Deep Desire
『剣技』の王子の茶色の双眸……それが思い起こさせるものは、過去の映像。
運命の日――滅びの前日、そんなことはまるで予想せず、告げられたことこそが自分のさだめを変えるものだと思い込んでいた日のこと。
瞼に刻んだ風景と母の眼差しがテスィカに過去の記憶を差し出してくる。まだ、テスィリスと名乗っていた頃の、懐かしい記憶を。
脳裏に、『剣技』の王子と己の関係を知らせる母の顔が駆け抜けていった。
宙城《ちゅうじょう》の展望台《バルコニー》に立つと、下界の景色が作り物のように見えるものだ。
それはそれで面白いのだが、テスィリスは展望台が好きではなかった。激しすぎる風のせいで。
必要以上の強風に煽《あお》られ、腰まで伸びた漆黒の髪が乱雑に宙を舞ってしまう。肩の上で飛び跳ねる髪を押さえながら、テスィリスは母の、見事なまでに長く美しい黒髪だけをじいっと眺めているのだった。
風に弄ばれて暴れる黒髪は、乱暴な、それでいて柔和な動きに見えている。髪の描く軌跡が曲線だからなのだろうが、それさえも、『賢者』の王女が持つ魔道の力がそのように見せていると思ってしまうのは、とても不思議なことだった。
「呼び出してすみません」
手すりに右手をかけながら、体を半分向けた母がいつものような口調で話す。
確かに実の、血の繋がった母親なのだが、この口調を聞くとテスィリス知らずのうちに緊張して姿勢を正す。
「構いません。今日の分の剣の修行は終りましたし……何か御用でしょうか、母上」
「あなたに話しておかなければならないことができたのです。……どうかしましたか?」
「いいえ、その──母上、部屋の中に入りませんか? 今日は、風が強すぎます。少し聞きづらいのですが……」
心持ち大きな声を発したのは、ひときわ強い風がテスィリスの頬を強く叩いていったからだ。
(珍しいな。母上は防御壁《ホールド》を張らないのか? こんな風なのに)
宙城は普段、防御壁という特殊な防御壁を張っている。防御壁は天候を妨げる役目をしていて、宙に浮いて移動する城を災害などから守っているものだ。
3族の宙城は聖都を中心とした同心円状に存在している。聖都よりも高度に、それでも雲より低い位置にあり、同心円上を一定の速さで北から東をとおり南へ行くように移動している。宙城はそのようにして帝国内を巡回浮遊し、外敵から“聖女”のいる聖都を守るため、索敵を行っていた。だから、敵と遭遇する機会などまずもってないのだが、万が一、敵と遭遇した際に、防御壁は文字通り、敵の攻撃を防ぐ役割も担っているのである。
防御壁は3族の族長がそれぞれ独自に張っているもので、見た目は同じものに見えるとしてもその原理は異なっている。
『剣技』一族は剣術に用いるときに発する気で、『賢者』一族は自然の力を操る魔道で、それぞれ防御壁を張っている。『魔道』一族は例外で、防御壁を張ることが珍しいのだが、それは彼らが時を操る魔道でもって宙城を常に別空間に置いているからだ。巡回軌道上に見られる『魔道』の宙城は幻。実物が軌道上に姿を見せるのは、地上の民が聖都の人間と出会うのよりも更に稀なことである。もともと現実世界にいる時間が少ない『魔道』の宙城は、防御壁を張るまでもなく自然災害に遭う確率そのものが低いということになる。
テスィリスは視界いっぱいに暴れる己の髪を強く押し付け、一番近くに漂う雲を見つめた。
(防御壁を張らないと、こんな風では話なんてできるわけない。だって、この風は……)
雲は重い色に染まりながらも早く流れている。
(まるで、嵐が来る前のそれみたいだ……)
「テスィリス、あなたの婚儀の相手が決まりました。『剣技』の王子、ジェフェライト殿です」
テスィリスは見えない糸で引っ張られるかのように、眼差しを母へと戻した。
突然の告知。
数秒の間が必要だった。失った言葉を取り戻すのに。
「私に婚約相手、ですか……?」
やっと発した言葉の影に、微かな戸惑いが見え隠れする。
それを察した彼女の母は、小さく首を縦に振った。
髪が、踊るように上下する。
「あなたは一族の王女。何らおかしいことはございません」
「しかし、私は……一生、独り身なのだと思ってました」
『賢者』の一族は他の部族の王族とは異なり、同族間で子を成さない。『剣技』『魔道』の王族との間に子供を作る。
テスィリスにも婚約者と呼ばれる相手がいた。しかし、その相手との婚約は破談してしまった。こんなことは『賢者』の歴史始まって以来、プライドの高い一族ゆえに「王女の地位を外したのち、幽閉するのが妥当」と囁く者も少なくない。
それが、再び婚約とは……?
テスィリスは続けて問うた。
「まだ幼いとはいえ、妹姫もおりましょう。なぜ、私に婚儀の話が?」
『剣技』の王子は、出会ったことのない相手。
自分に固執する理由が、まるで見えてこないから──不安が体中を駆け巡る。
なぜ、私?
私なの?
「二度も言わせないように。あなたは一族の王女なのです」
それは知っている。
乳母や教師たちが影で言っているのを聞いたことがあるのだから。
できそこないの王女様、と。
族長に似ず、何をやらしてもだめな王女、と。
「母上……」
妹姫は賢いお子様、なのに姉姫は秀でるところが何もない。
婚約破棄も仕方ないこと。
そんな嘲笑を、知っている。
テスィリスの不安から目を背け、彼女の母は微笑を向ける。
「近いうちに、『剣技』の王子殿に引き合わせます。茶色の双眸だけでなく、心もきれいな方だそうですよ」
優しい表情と口調なのに、反論は元より疑問を投げかけることを拒否するような響きをテスィリスは感じ取った。
さらに何かを言いかける母に、彼女は軽く会釈を返す。
そしておもむろに背を向け、走り出した。
頬を叩く髪が目に入り、左の瞳に涙が滲んだ。
「テスィリス殿?」
茶色の瞳。
自分の一族にはない色。
初めて目にする色。
声で我に返ってから、テスィリス――今はその名を捨て、テスィカと名乗る少女は『剣技』の王子から目をそらす。
何をどう話し掛けてよいのだか、テスィカはまるでわからなかった。
始めて出会った『剣技』の王子に、言うべき言葉はたくさんあった。聞くべきものがたくさんあった。たくさんある、はずだった。
一族が滅びる前日、この王子との婚約を告げられた日から、彼女はこの青年に会うこと切望していた。会って、質問を投げかけたかった。
制度とはいえ、一度は婚約を破棄された、前代未聞の『賢者』の王女と婚約を結ぶことをあなたは一体どう思っているのだ、と。
私のことをどう思っているのか、と。
……どう思って“いた”のか、と……。
「ジェフェライト様、あれほど安静にしていてくださいと申し上げたはずなのに! そのために、私はあんなに懸命になって、あなた様から追っ手を引き離したのです。それなのに……」
沈黙は、か細い声で振り払われた。ファラリスが二人の会話に割って入ったのである。
(……救われた……)
このまま黙っていたらジェフェライトは訝しく思っただろう。
ファラリスに初めて感謝した。
ファラリスの言葉は、語尾が微かに震えていた。それが彼女が精一杯表現した“怒り”と“心配”のようであり、それをジェフェライトも感じ取ったようだ。右肩を押さえていた手を離し、彼は手の平を少女へと向けると、いたずらを発見された子供が見せる微笑と共に言い返した。
「大丈夫、血は止まっています。――ほら」
促されるようにテスィカもジェフェライトの手の平を注視して、その後右肩へと目線を移したら……さすがに呆れた。
(……痛覚がないのか?)
赤黒く衣服を染めている肩口では、大きな裂傷がテスィカの視線を受け止める。
眉を顰《ひそ》めるのが普通だと言うほどの傷。笑いかけるなど、相当の胆力を必要とすることは明白だ。なのに、彼は少女を安心させようと、芝居じみた笑顔で振舞う。
彼らの関係が親密なのか、テスィカは知らない。だが、知っていたとしても理解などできない。
虚勢を張ることがどちらにとってもあらゆる判断を狂わせる要素でしかないと思っているからである。
テスィカとは違い、ファラリスは困ったように……だが、王子の配慮を受け止めた。
「……ご無理はなさらないでくださいね」
「ええ、大丈夫ですよ」
反故《ほ ご》にされることが目に見えている約束が交わされる。テスィカももう一度、呆れたように2人を見ることしかできなかった。
もとより自分は今の彼らとは関係がない人間だ。それがわかっているので、口を出そうとも思わない。
その視線にやっと気づいたジェフェライトが、痛みを堪えたままの笑みを今度はテスィカへ向けた。
「ファラリス嬢を救っていただいて感謝します」
「……成り行き上だ」
ぶっきらぼうに、テスィカは言い返す。
「では、成り行きに感謝いたします。あなたにこうして会えるなんて……思っても見ませんでした」
『剣技』の王子は、確か自分より3つ4つ上だったはず。
テスィカはジェフェライトを上から下まで観察する。彼はどちらかといえば童顔な部類に入るだろう。自分と同じくらい、下手すれば自分よりも年下に見える。
ジェフェライトは少年のような目をしていた。純粋で、まっすぐとテスィカへ眼差しを向けていた。このとき彼は、テスィカと同じく名前しか知らなかった――そして亡くなってしまっていたと思っていた――自分の婚約者を興味深く見ていたのである。
思い描いた人物像とどれほど差異があるのだろうか、それを頭の片隅で考えながら。
だが、テスィカは、現れた青年が自分を注視する理由など知らない。
何を言おうとしている?と首、を傾げて慎重に言葉を選びながら、テスィカは思いつくままジェフェライトに話し掛けた。
「何か勘違いしていないか、王子殿。私はもう、婚約者ではあるまい。我が一族は──滅びたのだ」
「滅びてなどいないでしょう……あなたがここにいるのだから」
……そのとおり。
同じ言葉を4年間毎日繰り返し、復讐を誓ってきた。
賢者を滅ぼした者──聖都の軍隊への復讐を。
聖都軍を統率していた、金髪蒼瞳の将軍を。
ファラリスやジェフェライトにわからないように拳を形作ってから、テスィカは低い声で告げる。
「そのとおりだが……あなたたちには関係ないことだ」
踵を返して立ち去ろうとしたテスィカを、
「待ってください!」
ジェフェライトが止める。
「私はあなたを探していたのです」
立ち止まって、テスィカはジェフェライトを顧みた。
「私は……我が一族は、『賢者』の一族に加勢します」
……なぜ?
テスィカはポツリと呟いてしまう。
なぜ、そんなことを決めたのだ?
「あなたと『剣技』とは、無関係なわけではありません」
なぜ、そんなことを言う?
婚約を成した一族への義理立てか?
あのときは、あの、城が燃え盛り誰もが救いの手を求めたあのときは何もしてくれなかったのに。
なぜだ?
なぜ、だ?
「……そんなもの、私はいらない」
吐きすてるように言い放つ。
「私は、1人で戦っていく。そんなものは、いらないんだ」
これは『賢者』の戦いだから。
何よりも、自分たちのために、犠牲が出るのは耐えられない。
無関係な者が流す血、そんなものは、もう、見たくない……。
「ですが、もう、遅いのです」
ジェフェライトは頭《かぶり》を振って、説くように言った。
「私たち『剣技』にも、反逆の嫌疑がかけられております」
「反逆の嫌疑……?」
「追われているのは、そのためです。この傷も……」
語尾が不意に途切れる。
今までのものが嘘であったかのような殺気と目線をジェフェライトが発した。
それは、テスィカも同じこと。
「ジェフェライト様?」
雰囲気が変わったことに何かを感じ取ったファラリスが尋ねると、ジェフェライトは無言で彼女の足元に転がっている剣を手にした。
「テスィリス殿……」
「王子よ、私の名はテスィリスではない。テスィカだ。……どうやらその傷を負わせた奴らが来たようだな……」
驚きで声が掠れる。
見知った気配だった。こんなところで、聖都以外で出会うべき気配ではないが──間違いはない。
(なるほど……『剣技』の王子を追うのに、こんな雑魚ではどうにもならないと最初からわかっていたのだな)
面倒なことに巻き込まれたくはなかったというのが1番の本音。
けれども、これは別の話だ。
(お前が来るのなら、自分から飛び込もう!)
戦乙女と言われた、金の将軍の片腕……ティヴィア。
お前と、そしてあの男が現れるなら!
「テスィリス殿!」
ジェフェライトとファラリスを放って、テスィカはいきなり走り出した。
敵意の感じる、その方角へと。
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