Deep Desire

【第2章】 行く末を握る者たち

<Vol.6 慕情>

 帯刀した剣を騒がしげに響かせながら歩いていたガルト・ジャベルレンは、玉座の手前で計ったように立ち止まった。
 一拍の間の後、その場に片膝をつく。彼は立てた方の膝、すなわち左膝の上に肘を乗せ、軽く作った左拳に額を当てた。型どおりの略礼――非のうちどころがないほど、完璧な略礼。
 夜半も近い頃だというのに、謁見の間にはまだかなりの武官・文官がいた。顔ぶれを見ると、どうやら定例の会議が思いのほか長引いていたらしい。彼らの顔が翳《かげ》って見えるのは、中空の月のほとんどが雲に覆われているせいだけではないだろう。
 彼らは疲労の色濃い顔つきで、ガルトの略礼を見ながら「さすがはジャベルレン将軍」と耳打ちしあっていた。外見はどう見ても無骨な武人のガルトは、しかし、王宮での所作は文官とさして変わらぬほどに洗練されていた。
 彼の家柄は代々、イスエラ王国の重鎮を担ってきた。次期当主となるガルトにとって、王宮作法は幼い頃より叩き込まれてきたものの1つであり、略礼を型どおりやってみせることなど造作もないことなのである。
「よく戻った、ガルト。顔を上げよ」
 頭上から放たれた王命に、彼は顔を上げる。
 声に違わぬ若々しい青年が彼の眼前、玉座にいる。
 褐色の肌、金色の髪、赤茶の瞳の青年は、名をラクティ・シャ・ザ・マハテイール・イスエラという。現イスエラ王国の統治者だ。一昨年、父である前イスエラ王の死去に伴い即位した、若干20の王である。彼は国民、ことに変革を望みがちな若い世代に絶大な人気を誇っていた。また、黒髪の民が圧倒的なイスエラにおいてはこの上もなく珍しい金の髪を有していることから、神格化する者も神殿にはいるようだった。
 ラクティは、今やイスエラ王国にとっての明けの明星。
 それでも、ガルトにとっては、できの悪い剣の教え子に他ならない。
 元々はガルトの父が王子であったラクティの指南役であった。が、ガルトの父は戦に出た際に大怪我をし、それを期にガルトに己の任を譲った。
 ガルトは当時から、将軍たちに一目置かれるほどの剣術者だった。ラクティもその噂は聞いており、また、2人の年が10も離れていないせいもあるだろう、ラクティはガルトに興味を持っていた。あっさりと指南役交代を許可し、彼は王宮に迎え入れられたのである。
 そうして、ラクティが彼を兄のように慕い、度々相談を持ちかけるようになるまで時間はかからなかった。
 ラクティが王になってからは互いに時間を取ることもままならず、言葉を交わす時間は急激に減った。もちろん、ラクティが即位したことだけが、二人の語らいの時間を減らした唯一の原因というわけではない。ある時期からガルトがラクティに距離を置くようになったことも原因ではあるのだが、元は主人と臣下という間柄を半ば越えるほどの仲、やはり現状は彼に寂しさを感じさせていたらしい。
 数ヶ月ぶりにあう主君の笑顔に、ガルトはホッと息をついた。
「随分と帰還が遅れたな、ガルト。そなたの元気な顔がやっと見れて、私は嬉しい」
 目が、笑う。
 ガルトは口の端に力を入れた。自分もつられて微笑んでしまいそうだったので。
「もったいないお言葉でございます」
「ここ1週間ばかり、王都の周辺は熱射に倒れた者が多くて、な。お前はそんなことで倒れないとは思っていたが……顔を見れて、安堵した」
 恐らくは本音であろうと思われる言葉がラクティの口から飛び出す。
 ガルトは顔をしかめたが、だめだった。顔は自然と緩んでしまった。
(陛下……)
 自分とて、同じだ。
 王都で熱射病にかかる者が多いと耳にし、まさかとは思いながらも彼はラクティの身を案じた。
 ラクティは、とかく無茶なことをしたがる。前例がないものは自分が前例となればいいと言い、何でも試してみようとする。普通ならば王は王宮に篭もっているものなのだが、ラクティは国民の声に触れたいと願い、1日の半分以上を謁見の時間に当てることさえあるのだ。周りに誰が控えてようが、倒れないという保証はない。
 そう思っていたので、正直な話、ラクティの元気そうな顔を見てガルトは本当に嬉しかった。
(すべては考えすぎだったのだ……)
 ガルトは、自分が物事を慎重に、深く考えすぎることを知っていた。
 もっとも、彼は自分よりもさらに慎重な人間がいることも知っており、それに比べればまだ軽度だと思ってはいるのだが。
「ガルト、報告を聞いてないが?」
 男のものとは思えない澄んだ声が冷ややかに部屋に響く。
 その声の主こそ、ガルトよりも慎重に意見を述べる、それでいてときに大胆な発言をする者の声だった。
 ガルトは彼に見上げる。長い髪を結い上げ、その結び目を見えないように帽子で隠した神官が無表情にガルトを見ていた。ラクティの傍らで、細く長い杖を手に持って。
 目が合ったところで、ガルトは軽く目礼する。男の名は、シレフェイアン。最高神官だ。
 彼の帽子の中央と服の胸元には槍と剣が交わった紋章――イスエラ王国の紋章であり、これはイスエラ王国の国神イスエディアラーナを表す紋でもある――が描かれており、それを服や帽子に記すのは、ある一定以上の神官しか身につけることを許されていない。
 そして、彼の持つ杖は、国の文官でもトップクラスであることを示している。
 最高神官であり宰相であるシレフィアン。
 そして同時に、ガルトにとって彼は実の兄でもあった。
「失礼致しました」
 ガルトは頭を下げる。実をいうと、彼はこの実兄がいささか苦手だ。腹違いのシレフィアンは王立院を主席で卒業した秀才で、武道一筋だったガルトは自分とは明らかに違う人種だと認識している。
 実際、シレフィアンとガルトは、驚くほどに似ていなかった。母親似のシレフィアンは詩人のように繊細そうな外見であり、隻眼《せきがん》の鬼将軍と恐れられた父親の血は一滴も垣間見れない。対して、ガルトは父親の血を色濃く継いでいた。誰もが彼を一見して「ジャベルレン家の子息」と判別できるほどに。
 また、ガルトの妹、ティヴィアは、血のつながりからいえばガルトと母親を同じくしていた。しかし、母親に似たティヴィアは父親似のガルトとは似ておらず、当然、母親の違うシレフィアンとも似ていない。
 ジャベルレン家の3人は、一堂に会していても「同じ血筋とは思えない」と言われることが多かった。
「ガルト・ティベルレン、ラリフに潜伏中の実妹ティヴィアに接触いたしました」
 沈着冷静なシレフィアンは、ティヴィアの名を聞いても何一つ反応を示さず、無表情でガルトに訊ねた。
「ラリフの軍はどの程度掌握している?」
「4割強との答えでございました」
「半数以下か」
 シレフィアンの傍らでラクティが呟く。
 ガルトにとっても期待以下の数字ではあるが、ラクティは特に何も言わずにガルトを見てひとつ頷く。深い意味はないぞ、という動作だ。
「帝国内部の状況はどうなっている?」
 質問はいつもシレフィアンから。
 ガルトはラクティから、再び視線を実兄へと移す。
「聖都軍の将軍、ルキスが全てを掌握しているものと思われます。ルキスは相当な統率力の持ち主のようで、我が妹が軍を掌握できていないのは、ルキスの統制力が原因と思われます」
「ルキス、か……」
 シレフィアンが名を繰り返す。細い指先を唇に当てて。
 目を細め、唇に薄っすらと笑みを浮かべたシレフィアンはガルトの目から見ても絵画のように美しかった。
 そうしていると、男色家たちが先を競って手に入れようとするのがわかるくらい、彼は妖しい雰囲気を醸し出す。しかし、ガルトは知っていた。
 兄はそういう表情のときに恐ろしいことを考えているのだ、と。
「シレフィアン?」
 玉座のラクティも気づき、シレフィアンに声をかける。
 何を考えている――そんな響きを孕ませながら。
 シレフィアンは、見る者を強く惹きつける、同時にひどく恐れさせる、艶然とした笑みを浮かべたままでガルトへ向き直った。
「将軍、出兵はこの冬を予定していたかな?」
 急な話の展開に戸惑いながらガルトは肯定の言葉を述べる。
 シレフィアンは、宝玉を溶かしたように美しい赤い目を細め、ラクティに言った。
「陛下、私めに策がございます。冬の出陣までにはラリフ軍のルキスを突き崩してみせましょう」
「まことか?」
「このシレフィアン、嘘は申しません」
 笑んだまま、けれども、怖いくらいに真剣な眼差しでシレフィアンは言う。
 そんな顔をした実兄をガルトは数えるほどしか見たことがない。
 シレフィアンの母親の葬儀のとき、シレフィアン自身が最高神官の洗礼を受けたとき、そして、ラクティが即位したとき……そのくらいしか見ていない。
(本気、か)
 何をどうやって、ルキスを追い詰めるのかはわからない。
 それでも、シレフィアン・ジャベルレンは、やると言ったらやるのだ。
 彼自身の誇りにかけて――。
 ガルトは、シレフィアンの有言実行なところは尊敬していた。
 しかし……。
「では、期待しているぞ、シレフィアン」
 ラクティの演技ではない本物の笑顔に、ガルトは苦渋の色を我知らず濃くしたる。
 自分が職務につき、段々と遠くなっていくラクティは、日に日にシレフィアンに信頼を寄せるようになっている。今までは、自分にしか見せなかったものをシレフィアンに見せるようになっている。
 それが何となく悔しくて、彼は実兄を素直に認めることはできないのであった。



 身体を包む異質なもの――光。
 微かに耳に届く歪んだ気配――音。
 『魔道』の発現に、意識が飛びかける。
(限界、かな……)
 少女を抱きしめながら、ラグレクトは目を閉じた。
 痛み……身体のあちこちから発せられる悲鳴。
 思い出す。
 “不和の者”と戦ったこと。『魔道』の宙城《ちゅうじょう》へ転移したこと。『魔道』の宙城から防御壁《ホールド》を破って転移してきたこと。
(オルドの奴……強くなったんだ……)
 転出を阻《はば》む弟の魔道に対抗しながら、自分だけでなく彼女も宙城から抜け出すのは、さすがに無茶だったようだ。
(できれば、聖都の方に行きたかったんだけどな)
 ルキスと決着をつけるため。
 彼女が。
 そして、自分が。
 でも、無理なようだった。
 ラグレクトは自分の限界を察知していた。今は、別空間に放り出されないよう、ラリフ帝国内に転移できるようにするだけで精一杯だ。それくらいしか、もう、力は残されていない。
(偉そうなことを言って、いつもこれだ……俺は、いつも、中途半端だ)
 そんな風に思ったのが最後だった。
 彼は、テスィカを抱きしめる手に力を込めようとしたが、それとは逆に、全身の力を抜くように意識を手放した。



 どれほどの時間が経ったのか。
 我に返ったのは、彼女が名を呼んだから。
「ラグレクト」
 いつからここにいたのだろう。重い瞼を開き辺りをゆっくりと見回す。
 木々に囲まれていた。月光さえも遮るように高く高く並び立つ木々に。
 どこからともなく鼻孔《びこう》に届く潮風。
 静かな世界。
 波音と、葉のこすれあう音と、彼女の声だけ。
「ラグレクト」
 大木に寄りかかって座っていることに気づいた。
 打ち捨てられた人形のように、手足を投げ出して、座っている。座っているというよりは、むしろ、倒れかかった?
 何をしていた? ……曖昧な記憶。
 少女が真っ黒の瞳に不安げな色を宿して自分を見ている。
 名を呼んで。
 不意に、瞬きをした。
「私がわかるか、ラグレクト?」
 反応を喜ぶように、彼女はまた、名前を呼ぶ。
 そして、この、いやらしいくらい長い自分の前髪をそっと退けて、目を覗き込んでくる。
「良かった……お前、『魔道』で戻ってきてから、ずっとこのままだったから……」
 唐突に、微笑みたくなった。
 少女が誰だか思い出した。黒髪、黒目――『賢者』の王女、テスィリス。いや、今は……テスィカ。
(心配してくれてるんだ)
 嬉しくなる。泣きたいほど。
 無性に、言葉で言い表せないくらい、嬉しくなる。
(君は、優しいね)
 だって、婚約を解消して、君を捨てて、傷つけた。そんな俺なのに、君は心配してくれる。
 俺だったら、そんな相手を心配しない、きっと。
(優しいんだね、テスィカ)
 それにほら、君はさっき、俺やオルドレットに何も聞かなかった。
 なのに、行こう、と言ってくれた。
 『魔道』から俺を連れ出してくれた。
 君は知らない。俺を捕らえる、あの一族の呪縛の強さを。血という枷《かせ》を。
 もし、俺一人、あの城に戻っていたら、朽ちていたかもしれなかった。
 生きたまま、心が朽ちていたかもしれなかったんだ。
 君は俺を連れ出してくれた――助けてくれた。
 あの瞬間、俺は、君に感謝した。そして、『魔道』を使うときに君を抱きしめて、本気で「離したくない」と思った。
「聞いてるか、ラグレクト!」
 頬を軽く叩かれる。痛いなぁ、聞いてるよ、そんなことしなくても。
 俺はね、惚れた女の声は、たった一言だって聞き漏らさないんだから。
 ――そうなんだ、俺、君に惚れてるんだよ。知ってた?
 最初は一目惚れだった。君がルキスに威勢良く突っかかっている姿を見たときに、好みだなぁなんて思った。
 あのとき俺はまだ、苦しくなかったんだ。こんなに苦しくなかったんだ。
 でも、今は違う。ちょっと苦しくなってきた。
 君を捨てた……過去に俺が君との婚約を解消したのを、猛烈に後悔しはじめたよ。
(ねぇ、テスィカ……)
 俺はね、「君」を捨てたんじゃない。
 俺が捨てたのは『賢者』の王女で、君じゃない。これは、やっぱり言い訳にしか聞こえないかい?
 ねぇ、テスィカ。
 今からじゃ、もう遅い?
 俺が、好きって言っても、君のことを好きって言っても、遅い?
「しっかりしろ、ラグレクト」
「テスィカ……」
 自分とは思えないくらい、掠れて弱々しい声。情けなくなって目を閉じる。
 目元が熱い。
 泣いているのかと思った。違う、力の使いすぎだ。なんだか体中が熱っぽい気がする。
(力の使いすぎなんて、馬鹿だ、俺)
 わかってる。そんなことは、わかっている。
 それでも、良かった。良かったんだ。
 だって、彼女がこんなにも自分のことを気にかけてくれているから。
 君のことをこんなに好きになり始めている自分を認められたんだから。
「テスィカ……お願い」
 もっと名を呼んで。
 もっともっと、もっともっともっともっと、俺の名を呼んで。
 俺を許すように――君の前にいることを、この身体に流れる血と、この血が引き起こした過去の過ちなど関係なしに、君の目の前にいるこの俺を、純粋に1人の人間としてのこの俺を許すように……俺の名を、呼んで。
 強く。
 何度でも。その声で、名を、呼んで。
「なんだ、どうした、ラグレクト?」
「……やばいよ……」
「ラグレクト? おい、ラグレクト!」
 彼は、目を閉じたまま、横に倒れていく。
(やばいよ、テスィカ)
 抱き止める腕の温もりなど感じることができないまま、意識が闇に埋没していく。
(まだ、出会ってほんのちょっとなのに……)
 ラグレクトは支えてくるテスィカの肩に顔をうずめた。
(俺、こんなにも本気だよ……)
 自分がどこにいるのか、これからどうなるのか、そんなことなどまるで考えはしなかった。
 まるで永遠の眠りにつくかのように、彼はテスィカに寄りかかって意識を手放す。
 最後の瞬間まで微笑みながら。


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