Deep Desire
敷き詰められた絨毯《じゅうたん》の上に汗が飛ぶ。
それは、汗だけではない。少量の血も混ざっていた。
「遅い!」
ジェフェライトが一喝し、水平に木でできた剣を薙《な》ぐ。すると、剣は避けることのできなかった聖都兵の鳩尾《みぞおち》に見事当たり、兵は吹っ飛ぶと重い音と共に背中から床に落ちた。
「ぐっ……」
くぐもった声。苦痛をこらえるうめきが見え隠れする。
訓練のために厚い絨毯が敷かれているとはいえ、ここは聖都、その絨毯の下は当然水晶でできているのだ。背中から落ちれば相当の痛みを伴うことは間違いない。
鼻や口から流れる血を拭い、痛みを堪えながらも兵はジェフェライトを睨んだ。4年前、ルキスが聖都兵を率いて『賢者』を滅ぼして以来、聖都兵に逆らった者はまずもっておらず、兵の中には膝を折る屈辱など初めての者さえいるのだが、彼もその中の1人らしい。ジェフェライトを睨《ね》める瞳には激しい憎悪が浮かんでいる。
だが、それだけ、だった。兵士たちができたのは、ただ睨むことだけだった。
立ち上がり再び剣を構えたり、口で罵ることさえも彼はできなかった。
彼だけではない……ほとんどの兵が、ジェフェライトを睨むことしかできなかった。彼らは誰に言われずとも、剣を交わしたことでわかってしまったから――絶対的な実力の差というのを。
ジェフェライトは、そんな兵士たちの、怒りと悔しさに満ち満ちた瞳を見つめ返して木剣《もくけん》を軽く一振りすると、背を向けた。
「さて、次はどなたが私の相手をしてくださるかな?」
彼は丁寧な口調で問う。
普段とは何ら変わらぬ口調なのに、雲泥の実力差を見せ付けられた兵士たちにとっては、その丁寧さが嫌味にも聞こえる。
どちらかといえば神官のように、穏やかでやんわりとした雰囲気をジェフェライトは醸《かも》し出している。それは、木剣を構えたときでも同じだった。『剣技』の王子など恐れるに足らん、と胸の奥底で嘲笑した者も多かったに違いない。
しかし、現実に、そのジェフェライトに一太刀浴びせられた者はいなかった。彼は穏和な気配を打ち消すことなく、流れるような剣さばきで聖都兵の木剣を受け流す。まるで赤子の手をひねるように――利き腕である右腕ではなく、左腕で木剣を扱いながら。
手合わせが始まってそれほど時間が経っていないが、既に、我こそは、と名乗り出る聖都兵の姿はなくなっている。兵の士気は低下していた。
「おりませんか?」
ジェフェライトは静かに問うた。広い広い部屋に、彼の声が響き渡る。
まだ十分には動かせない右手で伸びすぎた後ろ髪を撫でながら、彼は悪びれた様子もなく言った。
「これで“聖女”様を守る兵とは……鍛錬が足りませんね」
彼にしてみれば思ったことを言ったまでなのだが、3族と同等、いや、それ以上の自尊心を持つ聖都兵はこの台詞《せりふ》に色めきたつ。
囲むようにして手合わせを見ていた兵士の多くが、殺気を持って詰め寄ろうとした、まさにそのとき。
「ジェフェライト殿。次は私がお相手願いたい」
緊迫した空気の中、そういってジェフェライトの前に出てきたのは、金の将軍ルキスの片腕、ティヴィアだった。
長く結った髪を左右に揺らせながら、彼女はジェフェライトの前に歩み出た。
「私は構いませんが」
そちらがお困りになるのではございませんか? ――そんな口調で語りながら。
ティヴィアが、苦笑する。
そして、心の中で呟いた。
(私が他の兵のように打ち負かされることを案じてくれているのか)
舐められたものだ、とティヴィアは思った。
しかし、考え直してみれば、最初にこちらが取った行動の方が彼を見下していたものに違いない。
(真実、私はこの王子を過小評価していた)
聖都兵に囚われた、右肩に怪我を負った王子。
これほどの実力を持ちながら、一般兵と手合わせをさせられた王子。
手加減しない剣技を見れば、彼女は、自分が誇り高いと言われる3族に身をおく彼の矜持《きょうじ》を予想以上に傷つけてしまったことに嫌でも気づく。
(私の責任、だな)
聖都兵が失ったものを取り戻すには、自分は、ジェフェライトと互角かそれ以上の実力者であることを見せるしかない。
やるしかないのだ。
上に立つ者として。軍の指揮官として。
ティヴィアは床に転がった木剣を拾い、ジェフェライトを見つめた。
彼の剣技を傍目で見て、醜態を見せずに済むかどうか――不安はある。
けれども、その一方で、心躍るような高揚感が湧き上がってくるのを彼女は感じ取っていた。
剣を手にすると、血が、騒ぐ。
身体の隅々まで流れる、名門ジャベルレン家の血が。
(臆するな、ティヴィアよ。――ティヴィア・ジャベルレンよ)
言い聞かせて、彼女は両手でしっかりと柄を握り、切っ先をジェフェライトに向けた。
ジェフェライトが微笑を消し去り、体の前で軽く剣を構える。
短い、固唾《かたず》を飲む暇さえなかった時間を超えて、ティヴィアはジェフェライトの胸元へ鋭く木剣を突き出していった。
「さすがは、戦乙女殿」
手放しで相手を誉めながらジェフェライトは笑む。
手合わせを始めてからずっと、怪我をした右肩が痛い。そして、その右肩をかばっていたため、左肩も時間と共に強い痛みを訴え始めている。とても笑えるような状況ではない。
だが、苦痛に顔をゆがめたりはしなかった。それをやっては、相手に好機を与えてしまうことになる、苦しいときこそ、あえて笑わねばならない――彼は剣の師でもあり父でもある族長に、そう教わっていたから。
それだけではない。
純粋に手合わせが楽しいのも、あるのだ。
思えば、聖都から逃げ出す途中に怪我を負って以来、まともに剣を振るったことがなかった。きちんとした手合わせともなれば、『剣技』の宙城を出る朝に行った鍛錬以来の話になる。
柄を握る感触が安心感を与えてくるから――知らずのうちに、笑んでしまう。
しかも、相手がそこそこの使い手をなれば、なおさら。
「ジェフェライト殿こそ……とても怪我をされているとは思えない」
賛辞を耳にしながら、ジェフェライトは手の甲で汗を拭った。張り付いた髪が目に入らないよう、それもそっと退ける。
「ティヴィア殿は太刀筋が変わってらっしゃる……帝国内ではあまり見かけない太刀筋ですね」
率直に感想を述べたのだが、聞いたティヴィアは一瞬、息を飲む。明らかな驚愕が表情に浮かんでいる。
彼女がそんな風に、明らかにわかるほど驚いた理由はわからないが、その隙を見逃さず、ジェフェライトは切りかかる。
ティヴィアの右肩に突き刺すように木剣《もくけん》を出したが、咄嗟《とっさ》にティヴィアは後退して避ける。そして、向かってきた木剣をいなすように自分の木剣をぶつけた。
(剣が流される!)
ティヴィアの意図を察し、ジェフェライトは今までと一転、初めて力任せな行為に出る。
相手の木剣に己の木剣を当てる。鍔元から。そして、弾く。刃と刃を打ち鳴らすようにして。
その瞬間、ほんのちょっとだけ空いた胸元の隙に、木剣の切っ先をえぐるようにして突き出した。けれども、木剣はそこそこの長さがある。そのため、突くには向いていない――木剣を扱いなれているティヴィアは、繰り出される剣先を余裕を持って避けた。
それだけではない。
彼女は、突きによってがら空きになったジェフェライトの右脇を叩こうと動いのだ。
(そうはさせない)
ジェフェライトはティヴィアの行動を読んでいた。
突きをかわされた時点で木剣の握りを翻し、逆手に持ち直す。
木剣が、またしても、ぶつかる。
短剣の刃で攻撃を防ぐように、ジェフェライトはティヴィアの攻撃を刀身で防ぐ。
脇腹への攻撃は回避したが、剣の芯から重い感覚が伝わってきて、腕が痺れた。そしてそれは、肩の悲鳴を誘い出す。
(くっ……)
痛みを堪えて、右手を動かすと、彼は肘でティヴィアを押し戻した。
ティヴィアは床に片手を着く形で彼の肘を交わし、その低い体勢のままジェフェライトの傍らを通り過ぎていく。
2人は互いの攻めを凌ぎ、すれ違うと、即座に振り向き剣を構えなおす。
もう、何度も繰り返された光景。
ジェフェライトは肩で大きく息を吐き出した。
(そろそろ、限界かもしれないな)
もともと彼よりも体力の劣るティヴィアは、疲労が極限まで達しているようだ。だが、ジェフェライトの肩も限界に近づいている。
次で勝負は決まる、と彼は思った。
(右でくるか、左でくるか)
木剣の切っ先が、呼吸と共に上下に揺れる。
(もしも自分ならば……)
左の手元から左肩へ、突く。
……だが、左で来るか?
こちらが右肩を怪我しているのは知っている。勝負ともなれば、弱点を狙うのは当然のことだ。躊躇せずに右を狙ってくるかもしれない。
とはいえ、今までの攻撃で右肩を狙ってきたものはなかった。機会など何度でもあったというのに。
(どっちだ?)
2択なのに、相手の攻撃を絞り込めない。
こんなとき、この剣が真剣ならば――ジェフェライトは自分の剣技に自信を持っていたため、不安は倍増される。
剣技を使えないときの対処法など、ほとんど教わっていなかった……自分はやはりまだまだ鍛錬が不足していると感じながら、しかし、それでも勝たなければならない、と彼は己に言い聞かせる。
『剣技』の王子として、負けるわけにはいかないのだ。
たかだか、聖都軍の将軍の、その配下になど。
「ティヴィア様」
そのとき、名を呼ばれたのは確かにティヴィアだった。ジェフェライト自身ではない。
しかし、ジェフェライトの集中力は一気に途切れた。
背後に立った兵の気配に意識を奪われる。名を呼ばれたティヴィアも同様に、剣の構えを少し解いた。
「なんだ! 手合わせの最中に、不躾《ぶしつけ》だぞ!」
「――承知の上」
女性の声。
少し低めの、笑うような声。
異変を感じ取り、ジェフェライトは振り向こうとした。が、動作が止まった。
「お2人とも、手合わせをやめいただきたい」
いつの間にやらすぐ真後ろまで詰め寄っていた女性兵は、ジェフェライトの喉元に冷たい何かをあてがった。
何か。訊ねるまでもない。それくらい、場の雰囲気で察することができる。
短剣、だ。
ジェフェライトとティヴィアを沈黙のまま見守っていた兵士たちがざわめきだす。
その様子を横目で眺めながらジェフェライトは動揺していた。
自分が簡単に背後を取られたことに――突如、身の危険にさらされたことに。
「ティヴィア様、それから『剣技』の王子。木剣をお捨てください」
ゆっくりという女性の声には、なぜか、抵抗を微塵も許さぬ響きがある。
「お前、何をしているかわかっているのか?」
ティヴィアが怒りを押し殺した声で訊ねるが、答える女性は冷静だ。
「承知の上、と申し上げたはず」
ひたり、と短剣を押し付けられ、ジェフェライトは息を飲む。剣の尖端を感じ、恐怖が嫌でも増していく。彼は、何も言わずに木剣をその場に落とした。
「ティヴィア様、そこをお通しください。さもなければ『剣技』の王子を傷つけます。――人質に一大事あっては、ルキス殿もお嘆きになるでしょう」
「貴様……」
罵る言葉を吐き出しかけるほど、如実に怒りを表しながら、だが、ティヴィアは剣をその場においた。
女性兵はそのときになって、ジェフェライトの耳元でそっと囁いたのである。
「ジェフェライト様、お助け申し上げます」
――声には出せない驚きがジェフェライトの胸元から一気にかけあがる。
剣を当てている女性兵が、数刻前、自分を助けると言った者だと声からわかったのだ。
「何を……何をしようと言うのだ?」
小声で問うが、返事は返ってこない。
代わりとばかりに前へ進むことを促され、彼は歩き出した。
剣を首に当てられ、背後に多くの聖都兵の気配を感じながら、知らぬ通路を右へ左へと歩かされたジェフェライトは、やがてたどり着いた部屋に入り絶句した。
「どういうことだ!」
彼らの後を一定の間隔を保ちながらついてきたティヴィアが、叫ぶようにして誰とはなしに尋ねた。
「なぜ……なぜ、転移門《テレポートゲート》が発動準備にある!?」
連れてこられた部屋の中央に、9枚の石板がある。人が数人入れる空間を残し、三方を三重に囲むように立つ石板。
転移門だ。
『剣技』の宙城で彼が見たものよりも3枚多い――宙城で見る転移門は三方を二重に囲んでいる――それだけ規模も大きい、転移門。
人の背丈の倍はある石板はかすかに発光し、水晶の床を照らしている。いや、水晶の床もぼんやりと発光していた。転移門を囲むように流れる作られたせせらぎが下から光を当てられたように、天井に煌きの波紋を作り出していた。
剣の切っ先を逸らさずに、女性兵はジェフェライトを転移門へ後押ししていく。
近づいてくる石板を見つめながら、ジェフェライトの脳裏に、ふと蘇った言葉。
“フライには私の友人もおります。機会が来た暁には転移門を開くよう指示しておりますので……”
彼は「まさか」と口に出しそうになる。
まさか本当に、転移させようというのか?!
無理だ。
神殿都市フライの転移門は、数名しか入ることを許されていない。そして、発動に関しては必ず最高神官アーティクルの許可が必要となる。いつ転移するかわからないジェフェライトを、受け入れる体制で待っているわけがない。女性兵士が自分に転移を促したのはつい先刻の話、アーティクルに話が行っている可能性は極めて低い。
第一、自分は今、何も持っていない。“聖都”の転移門は、3族ならば、一族の証であり宙城を動かす鍵がなければ入門も出門もできないことになっているのだ。
『剣技』の剣がない今、転移はできない。
「……もしや……」
『剣技』の剣がない今、転移はできない――大都市への強制転移を除いて。
「だめだ……」
ジェフェライトは女性兵に呟いた。
「強制転移は、だめだ!」
転移門に大きな負荷を与えてしまう。
特に、転出する先の転移門への負荷は計り知れない。何か起こった際に、その都市だけが孤立してしまう危険性を与えてしまう、それに――それに、まだ。
まだ、『剣技』の剣を、自分は取り戻していない!
「だめだ、私は、まだここから出るわけにはいかない!」
「それでも、あなた様には出てもらわねばなりません」
石板の光に近づきながら、女性が耳元で囁く。気のせいか、その声は笑いを含んでいるようだった。
「ルキスの思い通りにはさせないために」
そして、彼女は次の刹那、ジェフェライトを突き飛ばした。
「シレフィアン様のために」
小川に浮かぶ敷石に躓《つまず》き、ジェフェライトは石板の中央に倒れ込んだ。
その足下から天へ向かって立ち上る膨大な光の渦が、彼を取り巻いた。
身体が四方から無尽蔵に引っ張られる感触。右肩に走る急激な痛み。
「このまま――」
間延びする叫び声。
「ここを――去るわけ――には――いか――ない――の――に――」
力を振り絞り、彼は振り向く。
走りよってくる兵士たちに向き直った女性兵の背中が見えたが、それはほんの少しのこと。
やがては光に埋没し、そうして、彼の身体はまばゆい中に落ちていった。
意識ごと、どこまでも、どこまでも。
Copyright(C) Akira Hotaka All rights reserved.