Deep Desire

【第2章】 行く末を握る者たち

<Vol.2 立場>

 南の国境付近にサラレヤーナという都市がある。
 都市といっても、その規模は小さい。聖都《せいと》付近の街と大して変わらないぐらいだ。
 サラレヤーナの外れにある酒場は、その夜も混みあっていた。一歩中に入れば、隣のテーブルの声などまるで耳に入らないほどに。
 ガラの悪い者たちが酒を片手に喧《やかま》しいとか言いようのない笑い声を上げていた。だが、どの者たちも瞳に宿る光は剣呑《けんのん》としている。ここに集まるのはサラレヤーナ駐留軍の傭兵部隊である。ラリフの正規軍は実戦経験がないに等しく、国境沿いのサラレヤーナではいざというときに備えて、戦いのプロたちを金で雇っていた。
 視線の追求を避けながら、ティヴィアは1番奥のテーブルにつく。先客は、短く刈り上げた赤毛の男。いわくのある旅人が立ち寄っても、雇われに来た傭兵だろうと、店の中では誰も彼に見向きもしない。が、目元から頬の中ほどまで刻まれた深い傷は、見た者に強い印象を与えずにはおれなかった。
 この男に近づかないほうが身のためだ、という印象を。
 ティヴィアは席につくなり、近くを通った店の者を呼び止めていつも飲んでいる酒を注文する。
 彼女は酒豪とは程遠いのだが、こういった店で飲むふりをすることだけは慣れていた。
「久しぶりだな」
 口を開いた男は、くだけた調子でそう言った。
 がっしりとした体躯《たいく》、いかにも無骨そうなのだが口調はどこまでも優しい。
 ティヴィアは微かに笑顔を見せて、首を縦に振った。
「兄上こそ、お元気そうで何よりです」
「お前は……数年会わないだけで、随分と変わった。……唇の横に傷があるが」
「これは、先日犯したミスのツケです」
 ティヴィアは右手の人差し指で唇の横にある傷をそっとなぞる。
 制止を振り切り追いかけたくせに『賢者』の王女を取り逃がし、『魔道』の王子の力で強制的に聖都近くへ戻された――失態を重ねた彼女を、出迎えたルキスは平手打ちにした。打たれた拍子に口の端を切った、その傷だった。
「大した傷ではありません、じきに消えるでしょう」
「それは良かった。ティヴィア……美しくなったな」
 言ってから、それがさも嬉しいことであるかを示すように彼は手に持った大きな杯を掲げてから飲み干す。
 ティヴィアは照れたように俯く。世辞が入っていたとしても、言われて嫌がる女はいない。
 男は、ティヴィアの頼んだ酒を持ってきた店員に杯を渡すと、好んで口にする酒を注文した。酒豪でも身構えてしまう酒なのだが、彼は聞き返す店員に平然とした様子で答えた。
 ティヴィアが最後に兄と会ったのは4年前……遠い昔のように思っていたが、相変わらずな兄を見ていると、つい最近会ったばかりなのではないかという錯覚に陥るのだった。
 けれども、そう思っていたのはティヴィアだけだったらしい。
 店員が去った直後、彼は今までの和んだ空気を一掃するような声音で尋ねてきた。
「それで、軍の掌握はどのくらい進んでいる?」
 ティヴィアは笑みを消し去り、口にしようとしていた杯をテーブルに戻した。
「5割、でしょうか」
「残り半分は?」
「“聖女”の直属兵が1割、他の将軍の麾下が4割。ただし、全ての兵はルキス様の……」
「ルキス、様?」
 耳ざとく聞き咎《とが》めた兄の声にはっとして、ティヴィアは慌てて言い直す。
「ルキス、の命に従うでしょう。私が自由に動かせる兵は、4割強と言ったところでしょうか」
 他の将軍たちよりも多くルキスの信頼を得ている自分だからこそ4割なのだ、という自負があるのだが、彼女はあえてそのことを言わなかった。彼女は悟っていたのである。現実が、兄が求めている数字に達していないことに。
 男は、店員の持ってきた杯を無言で受け取り、押し黙っていた。その間も、視線はティヴィアから動かさずに。
 戦場に身を置いたかのような緊張がティヴィアの中で大きく大きくなっていく。
 鋭い双眸がティヴィアの中にある、ティヴィア自身さえ知らない何かを探り出そうとしているかのようだった。冷たい手で心のそこまで愛撫されているかのような気配に、背筋を汗が伝い落ちていく。
「……絆《ほだ》されたか、ティヴィアよ」
 男は、最初に彼女にかけた声が偽りだと思わせるほど、冷たい口調で言う。
「ジャベルレン家の誇りを捨て、ただの女になったか?」
 声質はまったく違うのだが、語調に彼女は背筋を伸ばす。
 既に亡くなっている父、そのものだったから。
「兄上……誤解です。私は……」
「ティヴィアよ、お前の名を述べよ」
「私は……私は、ティヴィア・ジャベルレン」
「では、ティヴィア・ジャベルレンよ、お前の使命とは何だ?」
「私の使命とは……ラリフ帝国の軍を掌握し、もってイスエラ王国の聖戦を優位に導く足がかりとすること」
 心に刻まれた言葉が考えるよりも早く口からこぼれる。
 同時に、1つの想いが沸き起こる。
 逃げられないという想い。
(何から逃げる?)
 喧騒が途端に遠のいていく。静寂に包まれた意識が自問を何度も繰り返した。
 何から逃げるというのだ?
 ルキス様?
 家――祖国?
 わからなかった。けれども、追い詰められて悲鳴を上げている心が叫びつづけるのだ。
 逃げられない、と。
「ティヴィア?」
 名を呼ばれ、彼女は我を取り戻す。
「そろそろ時間だ。俺は戻る。また、会えなくなるが……それも短い間だ」
 男は、テーブルの上に乗せられたティヴィアの両手に自分の手を重ねると、覗き込むように彼女を見た。
 赤い瞳が、念を押していく。
 血のつながりを思い知らせていく。
「年が変わる前に会うことになるだろう。そのときは、お前の名を誰もが知ることになるはずだ、愛しい妹よ。……再会の日まで壮健なれ」
 大きく1つ頷いて、彼は席を立った。
 それからしばらくして、彼女は1口も口をつけてない杯を手に取り、低く笑った。
「私の名を誰もが知ることになる? そうでしょう、裏切り者という蔑称と共に、人々の記憶に残るんだ……」
 呟いて、彼女は杯を一気に呷った。
 その日が来たら、ルキスは彼女のことをどう思い、なんと言うか。
 それを考えると胸が苦しくて、飲まねばいられなかった。



 耳の横を汗が伝い落ちていく。
 最初の頃こそ、まめに手の甲で拭い去っていたテスィカだったが、今ではそれすら面倒になって、ひたすら無言で歩いている。
 視界ははっきりとしているが、喉が渇き、少し頭がくらくらしていた。ここ数日、水だけで過ごしているので体力が落ちているのだろう。自分でも、それが手に取るようにわかっているのである、端から見ているラグレクトが心配そうに声をかけるのも当然と言えば当然であった。
「テスィリス姫、休まれた方がいいよ」
 吟遊詩人さえも魅惑しそうな甘い声音が、気遣わしげな言葉を紡ぐ。
 しかし彼女は、聞きなれた言葉に眉根を寄せた。
 重い足を止め、両手を腰に当て、しばらく荒い呼吸を繰り返す。
「……」
 怒鳴るつもりで立ち止まったのだが、文句を言うのにも時間が必要なくらい体力を消耗しているのが情けない、と彼女は自分で思わずにはおれなかった。
「私のことは、放っておいてくれ」
 声が、木々の間を縫って短く響く。
 返答はない。彼女は気だるそうに顔を上げて、視線を木の根元から幹へ、枝へと移していく。素早く目を走らせたのだが、どの枝にもラグレクトの姿はなかった。
 話し掛けてくれば鬱陶《うっとう》しいことこの上ないのに、いざ姿が見つからないと少し不安である。そんな自分の心情に気づかずに、だが、彼女は数十秒の間、ラグレクトを探していた。
「放っておけないからこうやってついてきてるんだけどねぇ」
 ラグレクトの声は、今度はテスィカの背後から発せられた。
 驚いて振り返ると、大木の幹に寄りかかったラグレクトがテスィカをじっと見ていた。
 均整の取れた体つきに、盗賊を思わせる薄手の黒い服を着ている彼は汗1つかいていなかった。黒い髪と茶色い双眸──『魔道』の民を表す外的特徴さえなければ、信じられない面持ちでテスィカは彼を見つめたに違いない。それほどに彼は悠然と――体力の消耗とは無関係な様子なのだ。
「いい加減、つきまとうのはやめてくれないか」
 怒る気力さえないテスィカは、ため息混じりに言う。
「それが救出してくれた優しい恩人に向かって言う言葉かな、テスィリス姫」
 思ったとおり、今までと変わらない答えをラグレクトは返してきた。
(これじゃあ、意味が無い)
 毎回、同じ会話の繰り返しだ。単なる時間の浪費にしかならないとわかっていても、変に真剣な茶色い瞳に見つめられると、彼女はまるで舞台女優のように決まりきった台詞を口にする。
「……助けてくれと言った覚えはない。それに私は、テスィリスじゃない。テスィカ、だ」
「でも──助けないよりは助けた方が、良かったことは確かだと俺は思うんだけど」
 それはそうなのだ。
 あのまま、武器も何もかも取り上げられたまま、ルキスによって聖都に連れて行かれるよりは、現状の方が数倍もいい。
 わかってはいる。
 感謝してもいる。
 だがしかし。
(……どうしてだろう)
 ありがとう、という簡単なお礼の言葉が言えない。
 そんな言葉など必要ない、当たり前のことをしたまでだ。そんな態度でいるラグレクトを見ていると、今さら「ありがとう」なんて言うのも変な気がする。
 いや、言えないだけならまだいい。
(……どうしてなのだろう)
 思っていることとは正反対の言葉が口から飛び出す。
 たとえば、そう――
「これ以上私の邪魔をするなら、切るぞ」
脅しにもならない脅しの台詞などが……。
 ラグレクトは、すっと目を細めた。
「姫君がそうなさりたいのなら、お気に召すままに」
 そして、木の幹から離れると、右手を体の前に持ってきて優雅な会釈をしてみせる。
 王族だとわかるような、気品に溢れた仕草。
 テスィカは戸惑い、目を逸らした。なぜか、直視するのが恥ずかしかった。
「……『魔道』の王子よ。どうして私につきまとうのだ?」
「最初に言ったと思うとおり、君のことが好きだから――信じてない?」
 さらりと言い返してくるラグレクト。
 そう、彼はテスィカに言ったのだ。
 追っ手であるティヴィアらを退けた後、自分が『魔道』の第1王子であること、テスィカのことが好きだということを告げた。数日前の話なのに、そのときのラグレクトの表情、声、動作、全てをテスィカは覚えていた。
 思い出そうとしなくてもラグレクトの目を見ていると、テスィカはそのときのことを思い出してしまう。胸の高鳴りと共に。
「『魔道』の王子よ……」
「ラグレクト、って呼んでくれって言ったよねぇ?」
 会釈を解き、顔を上げながら確認を取るラグレクトをテスィカはあえて無視して続けた。
「……婚約は、とっくの昔にあなたから破棄したのではないか……」
「だから俺が君のことを好きだと言っても信じてくれないわけ?」
 今さら何を、とテスィカは言いかける。
 あのとき、あれほど自分を傷つけておいて、今さら何を言うのだ、と。
 だが、テスィカが言うより早く、ラグレクトが不思議そうに首を傾げたのである。
「今さら、って思ってる? でも、今じゃ、ダメなのかい?」
「王子……」
「見たことも会ったこともない婚約相手には納得できなかった。形だけの相手と子供を成すなんて冗談じゃなかった。だから、婚約を破棄した。けれども、会って惹かれた相手が、その元婚約相手だった。──それでも、君は俺を受け入れない?」
「……」
「姫君。俺が、自分のことをラグレクトと呼んでくれっていうのには意味があるんだ。『魔道』の王子として、君に接しているわけじゃない、ラグレクト・ゼクティという1人の人間として君に想いを寄せているんだ。だから、名前で呼んでくれって言ってるんだよ。そう理由を話しても、君は俺のことを『魔道』の王子と呼ぶのかな?」
 静かに、音もなく近づいて行くと彼はテスィカの瞳を覗き込むように見つめた。
 吸い込まれそうな、離すことを許さない魅惑的な双眸。
(きれいな……瞳……) 
 見上げるラグレクトの真摯な眼差しが、釘付けにする。
 視線を──身体を──心を。
 乱暴にテスィカの全てを鷲掴みにしていく。
「俺は、君が好きなんだ」
 何回も聞いた、聞くことさえ飽きて当然の告白。
 なのに、また自分の頬が高潮していくのを彼女は感じる。
「……そんなことがあるものか」
「なぜ?」
「あなたは、私のことを知らない。私には……好かれる部分などない」
 誰も好いてくれなかった。
 今までずっと。
 愚かな王女は、幼い妹姫が愛されていたことを嫉妬するくらい、誰かに愛されたがっていた。けれども――。
 誰も、愛してくれなかった。
「自分で気づいていないだけだよ」
 くすっと笑って、ラグレクトはテスィカの頬に触れた。
「俺は幾つでも上げられるよ、俺が君のどこを好きになったのか。テスィリス――いや、これからは俺も君のことをテスィカと呼ぼうか」
 澄んだ茶色い瞳がぐっと近づいてくる。何が起こるのかわからずに、彼女はしっかりと目を開けていた。
(……そんなに近くに顔を寄せたら……)
 瞬きも、できない。
 息も、できない。
 どうしよう、とテスィカは思った。
 しかし、そんな彼女の思いは一瞬で解かれることとなったのである。
 ラグレクトは、唇が触れ合うまさにその瞬間、止まったのだ。
「……ラグレクト?」
 我知らずテスィカはラグレクトの名を呼ぶ。それに狂喜することなく、逆にムッとしたままラグレクトはテスィカから顔を離す。次の瞬間、両手でテスィカを抱きしめながら。
「ラグレクト!」
 急に抱きしめられて慌てたティスカは、ラグレクトの胸の中で何が起こったのかわからないといった風に大声を出した。
 喉が渇いているからか、声はかなり掠れて出る。
「せっかくいいところだったのに! そういう邪魔の仕方は、許さないからな、俺は」
 言い切るや否や、テスィカは息を飲んだ。
 ラグレクトの体から発せられる力を感じたのだ。
 心地よい風が身体を包む。同時に、自分の体の芯が歌うような声を発した。
 奇妙な感覚……こんなことは初めてだった。けれども、なぜか覚えがある。
(あのとき……)
 ふと、彼女は思い出す。
 『剣技』の王子、ジェフェライトと出会ったときのことを。
 今のような力の感じ方はしなかったが、あのときも確かに妙な感覚を覚えた。
 ならばこれは、3族間の共鳴、とでも言うのだろうか?
「姿を現せ、覗き魔!」
 ラグレクトはテスィカが悩んでいることなど関係なく叫ぶ。彼の意識はすぐ傍にいるテスィカではないのが一目瞭然だ。
 ラグレクトの声を聞いた直後、風が巻き起こる音がして、テスィカは音の方へ向いた。
 地面から彼らの倍の背丈はある竜巻が起こっている。それは短い間のことで、木の葉と共に収まった竜巻の中にいた者を見て、テスィカは絶句してしまった。
(あれは……)
 己の目を疑うとは正にこのこと。
 なぜなら、そこにいたのは──人ではなかった。
 背の丈は竜巻よりも少し小さいくらい。黒い角が額から突き出している。
 何なのだ、と思っている眼前で、そいつが口を大きく開く。
 グホッ、というのは鳴き声だったのだろうか? それを合図にしていたかのように、そいつは翼を広げた。体よりも大きな2枚の羽……。
「いい度胸してるな、えぇ!?」
「……あれは、何だ?」
 零れ落ちた疑問。
 ラグレクトがちらりとテスィカに目を向けた。
「“不和の者”」
「……“不和の者”!?」
 書物でしか見たことのない名前。
 だが。現実に目の前にいるのだ、その異形の者は。
「本当に、“不和の者”だと言うのか!?」
 問いかけに対する返答は、脳裏に直接響きわたる。
“我ハ、世界ノ支配者。不和ノ者トハ、心外ナリ”
 テスィカの中で驚きが倍になる。
 対して、ラグレクトは平然としていた。
 平然と、言い返していた。
「お前の名前なんて、俺にはどうでもいいことだ!」
“我ノ支配ヲ拒ンダ、魔力ヲ持ツ男ヨ──口ヲ慎メ”
「誰に言っている? お前こそ、口を慎め」
 ラグレクトは冷酷に言い放つと、「姫君」と、テスィカに話し掛ける。
「ちょっとだけ時間をくれないかな? 俺があいつを倒すから」
 言うが早いか、彼はテスィカから手を離した。
 微笑みかける茶色い瞳に怖いほどの何かを感じ取って、テスィカは無言で頷いた……。


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