Deep Desire

【第1章】 全ての出会い、全ての始まり

<Vol.5 出現>

 子守唄だ──。
 赤茶のレンガでできた柱に寄りかかり、テスィリスはそっと瞼を閉じた。
 部屋の中から聞こえてくるのは優しい声で紡がれる唄。
 それが子守唄だとわかったのは、直感的なものだった。幼い頃に聞いたといっても、何一つ覚えていないのだから。
(子守唄か……)
 歌詞も旋律も断片的にしか聞こえてこない。廊下に差し込んでくる陽はどこまでも赤く、頬を撫でる風は夕べの持つ独特のまどろみを感じさせ、それがより一層、唄を特別なものの象徴に変えていくように彼女は思えた。
 この時間に妹姫のところに来ることは固く禁じられていた。王女であり姉であるテスィリスとて例外ではなく。
 それは、妹姫への子守唄を彼女が聞いてしまうからである。
 『賢者』の女王の唄は魔道の結晶。命令に似た願いが込められたものなのだ。そう簡単に耳にすることなどない、あってはならない。
 女王は毎日、眠りの時間に唄を唄って、願いという名の命令を吹き込んでいく。
 『賢者』を引っ張る立派な王族になるように、と。 
 聖女が、帝国の者が、幸福に暮らせる世界を手助けするように、と。
 幸せになるように、と……。
(まるで呪詛《じゅそ》のようだな)
 乳母が聞いたら怒りのあまり声を失うだろうが、テスィリスは正直そう思っていた。
 彼女は母である王女の魔道がどれほどのものかを知らない。毎日子守唄を聴かせるくらいなのだ、微弱なものかもしれないと思う。一方で、妹姫のところに近寄るのも許さないというところから、少し耳に挟んだだけでも魔道が自分に及んでしまうくらい強大なものではないかというようにも思える。
 そう、魔道のほどは定かではない。
 だから、魔道に頼らず、自分で努力していくことが必要になる。
 立派な王族になるように、人々が幸福に暮らせるように、幸せになるように──努力していくしかない。
(けれど……私は、そのどれに対しても自信がない……)
 そのどれにも正しい答えなどわからない。わからないものを、どうやって努力すればいいのか。
 どうやってそれらを叶えよと母は言うのだろうか?
(努力したとしても、それが必ずしも良い結果を生むとは限らないしな。なにせ、私は……)
 赤く塗られた唇の端が歪められる。
 その唇に、伝ってきた涙が引き寄せられるかのように吸い込まれていく。 
(私を必要としている者などいないのだからな)
 漏れ始めた声を押し殺し、テスィカは柱に寄りかかる。
 自分を慰めるように時折聞こえる子守唄が、何よりも自分を追い詰めていく。
 上を向いて大きく息を吸い込んだ。
 唄が止まないように、涙もなぜか止まらなかった。



 微かな気配で瞳を開けた。
(……だれ……?)
 青い瞳が自分を見つめている。
 レーレの港で見た海の色と同じだ。
 それは、冷たい色。なのに、温かいと感じて、テスィカは開いた目をすぐに閉じた。
(……温かい)
 見守られていることが安心感を与えてくる。
(私を見ている……)
 誰でもなく、自分を見ていた。
 自分を見つめていた。
 それが嬉しくて、自然と笑みが零れてしまう。
(私に気づいてくれている)
 ここにいる、と声を上げなくても、気づいて自分を見てくれている。すごく、嬉しい。
「テスィカ様?」
 細い声が耳をくすぐった。その心地よい響きは例えようもない。
 意識を眠りのさらに深いところに誘い込むような声だ。
(誰だろう。私を呼んでいるのは誰だろう?)
 母上?
 ……違う、母上は青い瞳なんてしていない。
 じゃあ、誰だろう?
「テスィリス姫はまだお休みかな?」
 刺々しい女性の言葉に、テスィカのまどろみは一気に破られた。
 反動のように身体を起こす。
 驚いてファラリスが身体を引くのが視界の隅に映る。だが、ファラリスに声をかける前に、彼女を眠りから覚ました女性が、からかうように再び声を発した。
「『賢者』の王女も、未だに己の真名《ま な》だけは忘れられぬ、か」
「……ティヴィア……」
 テスィカは、上目遣いにティヴィアを睨みつけた。
 扉に手をかけてテスィカを見つめる“戦乙女”は、うっすらとした笑いを浮かべていた。けれども、瞳は決して笑っていない。まるで彼女自身が笑う演技をしているようである。
「敵に捕まったのにいつまでも目を覚まさないとは、のん気な姫君だ」
「……ルキスは……奴はどこだ……」
 女性のような容貌を持った美しき将軍──ルキスに捕らえられたという苦い思いが全身を駆け巡る。
 彼の名前が出た途端、ティヴィアは笑うのをやめた。演技が出来なくなったかのように、突然に。
 テスィカへの眼差しが鋭くなり、テスィカは身を硬くする。
 向けられる感情が何と呼ばれるものか、彼女は間を置かずに理解できた。
 それは、殺気……。
 腰に手をやるが、剣は取り上げられているのだろう、テスィカは丸腰だった。
(殺される……?)
 まさかとは思うが、斬られるという気配を本気で感じる。
 固唾を飲んで見守る中、ティヴィアは無表情で眉1つ動かさずに口を開いた。
「気になるか? ならば、来るがいい。いや、来てもらう。……ルキス様がお呼びだ」
「ルキスが?」
 訊ね返す。
 首を縦に振ると、結わいを解いた長い髪をかきあげて、顎《あご》で「立て」とティヴィアは命じた。
 断るという選択肢はないだろう。囚われの身に自由などないのだ。
 立ち上がりかけ、そこで彼女は身体に与えられた微かな抵抗を感じる。何らかの力が加えられているらしい。3族のうち魔道を使えるのは『賢者』と『魔道』──しかし『賢者』は自分だけ。そして『魔道』はここにいないはず。薬の力と考えるのが何よりも1番妥当だった。
(ならば、切れる頃合を見て逃げることができるはず)
 傍らに座っていたファラリスが心配そうに仰ぎ見る。
 縋《すが》るような目をして、自分を見てくる。
 言葉にはできないけれど、大丈夫だからと目で訴えて、彼女は膝を伸ばし、ファラリスだけに聞こえる声で、
「すぐに、ここに戻ってくるから」
そんなことを言ってみせた。
 ファラリスの慈悲深い青い瞳は、彼女と出会ったときの苛立ちをまるで水の泡のように儚いものへと変え、憎しみさえも忘れさせていた。



「命があるまで下がっていろ、ティヴィア」
 部屋に入り、最初にルキスが発した言葉はテスィカに対してのものではない。自分も同席するのが当然だと思っていたティヴィアへの無情なものである。
 ティヴィアが驚愕に息を飲んだ気配をテスィカは感じ取り、ちらりと背後を顧みた。
 表情は見えない。無言で背後の気配が扉の外に消えるのを知り、仕方なく視線をルキスに戻した。
 彼はティヴィアが去った後、机の上に落とした視線をゆっくりと上げていく。
 白い肌。眩《まぶ》しいばかりの金の髪。そして、空よりもさらに濃い青を湛《たた》えた瞳がテスィカとぶつかる。
 女性かと見紛うばかりの美貌。だが、華奢な印象を振り払うような鍛えられた、それでいて均整のとれた身体。一面の赤い絨毯《じゅうたん》に飾られた部屋の中で、どんな装飾品よりも目立つ部屋の主が自分をじっと見つめている。
 変わっていない。
 4年前、『賢者』の宙城《ちゅうじょう》に攻め入ってきたあの姿とも。
 その後、偶然出会った2年前とも。
 髪が少し伸びただけで、彼を飾る美辞麗句は何一つ変わらずそこに存在しているのがわかる。
(この男が……)
 美しいこの男が、自分の敵。
 『賢者』一族を煉獄《れんごく》に突き落とした、冷酷なる将軍。
 拳を形作り、彼女は瞳でルキスを射殺す。
 ルキスがそれをかわすように微笑んだ。
「相変わらずだな」
「……この場に私の剣がないことが口惜しい」
「私も残念だ。あなたの腕前が上がったかどうかを試す手立てがない」
 椅子から立ち上がると、ルキスは一言付け加える。
「わかっているとは思うが、たとえあなたに嗅がせた薬が切れたとしても、この部屋では『賢者』の魔道は使えない。あなたが使えるのは、その拳と眼差しだけだぞ」
 クスクスと笑ってルキスはテスィカに近寄って行った。
 緊張感が身体の中を上り詰める。
 すぐ後ろが壁なのがテスィカの緊張感を嫌がおうにも上昇させた。彼が自分の手の届く距離に来た瞬間のこと、抑えきれなくなった感情が漏出するかのように、テスィカの拳が空を切る。
 拳は頬を掠りもしなかった。ルキスの手に受け止められたからだ。
 冷酷な将軍の手の平が冷たくない。
 避けられた以上に、それが気になった。
「性格も、変わってないようで。たった2年では変わりようがないか」
 見上げた先で抑揚無く言われる言葉に、かえって怒りが増幅される。
「……長い2年だったが、な」
「それほどまでに思っていただけたのか」
「ああ。貴様のことだけ考えたさ」
 身体の中をドロドロとした感情が渦巻いて、身体が打ち震える。
 なぜか、ルキスに合わせるようにテスィカも微笑んだ。
「貴様をこの手で葬ることだけを考えていたさ!」
「嬉しいな」
「私も……この手に剣があれば、同じ喜びを感じ取れたのに……残念だ」
「残念だな」
 言葉に感情が、身体が動く。
 空いていた左手が渾身の力を持って眼前の標的を打ち砕こうと振り上げられる。
 2発目の衝撃は手の平に迎えられなかった。
 感じたのは手の平の温もりではなく──痛み。
「くっ!」
 手首を掴まれ、壁へ押さえつけられた。
 激しい力で、抵抗を抑え込まれる。
 骨が軋《きし》む音を上げる気がして悲鳴が出かかる。それでも、ルキスの前で声を上げることに対する嫌悪感から、テスィカはそれを飲み込んだ。
「……っ……」
「このまま聖都へ来てもらう。“聖女”もあなたを心配しておられる」
「誰が……」
 痛みに、語尾は消え入り、眉が顰められる。
 聖都兵が一族を滅ぼした。
 それはすなわち、“聖女”が聖都兵に命じた結果で──。
(なのに、心配しているだと?!)
 そんなことはありえない。
 あってはならない。
 そんな偽善など、何の救いにもならない。救いにならないどころか、許せない。
 “聖女”がどんなに人々に崇められていようと、慈悲深いと、許せない。
 一族を滅ぼした者たちなど、決して赦《ゆる》そうなどとは思わない!
「逆らわない方がいい。あなたは、今、赤子同然なのだから」
 剣を取り上げられ、魔道も使えない。
「聖都までの短いが快適な時間を過ごしたいと思うなら」
 笑みを形作ったままでルキスは抗えない命令を下す。
 彼の優位さはそこまでだった。
 耳鳴りのように部屋の空気が硬質化する音をルキスだけでなくテスィカも感じた。
 硬質な、鐘を激しく打ち鳴らすような、神経を逆撫でる音。
(この音……)
 慌てるようにしてルキスはテスィカの手を離す。そして、一歩退く。
 その引いた足が絨毯に着く直前に──ルキスが吹っ飛んだ。
 重い音を立てて彼の背が大きな本棚に当たり、幾冊もの本が彼に向かって身投げする。
 顔をしかめたルキスなどテスィカは一度も見たことがなかった。
 金の将軍が膝を折った様など、夢物語と言われるほどなのだ。
 ……今のは何だったのだ?
 疑問が喉までせり上がってきたが、そこで止まったままである。
 と、傍らから。
「赤子同然なのはお前の方だよ」
 柔らかい男の声が聞こえ、びっくりしてテスィカは真横に顔を向ける。
 そこに人などいなかったはずだ。
 なのに、人がいた。
 まず、適度にがっしりとした肩が目に入った。鎧も身に着けず、薄い衣に身を包んでいる。
 顔を上げてその人物を彼女は見た。
 腕組みをしてにやにやしながらルキスを見ている青年を彼女はしっかりと確認した。いないはずの人間を、そこに、存在していると確認した。
 深緑の髪を後ろに流した青年は大人びた顔立ちをしているが、どうも態度が子供の色合いしか出していない。不思議な感覚を抱かせる。
 全身黒い出で立ちや、細い身体に剣の類を何も付帯していないことが盗賊を思わせた。しかし、それにしては何かが欠けている。
 警戒心とでも言おうか。
 鋭い気配が、ない。
(誰だ……)
 驚きが身体を覆う。身構えるのが遅くなった。
 隙を狙ったというわけではないだろうが、青年はルキスを見たまま本当に唐突にテスィカの手を取ったのだ。
 本を退けながら身体を起こすルキスに、青年はニヤニヤと笑い、
「甘すぎるんじゃないの、まだまだ。……この姫君はさらわせていただくから、よくよく反省することだね」
言い放つと、テスィカを初めて見つめる。
 そのときテスィカの中に生まれたものは、言葉にできない感情だった。
(……誰……)
 初めて目が合った。
 緑の瞳が心を捕らえる。
 そこに、魔道があったのだろうか?
 振り退けることができないで、双眸に惹きこまれる自分を感じ取る。
 外見はまるで違うのに、青年がファラリスに重なって見える。
 優しい瞳。
 優しく自分を見守る瞳。
 それがフェラリスと同じだから。
 知っている人物ではない。
 けれども、知っている感覚が身を取り巻く。
 知らない。
 なのに知っている。
 誰?
「じゃあ、行こうか」
 声が発せられたのと手を引っ張られたのはほぼ同時。
「……待て! ……衛兵!」
 投げかけられたルキスの声を背に浴びて、彼らは扉から抜け出る。
 突然のことで反応が遅れた衛兵を無視して、青年は複雑な飛船の廊下を駆けていった。
(誰……どこに行く?)
 問うこともせず、ただ成されるがままに引っ張られていくテスィカの前に、やがて現れたものは──扉だった。
 その扉がどこに通じているか彼女は知らない。
 青年が立ち止まり、振り返ると首を傾げて彼女を見た。
「さて、姫君。まさかとは思うけど、高所恐怖症……なんてことはないよね?」
 声に乱れは無い。あれほど走ったのに。
「それはないが……」
 一体何に関係した質問なのか?
 心の中で呟いたが、彼は聞こえたかのように「すぐにわかるよ」と答えた。
 その答えより先にテスィカの耳に飛び込んできたのは、背後から駆け寄る足音。
 複数のそれはすぐに自分たちに近づいてきた。
 廊下の角を曲がり、右側から最初に現れたのはティヴィアである。
 彼女は足を止め、肩で呼吸をしながら彼らに向かって剣を抜いた。
「追い詰められたな」
 気がつけば、左側からも兵士がやってくる。
 逃げ場は扉しかない。
 しかし、テスィカの横にいる青年は舌打ちするどころか、喉の奥でおかしそうに笑うのだ。
 人を小馬鹿にしたように。
 愉快でたまらない様子を表すように。
「追い詰められたって? 誰が」
 気障な手つきで前髪をかきあげると、青年はその長身から見下ろす姿勢で──つまり、かなり偉そうに──ティヴィアに言い捨てる。
「初めから俺はここを目指していたんだよ」
 それほどの自信はどこから……。
 思考はそこで中断。脳裏は純白に塗りつぶされる。
 テスィカは思わず状況を忘れて叫んでしまった。
「ちょ、ちょっと待て!」
 抱きかかえられたことなど一度も無いのに、軽々と身を抱えられ、動揺したのも束の間。
 青年が足で開け放った扉の外が、彼女をさらに混乱させる。
 そこは、一面の青と白の世界だった。
 広がるのは、空、なのだ!
「追ってこれるものなら──追ってきな」
 言葉が放たれた後で、彼が床を蹴るのがわかった。
「な──!」
 身体が一瞬だけ風を感じて、言葉が喉の奥に引っ張られて、そうして。
 下へ落ちていく感覚を感じるより早く、テスィカを闇が包み込んだ。もちろん彼女は何が起きたのかわからずにいたのだ。
 わかるわけがないだろう。
 テスィカは気を失ったのであるから……。


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