Deep Desire

【第3章】 迷走する『剣技』

<Vol.1 知己>

 暖炉にくべられた木々が弾ける。
 はっとして、テスィカは身を起こした。
 知らない間に眠ってしまったことに気づき、慌てて彼女は寝所に横たわる青年を見つめる。しかし、慌てる必要などなかったようだ。
 ラグレクトは、未だ眠ったままだった。
(今日で1週間……)
 ラグレクトと共に『魔道』の宙城から転移して、もう1週間も経つ。それからずっと、ラグレクトは目を開けない。
 たった1度、自分に倒れこみながら聞き取れないほど小さな言葉を発した。それ以来、まるで人形のように動かなくなってしまった。
(力を使いすぎた、ということか……)
 ラグレクトの変化について、テスィカに思い当たることといったら、それしかない。
 ラグレクトは、“不和の者”との戦いから連続して魔道を使っていた。彼の能力がどの程度かは知らないが、自分の身に置き換えてみたら、とてもじゃないが持たないだろう――精神力が。よく宙城から移転するまで持ったものだ、と逆に感心してしまう。
(限界を超えることがわかっていても、あの場を離れたかったのか?)
 彼女は、静かに胸を上下させ、眠りに落ちたままの『魔道』の王子を凝視した。
 あの場から去ろうと言い出したのは自分だった。
 弟との会話を見ていて、あまりにもラグレクトが辛そうだったので、言ってしまった。後先考えず、何も分からない状態で、「行こう」と言ってしまった。
 だから、密かに、罪悪感がある。
 彼をこのような状態にしてしまったのは自分のせいだ、という罪悪感がある。
 しかし、これほどまでに体力を消耗させるのであれば、何もあのときすぐに転移する必要などなかったのだ。
 しばらく休んで、せめて、“不和の者”との戦いや『魔道』への転移に使った分の体力を回復させてから転移すればよかったのに――。
(『魔道』の第2王子が原因か?)
 自族をなくしたテスィカにとって、ラグレクトがあれほどまで強烈に一族から離れたがっているのか、それがまるでわからない。過去に何かしら原因があるということ……彼と、彼の弟との会話から、その程度しか推測できない。
“愛していたさ! 愛していたから俺は抱いたんだ!”
 突如、ラグレクトが弟のオルドレットに言った言葉がテスィカの脳裏によみがえった。
 搾り出すように言った言葉が。
「抱いた……」
 テスィカは、ラグレクトを見下ろしたまま呟く。
 抱く――意味がわからないわけではない。自分はそれほど子供ではない。
 意味はわかる……けれども、それがどういうことなのか、経験のないテスィカには実感など当然わかなかった。
 けれども、目の前にいるこの青年は違う。
 テスィカはラグレクトの顔を、形のよい眉、長い睫《まつげ》、まっすぐ通った鼻梁《びりょう》、薄く赤い唇、それらを順々に見つめていった。
 何の変化もない。ついさっきまでと同じ状態。
 なのに、なぜか、ラグレクトが違う人に見えた。
 大人の男性に見える――。
“俺は、君が好きなんだ”
 見下ろす唇が紡いだ言葉。甘い声で囁いた言葉。
“好きなんだ”
 目の前の、この男が――愛しているから抱いたと言っていたこの男が、自分に囁いた言葉。
“好きなんだ”
 不意に全身を駆け巡る熱。
 心臓の高鳴り。
 思い起こす、眼差しと、声音と、ぬくもり。
 澄んだ瞳。
(なに、これ……)
 ラグレクトの笑顔が、焼きついて離れない。
 身体中を支配する熱と共に、離れない。
(なんか、変……)
 顔が熱い。
 両手で頬に触れる。……熱い。
 経験したことのない変化が自分に訪れていることをテスィカは悟った。
(――魔道をかけたのか、ラグレクト)
 いつ、かけた?
 考えられるのは、ルキスの部屋で出会ったとき。
 そういえば、あのとき、ラグレクトの目を見て、何てキレイな色なんだろうと自分は思った。
 もしかしたら、あの瞬間、術を施されたのかもしれない。
(きっとそう……目を合わせるたびに、おかしくなるから……)
 胸の奥底が騒ぎ立てる。目を合わせる、それだけで。
 彼女は両手を自分自身の肩へ回し、そして思い切り抱きしめた。
 身体が熱い。そして、怖い。
 一体、一体これは何なのだろう。
 得体の知れないものが自分にかけられていることへの恐怖にどうしていいかわからなくなる。
 怖い。
「起きろ、ラグレクト」
 彼女はうずくまるように強く自分を抱きしめて、こもる声で眠る王子に命令した。
「早く起きろ、ラグレクト。これを早く、解いてくれ」
 そうしないと、私はお前の目を見れない……。
「ラグレクト……」
 早く、早く。
 彼女は心の底から願った。
「あら、やっと目を覚めましたか」
 祈りは優しい声で絶たれる。
 弾かれるように振り向いて、テスィカは腰を浮かせた。
 部屋の中に1人の女性が入ってきた。純白の衣に身を包み、その長い裾を両手で抱えるようにして歩いてくる。銀髪を緩く編んでいるが、その編んだ髪は右の耳元から彼女の胸元へ流れており、遠目で見ると、彼女が抱えているのは衣なのか髪なのかわからなくなる――それほど、長い髪をしていた。
 衣を多少擦るようにして歩きながら、彼女はテスィカに近づいてきた。
「それで、あなたはいいとして……こちらは、どうです?」
 言ってから、女性はテスィカの傍らよりラグレクトを覗き込む。
 髪からほのかな香りが漂う。表現しがたい、けれども、言葉にあえてするとしたら――懐かしい、香り。
 目を細めて女性を見つめると、彼女は困ったように大きく息を吐き出した。
「今日で1週間……さすがにこうも長いと心配ですわね」
「あの、アーティクル様」
 銀髪の女性、アーティクルは身体を起こしてテスィカに顔を向ける。優しく微笑んでいるが、瞳は真剣そのものだ。
「何度目かしら? 私のことはアーティーと呼んでちょうだい」
 口調も、強い。
「そんな、できません」
 首を横に振り、テスィカは頭を垂れる。
 アーティクルは苦笑して、テスィカの髪を撫でながら言う。
「いいえ、あなたは私をアーティーと呼ばなければなりません。さもなければ、私もあなたをテスィリス様、とお呼びしなければならないのですから」
 テスィカは押し黙った。ものすごい脅しだと思いつつ。
 その様子を見ていたアーティクルは、口元に手をかざして品の良い笑い声を立てる。緩く1つに編んだ銀髪が、解《ほど》けそうなくらい揺れている。
「決まりましたね。……テスィカさん、お食事の準備ができました。いらっしゃい。今日は私もご一緒いたしますわ」
 純白の衣を翻《ひるがえ》し、アーティクルは先に扉へ赴く。
 後姿を見つめながらテスィカはゆっくりと立ち上がった。
 ラグレクトの傍を離れたくはないが、彼女に逆らうことなどできないことをテスィカは十二分にわかっていたのだ。
 アーティクル・レラ――彼女はこの神殿の主であり、同時に自分の母の旧友なのだから。



 行き交う女性はアーティクルとテスィカの姿を見ると、ゆるやかに頭を下げる。
「ほら、テスィカさん。畏《かしこ》まらないでください。あなたは私の客人なのですよ」
 言われてテスィカは、斜め前を歩くアーティクルを見つめるように顔を上げた。
 テスィカは『賢者』の王女である。頭を下げられることには慣れているが、なぜかここでは居心地が悪かった。
 神殿、だからかもしれない。
 もともとラリフ帝国は唯一神教の国家であった。
 国民が“聖女”を敬うのは、世界の統治者たる神の代理人としてこの地を治めていたからだった。
 それがいつからか、民は“聖女”を神格視するようになった。そればかりか、神そのものよりも“聖女”に、より強い信仰心を持つようになったのである。不可視の神よりも、実際に見ることと触れることのできる生身の人間の方が崇め奉る対象としては容易だったというところか。
 ゆえに、もうかなり昔から、帝国内で神とはすなわち“聖女”の意であり、神殿は神に仕えるもの、つまり“聖女”を補佐する者たちの場とされている。3族が軍事の最高峰ならば、神殿は政治と宗教の最高峰に位置しているのだ、一般の者はそう簡単に立ち入ることができないし、“聖都”の兵でもそれは例外ではなかった。
 アーティクルは、この神殿の最高神官であり、神殿都市フライの都市長も兼ねている。“聖都”への入城のみならず、“聖女”の部屋へ入ることもできる地位にいる数少ない人物だ。
 彼女の客人となる人は、間違いなく帝国の中枢に身を置く人間ばかりだろう。
「アーティクル様のお客様を名乗るなんて、なんか、おこがましいと思います」
 正直に言うと、アーティクルは最高神官らしい慈悲深い笑みを浮かべたまま、彼女に言い返す。
「1週間も経つのに、何を言うのかしら、この子は。それに、テスィカ。――アーティーです」
 強い語調。
「アーティーですよ」
 念を押される。
 気迫に負けて、テスィカは小さく呟いた。
「アーティー……」
「そう、それでいいの」
 嬉しそうにしているアーティクルを見上げていたら、テスィカの目にアーティクルの目尻の皺が飛び込んできた。
 テスィカは、ふと、思う。
(母上も、こんなに皺があったのか……)
 思えば、肩を並べて母と歩いた記憶など彼女にはなかった。
 いつも一歩後ろに控え、見つめるのは母の背中だけだった。
 だから、知らない。
(皺などあったのだろうか?)
 美しい母。
 脳裏に刻まれたその母の顔は、段々とぼやけていく気がした。
 けれども、母と傍らの最高神官はそれほど年は変わらないはずだ。
(母上のご友人)
 一体母はこの人とどんな話をしたのだろうか?
 わからないが、アーティクルが宙城から帰るとき、見送る母の顔がいつも晴れやかだったことを思い出す。
 母は、アーティクルを信用していた。アーティクルにだったら何でも話をしていた。
 だから、自分もアーティクルを信用していい――テスィカはそう思っていた。そう信じるしかなかった。
「テスィカさん、『魔道』の王子殿は、あれからちっとも変わってないのでしょう?」
 言われてテスィカは大きく頷く。
 神殿の裏の林でテスィカとラグレクトはアーティクルに見つけられた。
 運が良かったとテスィカは思った。
 アーティクルに見つかったとき、テスィカもラグレクトも外見は3族の容姿そのままだったのだ。たまたま気分転換に外に出ていたアーティクルは、護衛も傍仕えも引き連れていなかったのが良かった。枯れ木拾いの神官たちに見つかっていたらとんでもない大騒ぎになっていただろう。
 そればかりではない。彼らは気を失ってから数時間、ずっと林の中にいた。神殿都市フライは雪季を迎えようとしているのだ、外に数時間もいれば凍傷を起こしてしまうに違いない。あの日はたまたま、珍しく気温が上がった日だったため、彼らは外で過ごしても凍傷に至らずにすんだのである。
 何よりも……テスィカのことを知っていて匿ってくれる人に出会えた、これが1番の幸いだった。
 ただ、それは言い換えるなら「不幸中の幸いだった」という意味の幸い、だ。
 抵抗力のない状況で薄ら寒い屋外にいたためか、ラグレクトは発熱していた。
 アーティクルは神殿の奥深いところの1室をテスィカとラグレクトに与えてくれた。最高神官の入室許可が必要な客人、という触れ込みで。本当は、テスィカのことを考えるならば、誰にも知らせずに匿いたかったのだろうが、病人が出たとあっては話が変わる。
 彼女はテスィカに、容姿変貌の魔道をテスィカ自身と寝ているラグレクトにかけるように言ってから、神殿医師にラグレクトの様子を看させた。
 その甲斐あって、ラグレクトは3日ほどで熱を下げたのだが、それでも目を開けなかった。
 医師たちも首を傾げている。
「力の使いすぎ、とかおっしゃってましたよね?」
 黙ってしまったテスィカにアーティクルが尋ねる。
 女性にしては心持ち低い声だと思いながら、テスィカは首を縦に1つ振った。
「たぶん、そうだと思います」
「そう……じゃあ、この神殿の医者では限界でしょうね」
 そうかもしれないな、とテスィカも思った。
「もっと、3族の能力について知識のある人たちに診せるべき時期に来てる、そういうことですよね?」
「そうですが……知識のある人たち、というのは」
 引っかかったので、テスィカは問い返す。
 そこで、アーティクルが立ち止まった。
 何事かと思い、テスィカは彼女の目線を追う。
 傍らの窓に目が行き、外の風景――舞う粉雪が視界に飛び込んできた。
「今年は雪季《せっき》が先なのね」
 アーティクルが長い純白の衣を抱えるように腕を組み、テスィカの真横に立つ。
「もうすぐ、雪の季節です。それはね、テスィカさん。同時に『剣技』の宙城がこの都市を通過する時期でもあるのですよ」
「『剣技』……」
 すぐに『剣技』の王子、ジェフェライトを彼女は思い起こす。
 ――今まで忘れていたことが不思議なくらい、急に思い出す。
(そうだった……)
 港湾都市レーレで出会ったときは、ひどい傷を負っていた。彼と“御使い”ファラリスは、飛船で“聖都”に運ばれた。
 覚えていたはずなのに……ラグレクトのことで、いつの間にか頭の中がいっぱいになっていたことに、気づく。
(あれからどうしただろうか)
 忘れていた彼らの安否を、初めてテスィカは気遣った……。


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