Deep Desire

【第1章】 全ての出会い、全ての始まり

<Vol.2 感情>

 女性と見紛うばかりの美貌の主は、椅子に腰掛け机上の書類に無感動な視線を送っている。その冷え切った目線に声をかけることを躊躇《ためら》ったティヴィアは、扉に手をかけたまま言葉を忘れて立ち尽くしていた。
「どうした?」
 書類にサインを入れるためにペンへ手を伸ばした青年の声が、さほど広くない執務室に響く。さらりと述べられたその台詞に彼なりの批判が込められているのを感じ取り、ティヴィアは、無意識に背筋を伸ばした。高く結った長い髪が、反動で一瞬だけ跳ねるように揺れる。
「し、失礼いたしました。ルキス様、あと数分で港湾都市レーレに到着いたします」
 女性にしては心持ち低い声が羞恥《しゅうち》心を打ち消すように早口で用件を告げる。
「思ったより早かったのだな。報告を受ける。こちらへ」
 答えるルキスの声音は、どこまでも落ち着きを払っていた。容貌を裏切らない艶然たる声。
 背丈とほどよくついた筋肉が、彼が男性であることを認識させる。詩人の語る英雄を絵に描いたような容姿、実力を持った者……それがルキス、であった。
「ティヴィア、報告は? ……彼らは見つかったのか?」
 いつの間にやら見とれていたティヴィアを正気づかせるため、ルキスが問う。
 目的の港湾都市レーレはすでに眼前。
 当然と言えば当然のその問いに、勝気なティヴィアは唇を噛みしめる。雪のように白い頬に赤味がさした。
「申し訳ございません。レーレから出てはいないと思いますが、未だに捕らえたという報告は……」
 悔しさからなのだろう、語尾が微かに掠《かす》れる。
 それを耳にして、ルキスは初めて書類から目線を外した。
 上目遣いに彼女を見つめ、手を止める。
 一瞬の視線の交差。
 だが、それに大した感慨も持たず、彼は軽く息をつくと目をそらした。再び書類に目を落とし、数秒後、今度は彼の位置から最も近いところにある窓へ目を向けた。
 ルキスは遠くにある、流れてゆく雲を眺め、何も言えないでいるティヴィアへ話しかける。
「恐縮することはない。お前のせいではあるまい。私の詰めが甘かったのが災いしたのだから」
 聞いたティヴィアは静かに拳を形作った。
 彼女は、そのような言葉をルキスに言わせてしまった自分を恥じていた。
 ルキスを敬い、従っているティヴィアにとって、恥じらいはすぐに己への怒りに向けられる。彼女は無言の怒りに拳を震わせ、足元に視線を落とすと、ただただじっとしているのだった。
 彼女の自責の念を空気で感じ取ってしまったルキスはというと、見なかったふりをして椅子からそっと立ち上がる。その足で、窓辺まで静かに歩いていった。
(純粋な想いは歯車を狂わせる──悪いけれど、私はお前の気持ちを受け取れない。受け取りたくない。慰めの言葉など、用意してないぞ、ティヴィア)
 胸中で呟き、彼は視界に広がる空の色よりももっと冷たい、湖底を思わせる青い双眸をすっと眇《すが》めた。
 窓の外を眺めると、雲は思ったほどはなかった。
 下方に広がる美しい景色、地上が彼の視界に飛び込んでくる。
 平原にまっすぐ伸びる街道。その先にある、大きな都市。そこがレーレ。
 行く先を視認すると、彼はいつまでも後悔に囚われている部下へ短い言葉を投げた。
「もうすぐレーレだ。飛船《ひせん》の強制着陸をレーレの街へ知らせてこい」
 お前の感情よりも、私が優先しなくてはいけないことはある。だから、お前に感《かま》けている暇などないのだよ。
 そんな響きを孕みつつ、彼はティヴィアに命令を出した。
 レーレの都市門《シティゲート》は刻々と近づいてきていたのだった。



 血飛沫が頬に飛ぶ。
 形のいい眉をひそめてから、彼女は漆黒の瞳で眼前の男が崩れ落ちる様を見ていた。
 崩れていくそれは、既に人という枠に入るようなものではなくなっていた。けれど、石畳の上で、震えに似た動きを見せる指先が、人間であったことを主張しているようにも見れる。
 その指先を、次いで、人間だった数個のパーツを全て眺めてから彼女――ティスカは乾いた唇を動かした。無様だな、と短く独り言を発したのだ。
 自分の正体を知っていた聖都の兵は1人残らず殺した。あと残っているのは……。
 少しだけ顔を傾けると、彼女は背後を盗み見る。
 背後から激しい嘔吐の音が聞こえてくる。青ざめて壁に寄りかかっていた少女が吐いているのだ。
(無理もないか……)
 嫌悪するどころか同情しながら、彼女は剣についた血を振り払う。
 ある程度の血を石畳に飛び散らせ、それから鞘に剣をしまった。
(聖都の人間はこのような惨劇など見ないだろうからな)
 白い肌、金の髪。剣を抱えた少女が聖都の人間であることは、その外見的特徴から火を見るより明らかだ。
 聖都とは、帝国ラリフの中心に位置する城のことである。城があるのみなので聖「都」と呼ぶのはおかしいが、そこには国を統べる“聖女”がいるため、ラリフの民はいつからか城を首都と呼ぶ代わりに、聖都、と呼んでいた。
 3つの部族が守る──今となっては『剣技』と『魔道』の2部族が守る──聖都は神聖なる場所であり、“聖女”の兵はこの城に常駐しているが、城の中で争いが起こったことはない。
 3つの部族がそれぞれ独自の髪・瞳の色を持つように、聖都にいる者は金色の髪と白い肌を持つ。瞳の色は統一されてはいないが、薄い青がほとんどだ。希少であるこの容貌が聖都の人間であることの証であり、言い換えれば、どんなに優秀であろうと、その特徴がなければ、ある程度の権力を有しない限り聖都に入ることは許されない。
 聖都はある特殊な人間にだけ許された聖域なのである。そこに常駐している軍の者は、選ばれたということに対して強烈な自尊心を抱いていた。同時に、選んでくれた“聖女”を心の底から慕っている。それらの感情が、城から無意味な争いを排除しているのだ。
 もちろん、それだけが理由ではない。未知なる力を持つと言われる魔女“聖女”は人の心を読むという言い伝えもある。不穏な気配を嗅ぎ取る可能性もあると言われ、何らかの企てをしているのが“聖女”に知られた瞬間に負うリスクを考えると、妙な考えなどもたない方が賢明だという答えが出せる。そのため、聖都の者は容易に人が争うところを見ない。争い自体がないのだから。そんな場所にいるのだ、人が死ぬところなど絶対に見ないはずである。
 人の死など見て楽しいものではないが、これは仕方がなかった、と彼女は自分に言い聞かせた。
 何よりも優先しなければいけなかったのは聖都の兵の口を封じること。
 少女に、兵に、積極的に関わろうとしたわけではない。結果として、関わってしまったのだ。彼女の持っていた剣のせいで……。
(そう、剣、だ)
 あの剣はもしかしたら……。
 小さく呟いて、テスィカは振り向いた。
 薄暗い路地で苦しそうに吐いていた少女が、涙目で自分に顔を向けたのは同時だった。目が、合う。
「どうして、そのような……」
 搾《しぼ》り出すような声に、彼女は静かに微笑んだ。
 優しさからではない。少し考えればわかることを「どうして」と聞いてくる少女に対する嘲りからの笑み、だ。
「『賢者』の民はおたずね者だからな。正体が知られてしまったのでは、不都合が生じる」
「だから、あのようなむごい殺し方を?」
「確実に息の根を止める方法を用いたまでだ。そんなことは、どうでもいい。あなたが抱えている剣……どうやって手に入れた?」
 少女の近くに落ちたままの剣に、2人の視線が向けられる。
 くるんでいた布を払いのけるようにして頭を出しているその剣の鞘は、焦げ茶色で、少し古いように見うけられる。
 一瞥して、改めて少女へ視線を移した直後である。
 少女が、テスィカの予想を越えた言葉を口にしたのは。
「やはりこの剣の正体を知っていらっしゃるのですね──『賢者』の王女、テスィリス様」
 息が、止まる。
 心臓が、止まる。
 それほどの衝撃がテスィカを襲った。
 沈黙を肯定と確認した少女は、悲しそうな表情で、言葉を続ける。
「私は“聖女”様の御使《みつか》い、ファラリスと申します」
「人違い、だろう。私の名はテスィカ……テスィリスではない」
 やっとのこと、そう言い返したのだが、テスィカの声は囁き程度の大きさだった。そのせいで、ファラリスは聞いていなかったようだ。
「テスィリス様のお噂は……」
 可憐な声で、彼女の名を言い換えることさえしない。彼女はそんなファラリスを注視した。
(“聖女”の御使い……)
 神聖な“聖女”様の身の回りの世話をする者。そして……3族、『剣技』『魔道』『賢者』が守るべき“聖女”の次期候補。
(御使い……疑いをかけて我ら一族を葬った“聖女”に近しい者!)
 先ほど鞘に収めたばかりの剣の柄にテスィカは触れた。
 ラリフ帝国の開闢《かいびゃく》以来、『賢者』は、一族独自の魔法と剣術をもって“聖女”を、ラリフを守ってきた。それが4年前のあの晩、覚えもない反逆の疑いをかけられて……。
 テスィカの脳裏に、炎の塊となって崩壊していく『賢者』の宙城《ちゅうじょう》が蘇る。憤り、悔しさ、そういったとは別の次元で感じてしまった、燃え盛る炎の美しさが脳内で再現され、網膜に幻想を送る。
 心が、締め付けられた。
 憎悪が、手元を震えさせた。
 剣を鞘から抜きされば、間違いなく少女に切りかかるだろう。だが、テスィカは上手く剣を握れずにいた。
 憎悪を上回るものが無意識に彼女の心に歯止めをかけていたのだ。
 彼女を止めているもの。それもまた、“聖女”という名……。
 『賢者』の王女として幼い頃より叩き込まれた、“聖女”への絶対忠誠の念が、感情よりも強く行動を制限しているのだ。
 漆黒の瞳に言いようのない感情が交差していく。
 どう行動していいのか戸惑っていた。
 どう行動すべきなのか答えを欲しがっていた。
(目の前にいるのに……“聖女”に関係する者がいるのに……)
 剣さえ満足に握れない。魔道の詠唱をしようにも言葉1つ浮かんでこない。
 あやふやな気持ちの迷路に迷い込んだテスィカは固まったように動かなくなった。その段になって彼女の変化にようやく気がついたファラリスが、蒼い瞳を翳《かげ》らせて、心配そうな声で尋ねてきたのだ。
 大丈夫ですか、どうしたのですか、と。
 純粋な気遣いが、不幸にも引き金になった。
「あなたが──あなたがそんなことを言うな!」
 テスィカが弾けた。
 ビクリと身体を震わせ、ファラリスが息を飲んだ気配を察知する。
 それでも、テスィカは感情が流れ出るのを止めなかった。
「私の大切なものを奪ったあなたが、そんなことを言うな! そんな憐れむ目で私を見るな!」
 彼女にはわかっていた。
 ファラリスが心からテスィカを心配しているのだろうということが。
 ファラリスの人となりからではない。
 次期“聖女”となる人間であるという認識から、彼女はファラリスが本気で心配してきているのを感じ取っていた。
 感じ取っていたが、吐き出され始めた感情を止める術はない。驚きに支配され、言葉が出てこないファラリスに一方的な言葉を投げつけるのは、一種の反動のようなもの。坂を転がり出した玉と同じ。
「あなたが私の一族を滅ぼした」
 違う。そうじゃない。
 この子は悪くない。この子のせいじゃない。
「炎に巻かれ、助けてくれと叫ぶ者を殺したのに!」
 八つ当たりだ。
 わかっている。わかっているのだが……テスィカには止められない言葉の数々。
 徐々にファラリスが青ざめていくのがわかる。唇を震わせて、何をどういえばいいのかわからずに、ファラリスは立ち尽くしていた。
 結局、テスィカの言葉をさえぎったのは――
「テスィリス殿、彼女は悪意を持っていっているのではありません。彼女の心の声なのです。そのようなことを言うと、彼女が傷つきます」
どこからともなく降って沸いた、若々しい青年の声だった。
 言葉の内容ではなく、不意を打たれことで、テスィカは止まった。
 ショックに打ちひしがれているファラリスの後方から歩いてくる人影が目に入る。
 それは最初、黒い人影だった。段々と近づくにつれ、顔の造形が、体つきが、はっきりとしてくる。
 右肩を抑え、左足を引きずるように歩いてきた青年は、声の調子に違《たが》うことない若さを持っていた。ファラリスと同じくらいの年格好だ。青年の出現はテスィカにとって突然ではあったが、驚くべきものではない。
 なぜなら、ファラリスの足元に落ちている剣の主がいつ現れても不思議ではないと思っていたからだ。これほどまでに早いのは予想外だったが。
「気をお静めください。テスィリス殿――私の婚約者殿」
 そう言ってから、彼はテスィカに微笑んだ。
 茶色の髪。そして、茶色の瞳。
 石畳の上に無造作に置かれたままの剣の持ち主、『剣技』の王子と、これが最初の出会いであった。


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