスの凛とした口調は、己の矜持《きょうじ》を守る盾。
 それを知りつつ、金の将軍は彼女の背後で今度ははっきりと声を立てて笑った。
 侮り、笑った。
「御意」
 ……言葉には、持つべき真の意味合いが微塵も感じられない。
 ファラリスは、振り返ることもせずに金の将軍が部屋から出て行く気配を探った。
 ルキス――彼女に見えない桎梏《しっこく》を施した支配者は、反論などせず部屋から去った。安堵のため息さえつかず、ファラリスは1人、天を仰ぐ。
「照らすものがなければ、この聖都は闇に紛れてしまう」
 それは、存在していないと同義――。
「……月は、もう、隠れてしまった」
 彼女が呟いた一言に、答えるものは何もない。
 月は、今、天から消えていた。
 月光は、今、闇に飲まれていた。


Copyright(C) Akira Hotaka All rights reserved.

←≪6.胸中≫ + 目次 + ≪1.否定≫→