Deep Desire

【第4章】 選ばざるべき選択肢

<Vol.2 古傷>

 こめかみから流れ伝う汗に険しい表情をしながら、ガルトは剣をゆっくりと降ろす。
「よし、少し休憩しよう。このまま続けたら、俺もぶっ倒れるからな」
 兵士たちは、ある者は苦笑し、またある者は安堵して、声をそろえて答える。
「はい」
「よし、じゃあ少しばかり休憩だ」
 顔の輪郭をなぞるように伝っていく汗を手の甲で拭う。それからガルトは、頭を軽く振った。刈り上げた赤髪から煌きを見せるように汗を飛び散らせ、彼は息をつく。
 鞘にしまった剣を手にし、天井を眺めていた彼は、その場で時を刻むことなくすぐにゆっくりと部屋を出ていった。
 熱気に包まれた部屋から1歩外に出ると、風が吹き付けてくる。突風というわけでもなく、また、冷たい風ではないのだが、火照った身体には実に心地よい。
 回廊に一定の間隔で立つ柱の1つに背中から寄りかかると、ガルトは、ふぅと声を出した。
 と、汗で衣服が背中にくっつき、石の柱を必要以上に冷たく感じてしまい、仕方なく彼は柱から離れ、その場に座った。
 床の上に直に剣を置き、その剣の柄の上に左手を乗せて、ガルトは風に身を任せるように何も考えずにいた。部屋の中から聞こえてくる兵士たちの雑談に、耳を傾けたりしながら。
 ふと、気になって、柱の合間から覗ける中庭を振り返るようにして彼は見る。
 中庭は、城門をくぐってすぐの場所にある中央広場ほど広くはないが、心を和ませる新緑の木々がある。花をつける植物は1つもない代わり、数種類ある樹木のいずれも一年中葉を絶やしたことはない。
 イスエラの気候を考えると、そのような樹木が育つのは難しいことなのだが、中庭がいつでもこうして緑を保っていられるのは庭師の努力の賜物であると、彼は幼い頃より父から聞いていた。
 ガルトは、この中庭を大層気に入っている。見ているだけでも心安らぐ中庭がこの訓練室のすぐ近くであるというのが理由としては大きい。
 しかし、それ以外にも理由はあった。
 中庭には思い出がたくさんあるからだった。
「それにしても……」
「暑いな」
 ガルトは同意を示すように、大きく力強く頷いた。
 そして、数秒立ってから、自分以外の人間がその言葉を発したことに初めて気づき、正面へ向き直った。
「――陛下!」
 慌てて彼は声をあげる。
 座り込んだガルトを覗き込むように、中腰のラクティがそこに立っていた。
 ラクティがなぜ、そこにいるのかはわからない。しかし、彼は普段と違って、およそ国王には見えない格好――彼が王子の頃に好んでいた軽装で、立っていた。
「座ったまま、呆けたように庭を見てるもんだから、熱射でやられたのかと思ってビックリしたぞ……大丈夫か?」
「え、ええ」
 多少動揺しているため、聞かれたことを素直に答えた。
 その様子が面白かったのか、ラクティはガルトの真正面、回廊の真中に尻をついた。
「陛下! 供も連れずに……また、このような場所に座るなど……」
「ほんの少しだ」
「しかし、部屋の中には兵もおります。それでは、国王としての威厳が……」
「こんな暑さで威厳も何もあるか。それとも、ガルト、お前は自分だけ座っていながら俺には座るな、と言うのか?」
「陛――」
「頼むから、『失礼いたしました』なんて言って立ち上がるなよ。大きな男が動くのを見るのは暑苦しい」
 苦笑しながら、ラクティはガルトに命令した。腰を浮かしかけたガルトは、逡巡した後で、結局元のようにその場に座った。
 ラクティは意外と、1度言い出すと人の言うことなど聞かない性格だ。それを知ってるガルトとしては、諦めてラクティが座り込んでいるのを黙認するかしかない。
 ただし、何かあっても動けるような体勢で座り、さきほどと同じく、すぐに剣を構えられるよう、柄の上に手を乗せることは忘れなかった。
「……剣の稽古か?」
 ラクティは、ガルトが黙り込んだことをひとつ笑ってから、親指を立てて背後にある扉を指差す。
「はい。気まぐれで、1人、剣の稽古をつけてくれという兵士の要求に答えたのですが――自分も自分も、と、次から次へと出てきまして……」
「相変わらず、お前は兵に慕われているな」
 ラクティの言葉にガルトは恐縮そうに頭を垂れた。
(何をおっしゃるのだか……)
 ラクティの方が多くの者に慕われているというのに。
 ガルトは、眩しそうに目を眇めて眼前にいる君主を見つめた。
 肩で軽く跳ねている金色の、イスエラで稀有な金色の髪と、褐色という、イスエラでもっともよく見る肌の色。その組み合わせは、ラクティはまるで、イスエラに降り立った太陽の神のように神々しく見せる。
 ガルトだけではなく、民は皆、彼のことをそう思っているだろう。
 イスエラの王は神もしくは神の代理人と称されることが多いが、ラクティほどにそれを具現した王はいない。
「で、ガルト。兵の様子はどうだ?」
 真剣に、というわけではなく、興味本位だとわかる口調に、ガルトはにこやかに返した。
「人によりけり、ではありますが、皆、一生懸命なのでこちらとしても教え甲斐があります」
「そうか。……もっとも、皆、私よりはいい生徒だろうが」
 伸びた波打つ前髪が邪魔なのか、手で梳きながら言った言葉にガルトは猛烈に反発した。
「陛下も、私にとってはよい生徒でございました!」
「本当か?」
 ラクティは力を抜くように、ふっと笑みを消し去って、ガルトを正面から見つめてくる。そして、間髪いれずに問うてくる。
「本当にそう思うか? ――私は、自分がいい生徒であったとは思えない。お前の、その頬の傷痕を見るたびに」
 直視するのも耐えかねる、といった様子で、ラクティの赤茶の瞳がガルトの顔からそらされる。
 ガルトは無言で、右の目尻から頬の中ほどまである傷を指でなぞった。
 深く走る傷。決して消えることのない、隠すことさえできない傷。
 周囲はこの傷に気を遣う。その傷の話をガルトの前で口に上らせる者はいない。なぜなら、傷をつけたのはラクティだったから。
 唯一、彼の傷について触れたのは彼の父親だけ、それもたった一言。
 片目が完全に潰れ、見えない状態にある父親が言った一言は、「男前になったな」、である。……父に比べれば大した傷ではない、と彼は気が楽になり、たとえ笑い話にされても大丈夫なほど、傷が気にならなくなった。今では、傷があることさえ忘れてしまうほど、どうでもいいことである。
 しかし、傷をつけられたガルトはその存在を忘れてしまうことができたとしても、傷をつけてしまったラクティの方はそうはいかなかったらしい。顔を会わせれば、傷が目に付く。思い出す。
 以来、ラクティはガルトの顔を直視することができなくなり、彼からも1歩引いて、遠慮するようになっていった。
 国王になったからというよりも、たった、この1つの傷で、彼らは疎遠になったのだ。
 命を奪ったわけでもない、たったこの1本の傷のために。
「あのとき、顔面を血に染めたお前を見たとき、私は動けなかった」
 ラクティは、回廊の先へ視線を運んで呟いた。
 誰もいない回廊の風景に、彼が何を重ねて見ているのか――ガルトにはわからない。わからないが、昔の事故を思い出しているのは、暗く沈んだ口調から推察できた。
「私は、何1つできなかった。ただ、震えながら立っているだけだった」
「……陛下、あれは、私の心に隙があったために起こった事件なのです」
「ガルト。私は、目の前でお前があれほどの血を流し、声を上げたのに……何もできなかったのだ。そんな私が、国王などとは……おかしいと思わないか?」
 ラクティはガルトと目を合わせないまま、寂しそうに笑った。
「私は、この国の民に幸せになって欲しいと思う。本当は戦などしたくはないのだ。皆が傷つく。だが、先ほどシレフィアンに言われた。戦わなければそれはそれで、民を傷つけるのだ、と」
 実兄であり宰相でもあるシレフィアンの名が出た途端、ガルトは微かに身を強張らせた。が、気づいていないのか、ラクティは話を続ける。
「戦おうとも戦わずとも、民は皆、傷つく。――ガルト。私は、お前が目の前で苦しんでいるのを助けられなかった。そんな私が、目の前ではない場所で、手の届かぬ場所で苦しんでいる民を助けることなどできるのだろうか?」
「陛下……」
「私は、ときどき思う。私には、人を助ける力などないのではないかと――」
 ラクティの声が微かにかすれ、震える。
 まるで、涙を堪えているかのように。
「私は、傷ついた者も傷つこうとしている者も、そのどちらも救えない。その証拠に……私は、まだ、誰も救えていない。国王だというのに。国を守る王だというのに」
 風がラクティの髪を揺らし、横顔を隠す。
「なぜ、父上はあれほど早く亡くなられてしまったのだろう」
 初めてだった。
 ラクティが前王の関して、そのような弱気な言葉をガルトに言ったのは。
 彼の頬に傷を残して以来、心情を吐露するような発言は初めてだった。
「陛下……」
 ガルトはラクティに声をかけようとして、そこで止まる。
 何と言えばいい?
 ラクティの求めている言葉を言いたい。けれども、ラクティの表情が、見えない。
(何を望んでいる?)
 考えたが、わからなかった。
 王子であったラクティはガルトにとって誰よりも近い存在だったのに――王となったラクティは、ガルトにとって遠い存在だったから。
 考える時間は永遠ではなく、終わりは部屋の中から出てきた将兵が彼を呼ぶ声で告げられた。
「ガルト将軍、そろそろ……」
 兵は、ガルトの前に座る者が誰であるかわかったらしく、慌てて口をつぐむ。
 恐縮と共に「失礼致しました」と言って下がろうとする兵を引き止めたのは、ラクティだった。
「よい。私は部屋に戻る。……邪魔したな、将軍」
 立ち上がりながらラクティはそう言って会話を終えた。
「陛下!」
 このまま行かせてはいけない。そう思っているガルトに、
「将軍、我が兵を頼むぞ」
とラクティは告げ、1人回廊を歩いていく。
 誰も傍に従えず、自らの足で歩いていく。
「陛下、お待ちください、陛下!」
 ガルトは立ち上がった。
 追いかけて伝えねばならない。
 あなたのその存在だけで救われている国民もいるのだ、と。
 だが、それでいいのだろうか? それだけで、陛下の御心は穏やかになるのか?
 言うべき言葉を探し続けた挙句、ガルトはそれを見つけられずにラクティを無言で見送った。
 わかっている、これでは何の解決にはならないということは。
(嘘のように聞こえてもいいのだ。真実を伝えれば、いいのだ)
 わかっているのに、声は出ず。
(陛下の御心が穏やかになると、信じて伝えればいいのだ)
 わかっているのに……選んではいけない沈黙に自分はいつも従ってしまう。
(……たった一言でいいのだ……存在だけで救われている民もいるのだと、私こそそのうちの1人だと、伝えればいいのだ……)
 なのに、なぜ言えないのだろう。
 昔はこうではなかった。
 少なくても、この傷ができるまで、ラクティが王子で、自分が指南役であった頃までは。
 ラクティは、強く瞼を閉じて項垂《うなだ》れた。
 去っていくラクティとの距離はそのまま自分の心との距離のようで――ガルトの傷は、もう血など出ていないのに、こういうときに疼《うず》くのだった。


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