Deep Desire

【第2章】 行く末を握る者たち

<Vol.5 兄弟>

 テスィカはラグレクトを、次いでオルドレットを見つめる。
(よく似てるな……)
 当たり前だ。2人は兄弟なのだから。
 ラグレクトを5つか6つほど幼くしたのがオルドレットという感じである。
 2人は目元、鼻筋、唇の形――顔の造形が類似している。同じ親から生まれてきたというのが顕著なくらいに。
 だが、決定的に違うものがあった。
 それは、まとっている空気、だ。
 ラグレクトは、鋭角的な気配をまとっていた。鋭く激しく野性的なものを。
 比べてオルドレットの気配は、柔らかい。抱擁するような、ふんわりとした空気を彼はまとっている。ひどく穏やかな気配……。
 今、ラグレクトは盗賊のような服装をしていた。何の飾り気もない、黒一色の格好。対してオルドレットは、黒を基調とした、しかし明らかにラグレクトのそれとは材質が違う服を着ている。金や銀の刺繍が施《ほどこ》され、肩から長い布を羽織った姿は、地上に住まう者から見れば吟遊詩人が詠《うた》う英雄だ。王子と呼ぶに相応《ふさわ》しい。
 2人の外見は天と地の差があると言ってもいい。しかし、そんな服装など無意味だと思うほど、彼らは“同じ”であった。
 それを証明するように、オルドレットはラグレクトのような攻撃的な気配を発する。テスィカが誰かを認識して。
「諸事情ゆえ、だ。別に、帰ってきたわけじゃない……安心しろ、すぐに出てく」
「すぐに出て行く? ――兄上、そういう問題ではありません!」
「宙城《ちゅうじょう》に同族以外入れぬ……それを破ったこと自体を気に留めよ、と?」
「他族、よりにもよって『賢者』の民を導くなんて……そうじゃなくても兄上の立場は微妙であらせられるのに!」
 オルドレットの言葉に、ラグレクトはちらりとテスィカを見つめた。
 ほんの一瞬だけ、ラグレクトと目を合わせた。
(……何?)
 テスィカは眉間に皺を寄せた。
 たった、一瞬だった。瞬きをするくらいの時間だった――目を合わせたのは。
 けれども、感じ取ってしまったのだ。
 彼が怒っていることを。
(何? 何で怒っている?)
 テスィカはラグレクトの横顔を凝視する。彼が怒っているのはわかった……だが、原因がわからない。
 オルドレットはおかしなことなど言っていなかった。
 宙城に同族以外を入れるのはなるべくなら避けた方がいいことはテスィカも理解している。聖都への転移門《テレポートゲート》があるのだ、誰でも侵入を許すわけにはいかない。『賢者』の宙城でも、入城には大都市の都市長の署名および都市紋が記された許可証を携帯せねば適わない掟があった。
 そして……そう、自分は『賢者』の民、だ。今は聖都兵から追われている『賢者』の民だ。匿《かくま》っていることが明るみに出れば、それを口実に『魔道』も侵略を受けかねない。
 だから、オルドレットは、テスィカを連れてきたラグレクトを怒っている。
 それはわかる。わかるのに……どうしてラグレクトが怒っているのかが、わからない。
 テスィカは口を閉ざしたままラグレクトの言葉を待った。
 だがしかし、その答えを得ることはできなかった。ラグレクトは、
「俺は、自分の立場などどうでもいい。――早々に立ち去ろう」
と言うと、テスィカの手を取り、扉へと歩いていったのである。
「ラグレクト!」
「兄上!」
 彼の突然の行動を理解できないテスィカが叫ぶと、オルドレットも同時に叫んでいた。
「お待ちください、兄上!」
 オルドレットは引きとめようと、ラグレクトを呼ぶ。
 それはそれは、耳を傾けずにはおれない悲痛な叫びで。
「もう、どこにも行かないでください、兄上!」
 オルドレットは彼を止めようとする。
 しかし、ラグレクトは何も言わずにテスィカを引っ張ったまま扉まで歩いていく。まるでオルドレットの声など聞こえていないかのように。
「ラグレクト!」
 ラグレクトのあまりの態度に、テスィカも気の毒な気持ちになった。
 力いっぱい引っ張られるのに抵抗して、ラグレクトを振り向かせる。
「ラグレクト!」
 部屋中に響く声で名を呼んで、全身の力を総動員させて駄々をこねる子供のようにその場に佇む。
 扉の取っ手に手をかけた段階で、やっとラグレクトはテスィカの方を向いた。
「ラ……」
 名前を呼ぼうとしたのに、声が掠《かす》れる。
 呼び止めることができたというほんの小さな喜びがテスィカの胸の中で急速に萎《しぼ》んだ。
 ラグレクトの茶色い瞳には、いつもの陽気な、優しい、見惚れる雰囲気は少しもなかった。あるのは、底冷えするような冷たい色だけ。
 震えるほどに凍てついた眼差し。
 それはまるで、“不和の者”に相対していたときのような……。
「ここは、何も変わってない……」
 ラグレクトは吐き捨てるように言った。
 それが合図だったのか。彼は沈黙をやめた。
「あの頃と同じだ。自分たちしか見ていない、あの頃と何も変わっちゃいない……!」
 それまできつく握っていたテスィカの手を解き、ラグレクトは取っ手からも手を離した。
 そして、芝居じみた動きで振り返り、両手を広げて高らかに笑う。
「馬鹿馬鹿しい。自分たちは1番だ、自分たちこそ優秀な部族だ――そう思っているのなら、なぜ『空間閉鎖』などする? なぜ、他族を拒む?」
 笑いを収め、ラグレクトは、つかつかとオルドレットに歩み寄っていった。
 不穏な気配を察して、オルドレットが身を引いたが、彼は自分の机にぶつかり、ほんの数歩しか下がれなかった。
 手を伸ばせば触れる距離まで近づいてラグレクトは、自分よりも背の低い弟を見下ろして、言う。
「……馬鹿馬鹿しいよ、オルド」
 『魔道』の証である黒い前髪を引っ張って、それを見つめながら嘲笑する。
「この色が優良種の証だって?」
 髪のうち1本を抜き、ラグレクトはそれを、ふっ、と吹き流した。
 黒髪は兄弟の間を踊るように舞い、オルドレットの目の高さで止まった。
 まるで、時間が止まってしまったかのように、宙でピタリと止まっていた。
「この力が優良種の証だって?」
 再度の嘲笑。
 ラグレクトが笑いを収めると、髪の毛は、溶けるように消えていく。
「兄上……」
 オルドレットも察した。気配で察した。
 兄が激しい怒りにかられていることを。
 彼は全身が震え始めていることに気づく。
 自分の敬愛してやまない兄の顔さえ見ることができないほど、体が恐怖に打ち震えていることに。
 その様子を眺めながら、ラグレクトは静かに話し出す。
「馬鹿馬鹿しい……。優良種ならば、なぜ、その力を何かの役に立てようと思わない? なぜ、力なき者を守ろうとしない?」
 言葉をなくし、青ざめているオルドレットにラグレクトは笑いかけた。
 艶やかに、そして――蔑むように。
「俺は、自分の立場などどうだっていいんだよ。なぜなら、俺は一族を出た。こんな一族に嫌気が差したから。――捨ててやったのさ」
「兄上……」
 オルドレットが泣きそうな顔で、今にも泣き出しそうな顔になる。そして、勇気を振り絞るようにして、ラグレクトを見上げた。
 一部始終を見ていたテスィカは、背中しか見えないラグレクトに声をかける。
「……ラグレクト、駄目だ……」
 彼女は、そう声をかけてラグレクトを止める。なぜだかわからないが、彼が言おうとしていることがわかってしまったので。
「それ以上は駄目だ、ラグレクト」
 言ってはいけない。
 お前の弟は傷ついている。
 無言で佇む黒髪の王子を背後から見つめ、彼女は繰り返した。
 駄目だ、と。
 それ以上言ってしまってはいけない、と!
 けれど、ラグレクトは、言葉を紡いでいく。
「この血に関わるものは、俺には要らないものだった。だから俺は、お前さえも……」
 ――駄目だ!
 テスィカはラグレクトを無理やり自分の方へ向けさせ、間髪おかずに頬を叩いた。
(駄目だ、ラグレクト)
 ラグレクトは、静かに赤くなっていく頬を手で押さえて、テスィカを見つめる。
 真摯な瞳に、微かに憂いが浮かんでいる。
 彼女は、目を丸くしてラグレクトを見た。
(なぜ……)
 彼の頬を打った手のひらが、痛い。
(なぜ、そんなに悲しそうな顔をしてるんだ?)
 まるで捨てられたのは自分であるかのように、なぜそんな、泣きそうな顔をしている?
 お前の方が言ったのに。
 相手を傷つける言葉を。
 お前の方が言ったというのに!
「兄上……」
 ラグレクトの背後から、打ちのめされたような弱々しい声が聞こえてくる。
「では、兄上は、自ら進んで私たちを捨てた、というのですか?」
 震える声が痛ましい。
 知っているから。
 捨てられることの辛さを。
 そう、自分もラグレクトから婚約を解消されたから、知っているのだ、その辛さを。
「私や、ケイシスを捨てたというのですか? あれほどあなたを愛しているケイシスを、捨てたというのですか?!」
 答えはすぐに返されない。
 ラグレクトは、テスィカを見つめながら目を閉じて、彼女の背に手を回してそっと抱き寄せる。
「ラグレクト?」
 彼がどうしてそんな行動に出るのかわからなかったが、抱きしめられながらテスィカは反発心を覚えなかった。
 背に回された手にこもる力が、痛いくらいで。
 抱きしめる力が、痛いくらいで。
 彼が何かに必至になっていることが容易にわかる。
「俺は、道具じゃない」
 テスィカの耳元で絞りだすように発せられたラグレクトの声。
 どんな顔で言ったのか想像がつかないくらいの、掠れた声。
「俺は、血を継ぐための道具じゃない」
 テスィカにだけ囁かれた言葉。
「――兄上、ケイシスは真実、あなたを愛しているのに! あなたを愛していたから……あなたに抱かれたのに! あなたは、彼女を愛していたから抱いたのではないのですか!」
 否定して欲しい、そんな声が聞こえてきそうなオルドレットの問いに、ラグレクトは答える。
「愛していたさ! 愛していたから俺は抱いたんだ! でも――」
 ふっ、とテスィカを抱きしめる力が弱まる。
「あいつは俺なんて見ちゃいなかった……あいつが見ていたのは、あくまで『魔道』の第1王子だった……」
 テスィカは、はっとしてラグレクトを自分から引き離した。
 泣いている。
 そう思い、顔を見上げる。
 けれども、ラグレクトは、泣いてなどいなかった。
 寂しそうに、笑っていた。
「ラグレクト……」
 男の泣き顔など、見たことがない。
 だから、テスィカは思った。
 泣いている、と。
 彼の心が泣いている、と。
 ラグレクトの頬を挟みこむように手を伸ばす。
 何を言うべきか、彼女はわからなかった。事情もわからず、何を言えばこの男を慰められるのかがわからなかった。
 わかることは……。
「行こう、ラグレクト……」
 この場から去った方がラグレクトのためだということ。
「行こう、ラグレクト」
「どこへ行くというのですか、兄上」
 遮るようにオルドレットが言う。
「あなたはどこへ行こうと、その髪と瞳がある限り、異郷の人です。どんなに隠そうとも、あなたが『魔道』である限り、あなたを理解できる者はここにしかいない……あなたがいるべき場所は、ここしかないのに、どこへ行くというのですか!」
 オルドレットの言葉がテスィカの胸に突き刺さる。
 彼が言っていることが正しい……それは、テスィカにもわかった。
 一族を失い、流浪の身となった彼女には痛いほどわかった。
 帰れる家――帰れる場所があることの素晴らしさはたとえようがない。
 それでも、テスィカはラグレクトをこの『魔道』の宙城から連れ出したかった。
「行こう、ラグレクト」
 出会ってからほんの数日。
 短い時間ではあるが、テスィカは気づけばラグレクトの笑顔ばかり見ていた。
 ラグレクトの、勝気な笑顔、楽しそうな笑顔、優しい笑顔……笑顔ばかり見ていた。
 だから、こんな笑顔は見てない。見たくくなかった。
 こんな、今にも崩れそうな痛々しい笑顔など、見たくなかった。
「『魔道』の第2王子よ」
 テスィカはラグレクトの背中越しにオルドレットに声をかける。
「第1王子は、私が預かる」
 行くあてもない、復讐が目的の旅をしている。
 預かるといっても、身を危険に晒すだけだとわかっているが。
「お前の復讐に我が兄を利用するのか!」
 そう取られてしまったとしても。
「私が、預かる」
 繰り返し、告げる。
「ありがとう、テスィカ」
 彼女にだけ聞こえる声で言ったラグレクトは、そっと、テスィカを抱きしめた。
 彼は振り向くと、ラグレクトに言う。
「俺は、行くよ」
「兄う……」
「どこかへ行く。どこだって、いい」
 ふわっとテスィカの足元から風が起こる。
 テスィカの体が四方から引っ張られる。複数の手によって。
 もちろんそれは錯覚だ。彼女は、神経を集中させる。今まで感じた中で1番大きな『魔道』を身に受けるために。
「彼女がいてくれる限り、どこだって、いい。俺は、この血に縛られない」
 ラグレクトの語尾はどこか間延びして耳に届く。
 『魔道』が発動した――。
 確かめる間もなく、身体を引き裂くような重い負荷がかけられて……。
 そして、それよりも強い力で彼女は身体を抱きしめられた。 


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