Deep Desire

【第3章】 迷走する『剣技』

<Vol.3 王女>

 アーティクル・レラは、帝国内で1番実名の知れた女性である。
 “聖女”は神の代理者であり時として神と同一視される。そのため、“聖女”は名を持たぬことになっていた。また、次期聖女である“御使い”は、まだ神ではないという意味から名を持つことを許されているが、帝国民にとっては聖女と同様、直に会うことが難しい人物である。名を知る者などそうそういない。
 その点から、ラリフ内でもっとも知名度のある者といえば、『賢者』滅亡の導き手となった美貌の将軍ルキス、神殿都市フライの都市長にして最高神官アーティクルの2人であった。
 この2人は、ラリフ帝国では常に対極に位置するものとして民に認識されていた。
 一方は今では軍事を牛耳る将軍であり、もう一方は政治と宗教の最高位である。それだけではない、ルキスの異名、金の将軍は彼の髪が金色であることからきているのだが、アーティクルは対を成すように見事な銀色の髪をしていた。そして、男と女、だ。これでは対比しろと言っているようなものであろう。
 時に彼らは、ラリフに伝わる帝国創出神話から、神の使いである双子の兄弟神になぞらえられる。“聖女”と共に“不和の者”を封印した、動を司る太陽の男神と、静を司る月の女神に。
 彼らは直接顔を合わせたことがなかったが、「昼と夜が交わらないことは当たり前」と、民は別に驚くことなどなかった。というよりは、そう言いながらも心の中で民は皆、安心しているといったところか。
 きれいな顔をして命令1つで『賢者』を葬った金の将軍が、アーティクルを殺さないなど誰も保証できないのである。
 それは民のみならず、アーティクルにもわかっていた。だから彼女は、『賢者』の事件以来、聖都へは足を踏み入れていなかった。幸い、最高神官と“御使い”のみが意思を交わすことのできる方法があるため、彼女は必要なことは全て神殿内から“御使い”に伝えることにしていた。聖都へ行かずとも事は済んでいるのである。
 そういった経緯から、彼女は神殿の最奥、限られた者しか入れない転移門《テレポートゲート》がある部屋に来るのは年に数回、数えられるくらいになっていた。かなりの広さがあるにもかかわらず実に手入れが行き届いているその部屋に足を運んだのは、熱い夏季以来である。
(すごい……)
 部屋に入り、テスィカは率直に、そんな感想を抱いた。
 外は雪が舞っているのに、部屋の中では木々が緑の葉をつけている。しかも、床は茶色の土。細い小川も流れており、これで鳥のさえずりでも聞こえようものなら、まるでフライではなく別の地を訪れたかのような錯覚さえ持ってしまうことだろう。
 部屋の中央には、テスィカの背丈の倍はある平べったい石板が6枚立っていた。人1人、中に立てるほどの空間を残すように3方を石板が囲んでおり、部屋の入り口に面している部分だけ、石板は置いてない。3方向に2枚ずつ立てられた石板は、内側より外側の方が若干大きめだ。『賢者』の宙城にあったものと同じ、それこそが転移門――“聖都”、大都市、宙城を結ぶ門である。
 一定以上の階級にある者しか利用できず、そのため、この転移門のある部屋は神殿の中でも最高神官であるアーティクルと準高《じゅんこう》神官である数名の者しか入室を許可されていなかった。今はアーティクルが人払いをしたため、彼女とテスィカしか部屋にはいない。
「そろそろ時間ですわね」
 アーティクルが石板を見つめながらテスィカに告げた。天井近くにある窓から、弱々しい日差しが石板を照らしていた。
 都市には必ずと言っていいほど、時を知らせる鐘があるのだが、神殿にはそれがない。代わりに、時を調べる手立てがあるとアーティクルは教えてくれたが、転移門がそのように利用されていることに気づいてテスィカは少しびっくりした。
「『剣技』の方々は時間にうるさいというか……少々せっかちでしてね。予定より早くいらっしゃるはずです」
「本当に、いらっしゃるでしょうか?」
 テスィカはアーティクルに尋ねた。不安を顔に出して。
 当初、アーティクルは『剣技』に「話したいことがある」と伝え、自ら宙城に赴く予定だった。だが、『剣技』からは「ご足労いただく必要はございません」という返答が返ってきたのである。
「我々がアーティクル殿の元へご挨拶に伺いましょう」と言うのだ。
 神殿都市フライは他の大都市と異なって、大切な都市と位置付けられている。そのため、3族のどの部族も、宙城で都市の上空を通過する際はフライへ立ち寄りアーティクルに挨拶することになっていた。『剣技』は、その挨拶を兼ねて話を聞きにくる、と言うのである。
 おかしなところはない。ないが――。
(避けられたのかもしれない)
 『賢者』の王女の存在に気づき、会うことを避けたのではないかとテスィカは勘繰ってしまう。
 自分が神殿にいることなど『剣技』が知る由もないが、それでも、テスィカは自分が避けられているのかもしれないという考えから離れることができない。
(私の周りにいる人は、皆逃げていく)
 現実などテスィカの目には過去を加工したものとして映る。
(皆、逃げていくのだ)
 心に負った傷は、今でも痛みを伴う記憶を何度でも再生してみせる。
 侮蔑の笑みを飾った者。憐れみの言葉を発した者。関わることで己までが幸福を逃がしてしまうとでも言うように、名ばかりの王女を避けていく者たちの姿は目を開けたままでも思い起こせた。
 そして、その記憶の中に、自分へ近寄ってくる者の姿はいなかった。
 ――誰1人として。
(誰も、私の元へ来ない……)
 誰も……ラグレクトを除いては。
(いや、違う。あれもまた、私から逃げた者だ)
 テスィカの心が言う。
 彼は自分を捨てた。自分を避けた。――と。
(あぁ、そうか……)
 愛していると言っていた。
 それはもしかしたら――彼が自分を哀れんでいるからなのかもしれない。
 自族を出ていたラグレクトは、一族を失った自分を哀れんでいたのかもしれない。だから、ラグレクトは、せめて自分だけは1人ぼっちの王女を受け入れてあげようと……そんな風に思っていたのかもしれない。
(そうでなければ、わからない)
 抱きしめられたときの、腕の強さが。
 あれほどまでに強く強く抱きしめられた理由が、憐れみ以外の何だと言うのだろう?
(同情されたのか……)
 なぜか、心の奥深くに痛みを感じて、テスィカは借りた純白の衣をきつく抱きしめた。ちょうどそのとき。
「ほら、いらっしゃいましたわ」
 アーティクルがテスィカの肩を叩いたので、テスィカはビクリと身体を揺らす。
 彼女が考え込んでいたことに気づかなかったアーティクルは、目を瞬かせてテスィカを見つめた。
「どうしました?」
「いえ、緊張していまして……」
 上手く取り繕えたようで、アーティクルは微笑んで大丈夫ですよ、とテスィカに伝える。
 そのときにはもう、アーティクルとテスィカの前で、石板のうち、外の3枚が鈍い光を発し始めていた。宙城からの転移を知らせる光である。
 石板に囲まれた空間に同じ金色の光が生まれ、それは上から徐々に人の形に変わっていく。
 テスィカは本当に緊張した。『剣技』の族長が現れるのだ。
 『剣技』の族長は、茶色い顎鬚を鎖骨まで伸ばしたがっちしりとした体格の男性だ、と彼女の母親は言っていた。その母が、『剣技』の族長のことを「大熊」と呼んでいた、と教えてくれたのはアーティクルである。
 大熊というのは、体格だけを表すものではあるまい。
 堂々とした、族長に相応しい態度も表すものなのだろう……自族の族長が母親なのに、その母親と会うときでさえ緊張していたテスィカである、『剣技』の族長がやってきたと感じると体が自然と萎縮した。
 しかし、テスィカの眼前で光が形作る人の姿は、どう考えても大きな体躯には見えない。
 彼女は緊張していたので、異変に気づかなかった。正確には、気づいていたのだが、頭できちんと理解していなかった。
 現れたのが『剣技』の族長とは違う者――女性だ、とわかったとき、その女性は既に口を開いていた。
「お久しゅうございます、アーティクル様」
 言いながら、彼女は左肩から胸の前に垂れた長衣を右手でばっさりと後方に払った。仕草は何とも男っぽい。
 一歩足を踏み出すと、足首に鈴でもつけているのか、繊細な音が部屋に響く。それは彼女の声と同じく、テスィカにとっては心地よい音だ。
 突如現れた彼女の顔が驚愕に支配されたのは、テスィカの方を向いた刹那のこと。
「黒髪に黒い瞳……! こちらの方は……」
 アーティクルは予期せぬ人が現れた動揺をほんの数秒で消し去って、先を制するように口を開く。
「エリス様、わざわざ宙城からのお越し、痛み入ります」
 それだけ言うと、長い衣の裾を引き上げて、隣の部屋へ続く扉をアーティクルは手のひらで指し示した。
「詳しいお話は、そちらでいたしましょう」
 有無を言わせぬ口調で言うと、アーティクルはテスィカの耳元で囁いた。
「テスィカさん、こちらの方はエリス様。現『剣技』の王女様でございます」
「『剣技』の王女?」
 思わず声に出し、彼女はエリスをまじまじと見つめる。背中できれいに切りそろえられた、真っ直ぐと伸びた髪は見事なまでに――茶色い。
 そんなはずはない、と即座に思った。
 なぜなら、『剣技』には王位継承者は1人しかいない。
 ジェフェライト・ジャスティ……彼だけが『剣技』の族長となれる権利、つまり『剣技』の王位継承権を持つ。第2王子は、テスィカが幼い頃、事故で亡くなった。ジェフェライトは『剣技』唯一の王位継承者であり、現在の『剣技』族長よりも稀少な存在と言われている。
 帝国内では誰でも、テスィカでさえも知っていることだ。
(どういうことだ?)
 眼前にいる女性は、間違うことなく『剣技』の民。
 アーティクルが言ったのだ。彼女のことを『剣技』の王女、と。
 3族の族長と同じ権威を持つ、最高神官であるアーティクルが言ったのだ。『剣技』の王女エリス、と。
(本物の王女だというのか?)
 ならばなぜ、王位継承権を持たない?
 テスィカは首を傾げるように王女エリスの後姿を見つめていた。
 そして気づいたのである。
 3族のうち、『賢者』以外の『剣技』『魔道』に属する女性に今日初めて出会ったことを。


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