Deep Desire
イスエラ王国の国王ラクティは、声を失って半ば腰を浮かした。
自分が足を運んだにも関わらず待たされていることに立腹していたのだが、その感情さえどこかへ置き忘れて、座っているのか立っているのかわからない格好のまま呆然としてしまった。
長い黒髪に水滴をつけたまま現れたこの部屋の主は、どことなく艶《なまめ》かしく、表現しがたいほど美しく――男とはいえ、見惚れるには十分だったのだ。
「陛下」
赤い瞳が、微笑む。
「遅れて申し訳ございません」
宰相シレフィアンは垂らしたままの黒髪と同じように長い衣を引きずりながらやってきた。常に身だしなみを整えて現れるシレフィアンらしくない、いかにも「急いでいたのでとりあえず衣を肩に引っ掛けてきました」といった様子。それがいつもと違ってより一層、彼の色香を鮮やかなものにしているように見える。
ラクティは、何をどう言って答えればいいか正直戸惑い、口のきけない状態でいた。が、そんな対応を取られることに慣れているのか、当のシレフィアンは驚きもせずに軽く膝を曲げ頭を垂れる――略礼をとった。
「お待たせいたしました、陛下」
容貌を決して裏切らない声音の謝辞。
「陛下はシレフィアン様のことを今か今かとお待ちしておりましたわ」
ラクティが答えるより早く、出入り口に立つ侍女数名が苦笑と共に事実を語る。
そのからかう声音で、ラクティはやっと自分を取り戻した。
「冷浴《れいよく》中ならば、そう言えばいい」
言いながら頬が熱くなっていくのをラクティは感じ取った。が、気づかぬふりを装う。
国王たるもの、臣下の傍仕えたちに笑われるようでは威厳にかかわると思ったため、努めて冷静に一言付け加えた。
「邪魔になるとわかっていたら、出直してきたものを」
「せっかくの陛下のご来訪、お断りするわけにはゆきません。さぁ、陛下、お座りくださいませ」
シレフィアンは下げていた頭を上げ、ラクティに椅子を勧める。それはもちろん、彼が現れるついさっきまで、ラクティが座っていた椅子である。
自分が中腰であったことを知らずにいたラクティは、もう1度、気恥ずかしさに襲われる。
しかし、今度は取り繕うことはしなかった。開き直り、彼は無言で椅子に腰掛けた。
とりあえず、意識を変えようと思っていたところでシレフィアンが向かいの椅子に座るところを見たためか、ラクティの意識は再びシレフィアンへ向かった。
(……本当にシレフィアンは、男には見えないな……)
その動作といい、外見といい、女性のように優美だ。繊細な面影で王都1番の美女と謳《うた》われた母親にそっくりなシレフィアンは、男色家ではないラクティでさえも目を奪われる。
彼に、実弟のガルトと同じくらいの背丈、あるいは、名門ジャベルレン家の子息と名乗ることのできる最低限の武力、そのどちらかさえなければ、女に見えたとしても不思議ではなかった。
誉め言葉のようにラクティがそう言うとシレフィアンはいつも困ったように笑い、
「光栄にございます」
という返事をする。が、そこで会話を断ち切ってしまう。
彼は、自分の容姿に優越感・劣等感はともかくとして、感心・無関心、そのどちらを持っているのかさえ、うかがわせないのだ。
そう――いつもシレフィアンは、何を考えているのかわからなかった。
ラクティは、ガルトの真っ正直な性格を知っているだけに、ときどき、彼とガルトが血を分けた兄弟であることさえ忘れてしまうほどだった。
そして、シレフィアンとティヴィアが血を分けた兄と妹であることも。
「シレフィアン、ラリフ帝国の件、進んでいるのか? ……ティヴィア殿の話を、あまり聞いていないが」
訊ねると、黒髪の宰相は、濡れた長い睫《まつげ》を少し伏せるようにしてラクティを見つけてきた。
「ご心配でございますか?」
――この私の策が。
そんな声が聞こえた気がして、ラクティは慌てて首を横に振る。
「いや、シレフィアンが嘘を申したことなどないし……それに、シレフィアンの策は、信頼するに値する。だが……」
ラクティは一旦言葉を切って、飲み込んだ。
(だが、ティヴィア殿は、大丈夫なのか?)
1人で敵地にもぐって、不自由はしていないだろうか? 困ったことなどないだろうか?
考え始めると、ラクティは気になって仕方がない。赤い髪の少女のことが、気になって気になって仕方がない。
(……ティヴィア殿……)
彼女は今、どうしているだろうか、とラクティは思いを馳せた。
あれから4年、何もできずにいる自分を苦々しく思いながら。
4年前にもイスエラ王国には、ラリフ帝国への侵略を声高に叫ぶ交戦派と、ラリフ帝国との同盟の維持を守ろうとする同盟派、この2派が存在していた。
王子であるラクティは、父王と同じ同盟派だ。しかし、父王を囲む重臣のほとんどは交戦派である。ここ数年の、天候悪化による農作物の不作が、肥沃な土地を有するラリフへの侵略策が急浮上させていた。
問題は、ラリフをいかに攻めるか、である。
かの国には不可思議な力を操る3つの部族がいる。イスエラ王国の神官の中にも、治癒や平癒ならば多少の力を使える者がいるのだが、攻撃的な能力は持ち合わせているものは誰ひとりいない。
他国との戦で用いた策が通じるかどうか疑わしい。それに、イスエラ兵は、ラリフに対して未知のものへの畏怖がある。簡単に仕掛けるわけにはいかないのだ。
何にしても、ラリフ帝国の情報は少なすぎ、両派は互いを説得することこそ永遠の命題であるかのような議論を交わしていた。
あの発言があるまでは。
「では、イスエラ兵をラリフ帝国に潜伏させるというのはどうか?」
どちらの派閥からその案が出てきたのかはわらかないが、交戦派も同盟派も論戦に疲れ、とりあえずは様子を見るために間者を送り込もうというところで合意した。
そして、誰を送り込むかという段になり、挙がった名前はジャベルレン将軍の息女、ティヴィア・ジャベルレンであった。
「なっ……まことですか? 父上、ジャベルレン卿!」
ラクティは議論の席で不服の意を唱えたが、父王の横顔は一切変わらなかった。
父王は、ラクティには何も言わずに、自分のもっとも近くにいる臣下、隻眼の将軍に尋ねた。
「良いのか、ジャベルレン」
ラクティの向かいに座るジャベルレン卿が大きく頷く。
これで、会議の終わりとティヴィア・ジャベルレンの運命は決定した。
父王が大きく頷くと、卓を囲んだ皆が一斉に立つ。1人遅れて立ったラクティは、どうしていいかわからずに父王を呼ぶが、その声を無視して父王は退出していく。
微かな憤りを感じつつ、彼は、自らも部屋を後にしようとしていたジャベルレン将軍に声をかけた。
「待て! 待たれよ、ジャベルレン卿!」
隻眼の将軍は、ピタリと止まり、上半身だけラクティへ向ける。
「殿下、何か?」
「ジャベルレン卿、そなたはそれでいいのか? そなたの娘は、まだ16、7であろう? なのに、ラリフへ行かせると?」
「適任なればこそ」
将軍は娘を誇らしげに思っているような口調で言い返す。
ラクティはどう言っていいかわからず、黙り込んだ。
ラリフに潜伏するといっても、実際にイスエラが動くのはいつになるかはわからない。出口の見えない状態で、正体がばれたら殺されるという状態で生きろと彼は言うのだろうか、実の娘に。
(そんな……)
ラクティは口を閉じた。
わかっているのだ、仕方ないということは。
国のために、民のために、父王が選んだのだ。
信頼の置ける、それ相応の働きのできる者を。
――わかっては、いる。けれども……けれども。
「何とかならないだろうか……ジャベルレン卿」
「殿下……お心遣いはありがたいが、これは既に決まったことでございます」
隻眼の将軍は、喉仏まである顎鬚《あごひげ》に触れてしばらく考え込んだ後、慰めるようにラクティの頭を撫でた。剣の練習で上手くいかずに落ち込んでいるときに将軍が決まってする行為だ。
急に、ラクティは切なくなった。
「本当に、本当に何とかならないのか?」
言葉ばかりか、鍛錬で剣を交わしたことさえある少女の姿が、脳裏をかすめていく。
「彼女を本当に、ラリフに行かせる、と?」
「殿下……」
「どうして、彼女が行かなくちゃいけない? 私は母上に、男は女を守るものだと言われた」
自分とさして変わらない少女が――言葉を交わしたこともある、見知っているあの少女が、敵の掌中へ身を投げる。
なぜ、そのような犠牲を強いる?
「母上は決して、女1人を戦場に立たせることなど教えられなかった」
「殿下」
ジャベルレン卿は、片目だけでにこりと笑うと、ラクティに優しく言った。
「殿下はお優しくていらっしゃいますな。だが、これは誰かがやらねばならぬこと。我が血を引く2人の息子には恐れ多くも既にそれぞれの役務がございます。ならば、ジャベルレンの名誉を守るのは、残る娘のみ。……女であることなど、この際問題ではないのです」
「しかし、万が一にも彼女が傷でも負ったらどうするのだ? 一生消えぬ傷でも負ったら……我々は男は、それを勲章とすればよい、しかし、女性ならば……」
「陛下は本当におやさしい。――では、お願いがございます、殿下。娘がそのような大きな傷でも負う前に、少しでも早く迎えに行ってあげてください」
「迎えに?」
「そうです。私やお父上も頑張りますが、殿下もラリフへ我が娘を迎えに行ってあげてください」
「それは、ラリフに攻め込めというのか?」
将軍は、力なく首を振る。
「娘がもたらす情報は、開戦後に大変役立つでしょう。ですが、それだけではございません。同盟の条件をよりこちらに有利なものにすることにも役立つと思います。どちらの使い方を選ばれるかは、殿下のお心1つでしょう」
「自分の……心1つ……」
「はい。私や国王の時代はもう、終わりつつあります。これからは、あなたや我が息子たちの時代。――我々のように色々なものに囚われて、いつまでもいつまでも悩まぬよう、早く娘を迎えに行ってあげてください」
ジャベルレン将軍は、ラクティの頭から大きな手を離すと、即座に踵を返した。
「娘を少しでも早く、この祖国に戻してあげてください。イスエラ王国の民なのですから」
「ガルトの報告では、軍の掌握はまだまだ時間がかかるとのことだったな。……来る冬に遠征どころか、交戦そのものを見直すべきではないのか、シレフィアン」
ラクティは、軽く波打つ前髪をそっと後ろへ撫で付けながら、1週間考えに考え抜いた結論を伝えた。
隻眼の将軍に言われてから、4年経つ。
ラクティの中では、「まだ」ではない。「もう」なのだ。もう4年も経つ、のだ。
早くティヴィアを連れ戻したい……気は急くが、彼は未だに開戦を快く思わぬ自分も知覚していた。
「ここまで話を運んで、何もせぬままでは交戦派が収まりますまい」
シレフィアンが言い返す。なぜか、少し楽しそうに。
「今、ラリフは内乱状態にあります。この期を逃せば、かの地を我らが手中に治める日はさらに遠のきましょう」
「だが……」
「それともラクティ様は、今にも手に届かんばかりの民の希望を絶つというのですか?」
落ち着いた、歌うような口調で紡がれた言葉は目に見えぬ刃となってラクティの胸に刺さる。
その刃の柄を握り、さらに奥へ押し込むようにしてシレフィアンは続けた。
「我が国内の食物自給率は年々下降しております。王宮では、明日食べるものに困ることなどないでしょう。だが、王都から離れた都市の中には、翌日の食べ物さえ確保できない者が多数おります。我ら神官は、そういった者たちに、神が、そして神の代理人たる王が、信じた者を必ずや救ってくださると説いて回っているのです。――ラクティ様は、あなた様を信じる者たちに、希望は捨てろとおっしゃるのか?」
「……」
「神官たちに、夢物語を真であるかのように語る詐欺師になれとおっしゃるのか?」
ラクティは押し黙った。
そこまで言われると、何も言えない。
幼い頃から食べるものにも着るものにも住む場所にも困らなかった自分。つまり、王となった自分を今育ててくれたのは民であり、そして、今、こうして毎日不自由なく暮らしているのも民のおかげなのだ。
こんなにも愛され、多くを与えられているのに、自分は何も民にしていない。
次第に俯くラクティにシレフィアンは顔を近づけた。
シレフィアンの濡れた髪がラクティの頬に一瞬触れ、冷たい口付けを残していく。
「打てる手は着々と打ってございます。案ずるには及びません。あなたの在位中には完全に、両国の争いの歴史は終幕を迎えるでしょう」
「……わかった。シレフィアンの思うとおりに」
誘われるように漏れた言葉に、ラクティは大きくため息をつく。
顎まで伝う水滴を手の甲でそっと拭い、ラクティは心中で呟いた。
(なぜ、これほどまでに早くお亡くなりあそばされたのですか、父上)
ラクティは、一昨年急逝した父を今でも恨まずにはおれない。
未だ王子であったなら、民のことなど、自分が背負った重きものなど考えもせずに、ただ彼女を、異国に1人で生きる彼女を迎えにいくことができたのだから……。
今となっては、あまりにも多くのことを考えねばならなくて……ときどきラクティは周りが見えなくなる。何をすればいいのか、どこへ歩いていけばいいのか、自分がたどるべき道筋さえ見えなくなる。
(私は、1人の少女さえ救えない。そんな私には、一体何ができるのだろうか?)
そんな私が、王などでいいのだろうか?
ラクティは、俯き、瞼を閉じる。
――感じるのは闇だけで、光は見当たらない気がした。
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