Deep Desire

【第1章】 全ての出会い、全ての始まり

<Vol.6 誇示>

 ラリフ帝国は大陸でも有数の面積を持つ国家である。
 北と東は海に面しており、人間が定めた国境線は西と南にしか存在していない。その国境線が他国の侵攻によって変えられるということは、ラリフ帝国の開闢《かいびゃく》以来、1度として起こりえなかった。
 西の国境線は、聳《そび》え立つ山々によって定められており、そこを越えてラリフに攻め入るのは困難なことこの上ない。つまり、実際に侵攻するならば、それが可能なのは南の国境線だけなのである。
 この南の国境線は、西の山々から港湾都市レーレへと続く河川に定められていた。
 河川に架かる橋の元へ集った国家は2つだけ。しかし、そのどちらも、橋を越えたところにある森まで軍を進めることはできなかった。“聖女”と共に帝国を守る『賢者』、『剣技』、『魔道』の3族いずれかが迎撃に出てきたからである。
 3族は聖都を中心に巡回している宙城《ちゅうじょう》で日々生活している。そのため、地上に降りてくることはほとんどない。しかし、いざ敵が攻め込んできたとき、地上に降りて迎撃することに躊躇《ためら》ったりはしなかった。
 南の国境線をまたぐ橋は宙城の巡回上にあるために──正確に言うならば、橋が国境線上にあるからこそ、宙城はそこを巡回するのだが──彼らが地上に降りる時間はそれほどかからない。
 宙城からなら敵の進軍も確認しやすく、敵影を発見してから帝国内に数多《あまた》ある、宙城と地上を結ぶ転移門《テレポートゲート》をくぐったとしても迎撃する時間は十分にある。森に入る前に敗走する敵軍は、無論そのはるか先にある聖都へ攻め入ることなどできようはずがなかった。
 橋を越えてすぐの場所にあるその森だが、かつては聖都の南東から北西にかけて、半円を描くように広がっていた。
 4年前、『賢者』の一族の宙城が森の上空で炎上し、炎に包まれ崩れ落ちてきた城の破片によって半分以上が焼失してしまった。今では、聖都の南東から南西まで、本来の半分の面積にしか、映える緑を目にすることができない。
 その無残な様子はまるで、『賢者』一族の辿った末路そのもので、近寄る者とていなかった……。



 彼は逡巡《しゅんじゅん》することなく手を伸ばし、横になっているテスィカの髪を1房掬《すく》う。焚火に映える漆黒の髪は細く柔らかい。
 眠っていると年相応の少女に見えるテスィカを彼はしばらく眺めていた。
 髪を撫でながら。頬に触れながら。
「こんな美人さんだったら、断るんじゃなかったなぁ」
 独り言を発すると、彼は大きくため息をつく。
「今じゃ髪短いし、モロに俺の好みだもんなぁ」
 外見だけでなく、ルキアに見せた勝気な性格、それも全部自分の好み。
 後悔するのは行動した後。
 そんなことは重々承知、けれども今回ばかりは軽率な己の行動を彼は悔やんだ。
 起きた少女が自分の正体を聞いた瞬間、自分を嫌わぬわけがないのだから。
「ま、恋は前途多難って誰もが言うし」
 元気付けて立ち上がると、天上に広がる星を眺める。
 何かの広場のように、開けた場所を見つけてよかった。都市近郊では決して見れない星までを少しでも多く視界に収めることができる。
 愛が生まれる場所として、十分に通用する。
 気分がよくなり伸びをすると、彼は肩をコキコキ鳴らした。
「障害は多いほうが燃えるってかい?」
 呟きながら、いたずらっ子のように笑う。
 次いで指をポキポキ鳴らした。
 辺りは静まり返っていた。夜行鳥の声もない。
 そこに突然生まれたうめき声。
 地獄から這い上がってきた亡者たちの低い雄たけびが重なり合って、風のない夜なのに薪の火を大きく揺らした。
「あんたはどう思うわけ? 教えて欲しいな、戦乙女のティヴィア殿」
 ドサリと、まるで重い荷物が地上に降ろされる音が重複する。
 しばらくしてから、木々の間から軽装の女性が姿を現した。
 肩を流れおちる長い金髪が、闇の中でも淡い光を発している。それを眩しそうに見つめながら、青年はティヴィアに話し掛ける、
「赤い髪を金色に染めてまでルキスの近くにいたいわけ? それでも、想いは届かないよ。あの男はそういう男なのだから」
 そうは言っても恋する乙女は止まれない?
 そんな風にからかう口調で彼が尋ねるが、ティヴィアは無言でいるだけだった。
 顔が心なしか青ざめている。
 いいや、それだけではない。彼女は今、微かではあるが震えていた。
 眼前にいる、『賢者』の王女を攫《さら》った者があまりに得体の知れない者なので。
(何者だ……?)
 畏怖が口を強張《こわば》らせる。
 自分のことを知っている。それは調べればわかることだ。飛船に乗り込んでいた眼前の男が、そのくらいのことを調べるなど簡単なことだろう。だが、そんなことはどうでもいい。今はそんなことなど、どうだっていい!
(どうやって殺した……何があった?)
 広場を囲む部下たちが、一切の前触れもなく、切り刻まれて倒れ付した。
 目に見えない刃が全てを一瞬のうちに切りさった。
 残っているのは、月光に照らされた幾つもの血だまり。
 ティヴィアが呆然と佇んでいるのも何ら不思議はないことだった。
 青年は、そんな彼女の様子を面白そうに見つめるばかり。不穏な気を発しつつ。
 それが余計に不気味なために、ティヴィアはますます気が動転した。
「ん……」
 彼らの関係を一変させたのは、寝ていたテスィカの声である。
「ここ……どこ……」
 頭を抱えて、体を起こす。
 青年の気から、刺々《とげとげ》しいものが消え去っていく。
「目、覚めたかい?」
 ティヴィアを無視して、彼はテスィカへ向き直る。
 未だに恐怖は拭えないが、戦士としての訓練ゆえか、彼の見せた隙に乗じてティヴィアの体が自然と動く。腰にある鋭い短剣を力任せに投げつけた。
「頭とか打ってないよな?」
 確認するようにテスィカに訊いて、彼女から視線を一度も離さず、青年は右の手を投げつけられたナイフへかざした。
 刹那の光景はティヴィアの目に強く焼き付けられた。
 何事かわからぬが、迫る気配を感じ取って顔を上げたテスィカも同じく、その光景を目撃する。
 ナイフが、疾風《はやて》のように投げられたナイフが、宙で止まっていた。
 その切っ先が触れるか否かの空間が、奇妙に歪んでいるように見える。
 水面に広がる波紋のように、歪みはナイフを中心に方々へ伝わっていく──これは一体何だろう?
(奇術)
 胸中で呟いた自分の言葉を、テスィカは激しく拒絶する。
(違う、奇術じゃない。これは……これは……)
 恐る恐る傍らの青年を見上げる。
(そんな、馬鹿な……)
 見るのは初めて。会うのも初めて。
 けれど、ジェフェライトと出会ったときに感じたものを今はまるで感じない。
 だから、まるで気づかなかった。
「何、そんなに俺っていい男に見えるわけ?」
 青年は空いている左手で、耳元に垂れた髪の毛を後ろに撫でつけて、笑いかけてくる。
 漆黒の髪を撫で付けて、茶色い瞳で、笑いかけてくる。
「『魔道』の民……」
「あ、魔道解けてたか……」
 両手で彼は頭を押さえる。
 慌てる青年とは対照的に、止まったナイフが緩慢に地上へ落ちていく。
 絶好の機会とはいえ、ティヴィアも驚き、攻撃することを忘れていた。
 いや、彼女が考えなければならないのは、今や「どうやってテスィカを取り戻すか」ではなく、「どうやってこの場から退避するか」である。
 『魔道』と『賢者』──特殊な力を持つ2つの一族の者を前にしては、いくら“戦乙女”と言えど……。
 しかしながら、ティヴィアの険しい考えは杞憂に終わったのであった。
「わかんないようにしてたんだけど、やっぱり地上じゃ無理がある……あぁ、忘れてた」
 テスィカに向けた笑顔とは正反対の冷たい様子で彼はティヴィアを睨みながら、右手で拳を形作る。それを大きくかざしたかと思ったら、何かを払いのけるような動作を、彼はティヴィア見せたのだった。
「姫様は目覚めた。邪魔者は消える時間だ」
 ティヴィアは顔をしかめた。青年の傍らにいるテスィカも同時に渋い顔をする。
 耳を震わす嫌な音。
 ルキスの部屋で聞いたものと同じ響きが鼓膜を震わせる。
 耳を覆いたくなるほどに神経を逆なでする音は、ティヴィアの背後から発せられていた。そこは、森の木々がある──はずなのだけれど、見る限り何もなかった。
 そう、何もない。
 大きな暗闇が口を広げているだけだった。そこにティヴィアは飲み込まれて行ったのだ。
「大好きなルキスのところに戻してやろう」
 拳を解くと闇は内側へ収縮していく。
 そして最後は、何もなくなった。
 ティヴィアの姿は欠片すらない。
 息を飲んでテスィカは青年をじっと見つめる。疑うことは不可能な、絶対的な力を見た。
 『魔道』一族が操ると言う、時空《とき》の魔道──。
「やだな、そんなに見ないでくれない? 恥ずかしいんだけど、テスィリス姫」
 語尾を躍らせて、、捨てたはずの名を呼んでくる。咎めることも忘れたままで、彼女は聞かざるをえなかった。
 どうしてここに、と。
 何より誰より地上を嫌う『魔道』一族がなぜここに?
 なぜ飛船に?
 青年は両手をテスィカの肩に置き、恥ずかしげもなく言い放つ。
「そんな理由はどうでもいいと思わないかい? 君に会えた、それが重要」
「私に会えたことが?」
「そう。前から会ってみたかったんだ。俺、君のことを知ってたから」
 茶色の目を猫のように細めて笑んで、彼はやっと自分の名を名乗る。
「俺はラグレクト」
 その名をテスィカは知っていた。
 ラグレクト・ゼクティ──かつて自分との婚約を破棄したという、『魔道』の第1王子の名なのだから。  


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