Deep Desire

【第4章】 選ばざるべき選択肢

<Vol.6 胸中>

 晩餐が終わると、副都市長によってラグレクトとジェフェライトはそれぞれの部屋に案内された。
 ラグレクトが通された部屋は、都市城《シティキャッスル》に作られた客室の中でもとりわけ豪華にできたところだった。薄く淡い色合いの壁紙や置かれた家具はどれも相当に価値の有るものだと触れずともわかる。また、部屋の中は無意味に広く、寝室や執務室が分かれている――幾つもの小部屋を内包している――つくりだ。
 同じ階には、彼がいる部屋を含めて2部屋しかない。西の部屋がラグレクト、ジェフェライトがもう一方の東の部屋だ。キーファのいる都市長私室は1つ上の階だが、キーファのこと、今夜は自分の部屋にいるとは思えなかった。
 翌朝、たとえ自分の生死に関わる重大事があろうとも、夜には酒か女の肌に触れずには眠れないのがキーファリーディングという男である。
 とりあえずは着替えようとラグレクトは思い、ラグレクトは寝室へ赴いた。過去、ギガに滞在したときも同じ部屋だったので間取りはわかっている。
 寝室に入るとまず、寝相の悪い人間が3人は一緒に寝ても平気な広さを持った寝台が彼の目に付く。寝台の傍らの卓には駒を動かし陣地を取り合う遊戯盤《ボードゲーム》が置かれている。ギガならではの風景かもしれない。そういえば、あの遊戯盤でキーファと金を賭けていたな、とラグレクトは思い起こす。ラグレクトはキーファに負けたことがなかった。別れの前夜を除いては。
 寝台を挟んだ遊戯盤のちょうど反対側、服を入れる棚がある。彼の身長よりは少しだけ高い、木でできた棚だ。空けようと近づいて行ったのだが、途中で足を止めた。
 寝台の上に客用の寝室着がご丁寧にも几帳面に畳まれて置いてあったのだ。
「至れり尽くせり」
 何もここまでする必要はないのに、とラグレクトは思った。
 自分は既に『魔道』の王子であることばかりか、『魔道』であることを捨てた。
 そう考えれば、自分を受け入れている環境と待遇は身に余るほどだ。
 ラグレクトはキーファが好きだ。そして、キーファも恐らくはラグレクトのことを気に入ってくれている。そうでもなければ、あの男はこれほどのことをしない。
 たとえ相手が“聖女”であったとしても。
 有権階級に阿《おもね》ることはしないのがキーファのキーファとも言えるゆえんなのだとは、彼を知る誰もが口にすることだった。
 だから、『魔道』の民としてではなく、大切な友人として、キーファはラグレクトによくしてくれている。それは率直に言って嬉しい。
 嬉しいが……自分はキーファに何もできない。
 『魔道』であることをを利用させることさえできない。
 他にできることというのも探してみればあるのかもしれないが――探す気が本当にあるかどうか怪しい。彼は他人事のように自分のことをそう判断している。
(俺はきっと恐れている)
 他人と必要以上の関係を築くことを、恐れている。
 昔は気づかないふりをしていたが、20も半ばを過ぎれば気づかないふりもできない。諦めに似た気持ちで、己の性格と対峙せざるをえない。
(まだ、恐れている)
 過去、深く相手を信頼した後にもたらされた傷は1つや2つではない。
 悟ったのはいつの頃だったか? ――愛しい人に、血の持つ本当の意味を突きつけられたときだったろうか? ……覚えていない。
 今では遠い昔のように思えるのは、以来、自分を守るために1人で過ごしてきた日々が長く感じられるからだろう。
(特別になりうる人、か……)
 彼は上半身裸になり、寝室着に袖を通しながら心中呟く。
 誰かに積極的に関わりあうことなど当の昔にやめてしまったはずだった。最初、テスィカをルキスの手から奪い去ったのも、あの場にテスィカがいたから――ただ、それだけ。
 かつての自分の婚約者であることは、髪と瞳とルキスとの会話から察しがついた。
 確かに外見はすこぶる好みで、つかの間の恋愛を楽しみたいという衝動があったことは確かだ。冗談半分だったが。
 本気で愛していると囁き、口付けを交わすことなど造作もなかった。
 優しく髪を撫で、微笑みながら組み伏して事に及んでしまうことなど手馴れたことだった――はずなのに。
 できなかった……惹かれていたから。
 本気になりそうだと思ったのは、離れ離れになる直前で……目が覚めたら、彼女はいなかった。
 自分のために『魔道』の宙城へ向ったため。
 あの、『魔道』の宙城へ。
(せっかく『魔道』から出てきたのにな)
 弟、オルドレットの包囲網を破り転移したのに、そこへまた戻るのは自分にとって危険さえともなうだろう。既に弟は自分の出奔を2度も見逃していた。3度目は上手く行かないかもしれない。
 ……頼みもしないのに勝手に『魔道』の宙城へ行ってしまった、お尋ね者の『賢者』の王女。
 なぜ……なぜ、自分にそれほどまでしてくれたのだろうか?
 利用するため? そのためだけに?
 3族同士が顔を合わせるとき、姿を変える魔道や剣技は発動させることは難しい。宙城で長い間姿を誤魔化すことなど、難しいどころか無理な話だ。とすると、自分の正体を明かすことになるというのがわかっていながら、『魔道』へ向ったということになる。
 なぜ。
 ――わからなかった。彼女がそこまでする理由が。
 もしかしたら、という答えは自分にとってひどく都合のいいもので、何もそんな上手く話は転がっていかないことを知っている『魔道』の王子は、考えを即座に否定する。
 彼がわかっていることはというと……。
(たとえ、自分の身が危険にさらされようと、行かないわけにはいかない)
 彼女を助けに行かなくてはいけないということだけ。
 テスィカという少女が、自分を変えつつあること――特別な存在など作らないようにしていた自分の特別になりかけている。それがわかってしまったのならば……動かないわけにはいかない。
 本当の「特別」になるかどうかは、まだわからない。
 わからないから……そんなとき、失うことはしたくない。
 手をこまねいて、また、“あのとき”のように特別な人を失いたくはない――!
 彼は寝室着の胸元を重ね合わせ、くっついてる細紐を腰の辺りでゆったりとくくった。
 今夜は、酒も飲まずに眠りに落ちようと彼は意を決した。明日は“不和の者”と戦わなくてはいけない。ギガに転移してきた際、自分の力はまだ完全に戻ってはいないと彼は感じ取っていたからだ。そういうときは、休むのが1番いい。
 その瞬間を待っていたかのように、彼の思考を中断すべく扉を叩く音が聞こえた。
「ラグレクト! 私です!」
 ジェフェライトの声だ。
「よろしいですか?」
 断る理由もないので、彼は寝室から出て、ジェフェライトを招き入れた。
 『剣技』の王子は、寝室着には着替えていなかった。ここまで急いで来たとなると、持ち出す話題は1つしかないだろう、とラグレクトは推測する。
「“不和の者”を討つとは……どういうことですか?!」
 穏やかな物言いは責めているわけではないのだが、きちんとした説明をして欲しいという意思が顕著だ。
 扉を閉めて、彼は部屋の中央へジェフェライトを案内しながら問いかけた。
「急くな。酒でも飲むか、ジェフェライト?」
「さきほど晩餐の席にていただきましたから、お気遣いは無用です、ラグレクト」
 丁寧に断りを入れると、ジェフェライトは部屋の中央にある長椅子に腰かけた。彼の体が音もなく椅子に沈んでいくのを見守りつつ、ラグレクトは口を開く。
「“不和の者”は知ってるよな?」
 確認であることは伝わったらしい。ジェフェライトは、首を縦に振る。
「聖都にて“御使《みつか》い”ファラリス様にお聞きしました」
「――“御使い”が?」
「ええ。森に……このギガの東にある、あの『賢者』の宙城と共に燃えた森に“不和の者”がいると……」
 ラグレクトは無言で目を眇《すが》めた。
 彼は、眼前の茶色い髪と茶色い瞳を持つ王子が“不和の者”を知らないなんて言うはずがないと思っていた。3族の者ならば、自族がどうやってできたのかを幼い頃に必ず教え込まれるはず。ラリフ帝国を守るという使命を負った3族は、何から帝国を守るのかを知らなくてはならないからだ。
 だから、“不和の者”という名称も、どういった存在かも知っている。そう思っているから、聞いた。
 そこで“御使い”の名が出てくることまでは想像できなかったが。
(キーファの奴、ちゃんと聖都に報告したのか)
 “御使い”という、“聖女”に比較的近い立場の人間が“不和の者”を知っているのは意外である。どこで見聞きしたのだろうか? 次代の“聖女”たる“御使い”が、そうでなければ“不和の者”の存在を肯定するばかりか、その居場所さえ知っているはずがない。
 考えられるとすれば、そんな素振りはまるで見られなかったが、キーファが“不和の者”のことを“聖都”に報告したのだろう。
「ジェフェライト、わかってるんなら、何が疑問だ?」
「何が、って……」
 ジェフェライトは口篭もる。
 “不和の者”と聞いてびっくりしたから慌ててきたものの、頭の中の整理がついていない……そんな様子だ。
 ラグレクトは手近にあった椅子を逆方向にし、背もたれに両腕を乗せるような格好で座った。
「ギガの東にあるあの森に“不和の者”が出る。その“不和の者”は、時々、人を襲う」
「人を襲う、ですって?! ……そんな話、聞いたことが……」
「あるわけないだろう。“不和の者”の存在自体、今では3族しか語り継がれてないんだから。大体、こんな化け物が出てきました、襲われました――って言って、信じてもらえると思うか?」
 ジェフェライトは、考え込む。
 もし、自分ならば、と置き換えているのだろう。
(俺だったら信じない)
 ラグレクトはいち早く答えを出した。
 しかし、その答えが現実とは違っていたことを彼は知っている。
 現実には、ラグレクトは、“不和の者”が目の前に現れた後でさえその存在を信じられなかった。傷を負うまで、夢と現実の区別がつかなくなったのかと、彼らしくもなく己の目を疑ったものだ。
「……だが、俺やキーファは信じないわけにはいかない。戦ったことがあるからな、“不和の者”と」
「“不和の者”と……戦う……」
 自分で自分の言葉を信じられないといった口調でジェフェライトは呟いていた。
 彼の言葉からは、まだ恐怖の色は感じられない。
 恐怖を感じるほどに身近なものではない――きっとそういうこと。
「難しく考えることはない。お前さんの剣技があれば、どうってことないさ」
「そんな……」
 おだてでも何でもない、『剣技』は3族のうちの1つだ、それなりに力になるはず。
 まして、王子ともなれば次代の王としてそれなりの武力は持っていておかしくない。
 自分1人でも何とかできる可能性はあるが、使える者は何であっても使う。
 幸いにも、『魔道』の宙城は他と多少時間の流れが違う。急いで2、3日の間に転移すれば、テスィカが向こうに着いてすぐぐらいの時間差で宙城に入れる。
 何かが起こる前に、入れる。
 今は、誰かの力を利用してでも、一刻を争って先に進まなければならない。
(悪いな、ジェフェライト)
 なりふりなんぞ構っちゃいられない。
 自分を変えるかもしれない女がかかっているのだから。
 ラグレクトは長い睫を伏せるようにして視線を流す。その先には、時刻を表す石板があった。
「さぁ、そろそろ寝る時間だ、ジェフェライト」
 彼はそう言って、1ヶ月年下の王子を突き放した。
 フライからずっと、まるで旧知の者のように接してきたが、ラグレクトにはそろそろ限界だったのだ。そろそろ距離を置かなければならない。
 利用される彼が傷つかないように。
 そして、臆病な自分が傷つかないために。



 甲高い女の叫び声に似た音を発して、取っ手のない扉が左右に開いた。
 室内に入ってきたのは、薄い漆黒の布地でできた衣服を身に着けたオルドレット・ゼクティだ。彼は供を1人も連れず、無言でやってきた。
 控えていた侍女たちが慌てて一礼をした後、音を立てずに彼の傍らをとおり、部屋から出て行く。そのうちの誰ひとりとして見つめることもせず、彼は奥の部屋から現れた少女にだけ目を向けていた。
「ケイシス」
 緩く波打つ黒い髪、力なく笑む茶色い双眸、歳は20前後だろうか。美しい、というよりは可愛らしい、という表現の似合う少女がゆっくりとした足取りで現れた。
 ところどころ小さい宝玉がちりばめられた、白い肌が透けて見える衣服を彼女は身に着けていた。寝所で彼女が着ている服だ。寝所から起きてきたのだろう。
「どうしたのです?」
 “可憐な声音”とはまさに彼女の声を修飾するためのもの。オルドレットがそう思いながら、少女に優しく微笑みかける。
「我が愛しの姫君が気がかりだったので……」
 歩み寄り、ケイシスの手の届くところで彼は立ち止まった。
 しばし、自分の肩ほどまでしか背丈のないケイシスを見つめた。気になったのか、彼女の頬にかかる髪を彼は指でそっと退けた。
 それから、現れた白皙の肌に手の甲を当てた。薄っすらと赤みがさしている頬へ。
「まだ熱がある……」
 体の弱い少女が寝台から起きてきたのは、実を言うと数日ぶりのことである。
「大丈夫ですわ」
「無理はしないように。あなたは私にとって、大切な方なのですから」
「はい」
 彼の気遣いを感じたのか、少女は儚げに微笑んだ。
「ラグレクト様も、ご無理をなさりませんよう」
 オルドレットは、気づかれないようにため息をつく。
(ケイシス……)
 今まで何度、訂正しても変わらない。
 彼女はラグレクトが去ってから、精神の均衡を崩してしまった。ラグレクトが自分の元から去ったことを信じられず――彼女の心が出した結論は、ラグレクトに似たオルドレットをラグレクトと思い込むことだった。
 ケイシスは、オルドレットをラグレクトだと信じている。ラグレクトが宙城から消えた日、彼女の心からオルドレット・ゼクティという人物が代わりに消えたために。
 彼は、自分の表情を見せないために少女をそっと抱き寄せた。
 わかっている。もう、彼女の心を元に戻すことが不可能だということは。
 その可能性は、もう、諦めてしまっている。
 ……だからといって、心の感じる痛みに慣れ、諦めるまでには達していない。
「ケイシス……俺を愛している?」
 声音に滲む感情は、気づいて欲しい人には気づいてもらえず――。
「わたくしは、誰よりもラグレクト様をお慕い申し上げております」
 そっと、オルドレットの背に細い腕が回される。
(どうして、消えてしまったのですか、兄上)
 彼はケイシスを抱きしめながら兄を責めることしかできない。
 そうしなければ、耐えられないのだ。
 ケイシスを愛しているため。
 ラグレクトを慕っているため。
 2人の愛し合う姿を今でも忘れられないため。
 ケイシスはオルドレットに会うと、どんなときでも笑んでくれる。小鳥の囀《さえず》りを思わせる声で、愛していると言ってくれる。
 それが、どれだけ彼を傷つけているか、少女は知らない。
 知らないから、心配そうに言うのだ。「ラグレクト様、元気を出してください」と――。
 心の中は傷だらけになっている。わかっている、知っている。けれども、それを表に出してはいけない。
 彼は『魔道』の次期族長であり、彼女は『魔道』の次期族長の妻となる女性なのだから。
 ……辛い時間が、ゆっくりと流れていった……。
 苦痛を終わらせたのは、突如としてもたらされた報告だった。
「オルドレット様」
 耳につく高い悲鳴をあげながら扉がゆっくりと開く音がする。
 そっと少女を引き剥がし、彼は内心胸をなでおろしながら振り向いた。
「なんだ、騒々しい」
「申し上げます。ただいま、神殿都市フライより最高神官アーティクル様の名代《みょうだい》が転移されてきました」
「謁見の間へお通しせよ。族長はいらっしゃるだろう?」
 まだ夜になったばかり、彼の父親である『魔道』の族長は起きている時間帯である。
「それが……」
 告げる臣下の声が、一旦途切れる。
 訝《いぶか》って彼は問うた。
「どうした?」
「名代としていらっしゃったのが……『剣技』の王女エリス様と、『賢者』の王女テスィリス様とのことでして、族長がオルドレット様もお呼びせよと……」
「――何だと?」
 彼は自分の声が強張ったのを自覚した。
「兄上は一緒か!?」
「……はぁっ?」
 問われた者は、意味がわからず曖昧な声で返す。それが無礼だったとわかるや否や、彼は深く頭を垂れた。
 そんな様子など気にもかけず、オルドレットは奥歯を噛み締める。
(『賢者』の王女……つい先日、兄上をそそのかした女か!)
 彼らの行方を追っていたが、まさか自分から飛び込んでくるとは思わなかった。
 オルドレットは、自分の腰に短剣があるのを確認するとケイシスの部屋から出て行く。
「ラグレクト様!」
 びっくりして呼びかけたケイシスの声に、彼は反応しなかった。
 千載一遇のチャンスに、他人を演じる余裕がなかったためだ。ましてや、彼が、ケイシスが熱のある身体で自分を追って謁見の間に来るのを予期することなど到底無理な話であった。
 彼は、運命の相手を求めるように、まっすぐと謁見の間へ走っていった。
 まっすぐと。


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