Deep Desire

【第4章】 選ばざるべき選択肢

<Vol.4 来訪>

 日は傾いた。
 帝国ラリフの西に連なる壮大な山々は、消え行く太陽の光を受け、稜線をくっきりと描き出す。東の空では気の早い星たちが瞬き始めるこの時間帯、西方都市ギガは動き出す。
 街のいたるところでかがり火が焚かれ、昼、人気《ひとけ》がまばらだった通り全てが喧騒に包まれていく。享楽と賭博の都市と称されるギガの、連日連夜の祭りが始まるのだ。
 始まりの時刻は決まっていない。が、都市門《シティゲート》からまっすぐに伸びた広い通り――大都市では、都市門から直線的に大通り、中央通りと呼ばれている道が走っている――の突き当たりにある都市城《シティキャッスル》に1つ2つ灯りがともると、店はこぞって営業を始める。暗黙のルールと呼ばれる、非公式の決まりである。
 都市城《シティキャッスル》というのは、要するに都市長の公邸のことだ。各都市ごとに治められた税のうちの一部で管理されている。都市の特色が色濃く反映されるのは、そういった体制の影響だろう。
 神殿都市フライの都市城は神殿の一部となっており、また、港湾都市レーレの都市城は、海から水を引き作った人口湖の上に建つ。では、西方都市ギガの都市城はどういう雰囲気かというと、都市城そのものが大きな賭場のようだった。ギガにあるどんな高級宿場よりも目立つ城、だ。豪華絢爛で気品漂う城。
 しかし、その城の主が上品という言葉に縁遠いということは、ギガの住民なら誰もが知っていること。
 都市長は、部下を引き連れ歓楽街に遊びに来た山賊の頭……そんな雰囲気を持っている。その頭の名は、キーファリーディング。ギガの者は、彼を都市長とは呼ばず、「キーファ」と呼んでいた。
 もちろん、敬称略、である。



 一段高い場所にある大仰な、細部にまで凝って作られている椅子に、キーファは座っていた。茜色に染まった空が室内に長い影を生み出す時刻に、彼が自分の執務室にいるのはひどく稀有なことではあったが。
 彼の前には、机がある。執務机だ。今、彼が座っている椅子と同じ者の手で作られたのであろう、脚の細かい飾り細工をして、一見して高価だとわからせる机だ。
 しかし、この高価な机の上に乗っているのは書類ではなく、キーファの両足であった。これは、稀有なことではない。
「……つまらん」
 天井を眺めながら、そのキーファが呟く。
 すると、
「そりゃまぁ、お仕事してるんですもの」
彼の傍ら、机の上に形の良い尻を乗せた女が笑う。
 女は、ハルカという名のキーファの愛人だ。見事な8頭身の彼女は、1度見たら忘れられない、要するに“目の覚めるような”美女である。実際、ハルカを見た者は、その豊満な胸だけでなく、艶やかに煌く長い金髪、印象的な赤い瞳を無意識に瞼に焼き付けてしまい、自分の女にしようと声をかけてくるのだった。もちろん、彼女を誘うのはギガの外の者だけだ。
 ギガに住む者は、ハルカという名の少女――実年齢は見た目から10歳ほど引いた歳である――に手を出すことが自分の寿命を縮めることだと、知らぬ者などいないのだった。
 ハルカは、あと数年で40に達する恋人を小馬鹿にしてさらに付け加える。
「キーファが仕事を楽しむなんて考えられないわ」
「おいおい、それ、都市長に言う言葉か?」
「よく言うわね。都市長らしい仕事もしてないくせに」
 ハルカは平然と言い返し、キーファのくせっ毛をいじり始めた。
 キーファの髪は漆黒である。だが、瞳の色は黒ではなかった。瞳の色は、ハルカと同じ、赤。血の色のような、深紅。
 ギガの民は、キーファの奔放な性格を愛していたが、その瞳の色には恐れをなしていた。なぜなら、瞳の“深紅”は、彼の流した血を連想させるから。
 深紅のキーファという異名は、一部では「金の将軍ルキス」や「最高神官アーティクル」よりも有名である。
 しかし、若かりし頃の別称、と彼を軽視する者も多い。都市長になってからというもの、キーファは剣より女に入れ込んでいる。鍛えているためか、相変わらずいい体つきなのだが、無精髭《ぶしょうひげ》といたずらっ子な口調が目に付き、彼の本質を見抜けない者は少なくないのだ。
「あ、こら、やめろ。せっかく整えたのが無駄になるじゃねぇか」
 キーファは、ハルカの手を邪険に退けて、拗ねたように睨んだ。
 ハルカは、キーファに顔を近づけて、彼の目を覗き込む。
「道理で珍しく、仕事のカタがついてると思ったわ。……ここにある書類も一緒に片付けない?」
「いや、それは明日回しだ。今日はもう、書類なんて1枚も見たくない」
「……どうしたわけ? 髭だってキレイに剃っちゃって。新しい女?」
「新しい……いや、新しくはないな」
「あら、私、知ってる相手?」
「知ってる知ってる。俺とお前のお気に入りだ」
 ハルカは眉を寄せる。自分とキーファが気に入る女など、いただろうか?
「まぁ、キーファがこんな部屋で辛抱して待つくらいですもんね、お気に入りには違いないわ」
 あまりな言い様に口を挟もうとしたキーファだが、その機会は他に奪われた。
「どうせなら、残ってる仕事も明日に回さず片付けながら待ってて欲しいね」
 2人が一斉に声の方へ向く。ちょうど扉から副都市長が入ってきたところだ。
 小脇に分厚い冊子を抱えた副都市長は、困ったようにキーファに伝えた。
「まだ時間があるんじゃないかな?」
 彼は、歳も立場も自分より上のキーファに向かって、友達に言うような口調でそう言てきた。言われた方は、咎める様子などまるでなく、机の上に投げ出していた足を下ろす。
「……誤報だったんじゃねぇだろうな?」
「まさか。人聞き悪いね、君は。ちゃんと、アーティクル様の署名とフライの都市紋を確認したさ。急かしすぎだよ」
 副都市長はキーファをたしなめたが、当の本人は納得などできなかったようだ。
 窓の外を眺めて、立ち上がった。
「時間、間違えてるんじゃないか? ほら、フライは今、雪季《せっき》だろう? 日が出てなきゃ、正確な時刻を間違えることもあるじゃねぇか」
「そんなことあるわけないじゃない。それ、浮気の現場を見られた亭主の下手な言い訳みたいよ、キーファ」と、傍らでやりとりを聞いていたハルカが口を挟んだ。
 副都市長は大きく頷く。
「とにかく――落ち着け、キーファ。今の君は盛った雄《おす》とおんなじだ」
「それ、的確」
「お前ら……」
 嬉しそうに手を叩くハルカに、室内に現れたときから無表情の副都市長。
 憮然としながら、キーファは椅子から離れ、机を回り込もうとした。
 ――刹那。
 3人は同時に動いた。
 副都市長は振り返りざま、胸元から数本の短刀を取り出し、左手の指の間に挟んで構えている。ハルカはその場にしゃがみこみ、、裾から太ももまで入った深い切り込みが入った服の中から、肘までの長さの剣を逆手に持っていた。
 そしてキーファは机の陰に隠してあった長剣を手に取り、それを一気に鞘から抜き去る。
「どこの手の者だか知らねぇが、このキーファにケンカを売るつもりか?」
 恫喝は獣の雄たけびに近い。力強く、猛々しい。
「血に飢えてるってんだったら、相手になってやってもいいがな!」
 窓から差し込む西日が傾けた剣と一瞬だけ交わる。橙色の煌きが部屋を一瞬駆け抜ける――あたかも、飛び散る血しぶきを宣告するかのように。
 3人が見つめる先、扉がゆっくりと開いていく。
 そこに立っていたのは青年だった。歳は20代前半か。ギガを訪れる旅人にしては、珍しく若い。
 無防備に佇む青年は、とても突然現れたようには――この部屋の前に立つまで気配を消していたようには見えない。
 副都市長が緊張した面持ちで短刀を構えなおす。いつでも投げられるように。
 緊迫した雰囲気は部屋中に満ち満ちた。唾を飲む音さえ響き渡るに違いない。
 その状況で、声を発したのは、現れたばかりの青年だった。
「相変わらず、物騒だな、あんたたちは」
 青年がぞんざいな口調でキーファに言う。
 鋭く睨み、言い返そうとしたキーファは、だが、軽く眉を顰《ひそ》めた。
 青年の顔を見知っている気がしたのだ。
「本当、ここは変わらない。この姿でわかんないのか、あんたたちは」
 青年は頭を指差した。その髪は、薄暗い部屋の中では判別しがたいが……キーファと同じで黒に見える。
 まさか、とキーファは思った。彼だけではない。副都市長も、ハルカも、まさか、と思った。
 だが、否定するのも馬鹿馬鹿しいほどの確信が既に彼らの胸のうちにある。
「びっくりさせやがって……」
 キーファは、剣を下げながら呟く。
「……声かけるくらいはしろよ、ラグレクト!」
 剣を鞘にしまい、その鞘ごとハルカに手渡した。
「ちょっと、ずるいわよ、キーファ!」
 自分も駆け寄ろうと思っていたのに剣を手渡されてハルカは文句を言う。キーファが片手で扱う剣は、ハルカには重く、両手でなければ扱えない。持ちながら駆け寄ることなど、無理な話だ。
 副都市長はいつの間にか短刀をしまい、我を忘れて床に投げ捨てた冊子を拾って再び小脇に抱えていた。珍しく、笑みを浮かべて。
「久しぶりじゃねぇか、おい、元気だったか!」
 キーファは大またで歩み寄ると、ラグレクトの肩を大きく叩く。思い切り叩いたせいか、ラグレクトは一瞬だけ顔を引きつらせ、それでも笑顔でキーファを見つめた。
「そっちこそ、まだ体はなまってないな」
「生意気言うな、このガキが」
「40にもなろうってのにまだガキなヤツに言われたくない。――2人は元気だったか?」
 片手を挙げてラグレクトが挨拶をすると、副都市長は軽く会釈し、ハルカは大きく首を縦に振る。
 振り返ってその様子を見ていた彼らの主人は、再びラグレクトの肩を叩いた。
「元気も元気、ハルカなんて毎日うるさくって……」
 キーファはラグレクトの額を小突き、さらに何か言おうとしたが……そこで止まった。
 ラグレクトの背後で佇む青年を目にしたからだ。
 キーファの視線を追ったラグレクトは、忘れてた、という表情で、一歩下がって背後の青年を前に押し出す。
「俺1人じゃないんだ。彼はジェフェライト。――ジェフェライト、この全然偉そうに見えないオヤジが、西方都市ギガの都市長だ。名前は、キーファリーディング。でも、キーファでいい」
 本来ならばキーファが言うべき台詞まで一遍に言い切ったラグレクト。答えるような形でジェフェライトが返す。
「キーファ様、お会いできて光栄です。私は、ジェフェライト・ジャスティ」
「ジェフェライト、その『様』ってのも不要だ」
 キーファは、ラグレクトとジェフェライトの間で視線を行き来させた。
 それから、ラグレクトの肩に手をかけると、彼に尋ねた。
「おい……まさかとは思うが……こちらは、『剣技』の跡取さんじゃねぇのか?」
「見てわかるだろうが」
 まさかも何もない。
 茶色の髪に茶色の瞳は、『剣技』の民。
「……お前……今度は何やったんだ?」
 西方都市ギガにおいては、3族のうち最も信頼があり、敬意を払われる、憧憬の対象――『剣技』一族。
 都市長であるキーファは、ジェフェライトという名が、『剣技』の唯一無二の王位継承者だと知っている。知っているが……実際に会ったのは初めてだ。
 けれども、キーファが驚愕しているのは、相手が会ったことのない相手だからではない。会えるはずのない相手だからだ。
「何をやったかっていうと……長い話になるんだ、これが」
「それが、アーティクル殿の言う“事情”というやつか?」
 聞くまでもないことだが、彼はあえて疑問形で言った。
 “『魔道』の王子が貴殿を訪ね行く。事情により、詳細は明かせぬ”――これがアーティクルからキーファの元に届けられた伝令の中身だった。
「あんたの好きな、賭けの話だ」
 ラグレクトの言葉は、かつて彼の口から1度は聞いたものだった。その当時よりも今の方が幾分落ち着いているのは、ラグレクトもキーファも同じ年月を会わぬまま過ごしたことの証明である。
 それでも、キーファは気づいた。
 何にも固執せず奔放と無謀を他者に明示して生きてきたはずの、自分と同じ種類の人間だったはずの青年が、3年前では決して見ることさえ適わなかった真摯な眼差しと何かを背負って自分の前に再び現れたことに、気づいた。
(変わったな)
 何がラグレクトを変えたのか、キーファは知らない。
 知らないが、今、聞かずとも良いと彼は判断した。
 ラグレクトが彼に持ちかける話には、必ず、その、ラグレクトを変えた“何か”に関わる話に違いないのだから。そうでなければ、この青年が自分の前に再び顔を現れた理由にはならない。
「とにかく、立ち話も何だ、何か食べながら話そうや」
 キーファは2人の青年の肩を抱いて、副都市長に命令を発した。
「晩餐の準備を整えろ!」
「既にできておりますよ」
 冷静に返す副都市長の横で、黙っていたハルカが口を開く。
「いつもより少しだけ早いけれど……灯りをつけましょうか?」
「ああ。今日は特別だ」
 キーファは即答する。
「2人の王子のために、ギガの夜を始めるぞ!」


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