Deep Desire

【第1章】 全ての出会い、全ての始まり

<Vol.1 逃亡>

 海から吹き付けてくる風は、潮の香りを運んでくる。
 だが、今日は、人々の浮きだつ心も運んできているようだった。
 船の到着によって海の向こうの大陸から新たな荷がやってきたのだ。年に数回しかない市が開かれ、自然と活気がレーレの街全体を覆っていた。
 街の外と内を隔てる都市門《シティゲート》から港へ向かう街の大通りでは、中央に人が行き来するスペースを残し、道の左右で路傍商《ろぼうしょう》たちが競うように店を開いていた。貿易都市とも呼ばれるだけあって、彼らは様々な国の言葉を用い、休む間もなく客引きをしている。その路傍商たちの軽快でいて達者な口調と、興味深そうに足を止め、視線をあちこちへ向ける客たちの様子が、市をより一層盛り上げているのは言うまでもなかった。
 そういった、立ち止まって品を見る者たちの間を走り抜ける少女の姿が、路傍商たちの目を引いていた。
 必死の様で疾走していく少女は、この土地の者ではないことが明らかである。
 汚れた亜麻《あま》色のマントと腰の硬貨入れから一見して旅人だとわかる。が、格好ではなく、少女の容姿が、彼女を視線の的とさせていた。
 少女は、流れるように長い金の髪を振り乱して走っているが、その髪はまるで織物工芸に使う糸のようにそれはそれは細く長い。日の光に反射する煌《きらめ》きを見せるように、髪は彼女の背で踊るように揺れている。
 また、病的なほどに白い肌が、その金色の髪をより引き立たせていた。
「おいおい、ありゃあ、聖都《せいと》の人間じゃねぇか!」
 売り物の果実を手に取り、かじりついていた男が、誰ともなしに言ってきかせる。
 街の者や海の向こうからやってくる者は皆、照りつける太陽と潮風によりかさついた褐色の肌を持っていた。少女ほどの白い肌を今日のような船のついた日に街で見かけるのは、彼らにとっては珍しいことこの上ない。いや、このような日でなくても、見かけることなど滅多にないのだが……。
 男は果実を咀嚼《そしゃく》しながら、少女の姿を目で追っていく。視線はいつのまにか、東の方へと向いていた。
 少女の去っていった方角には、大きな都市門があり、そのさらに遥か彼方《かなた》上空――ゆっくりと流れていく雲の傍に城がある。
 城――大きくもなく小さくもない、岩の形をした水晶を土台とし、その上に立つ荘厳でいて雄大な、城。
 まるで宙に浮いているような不思議なその城を見つめ、男は呟く。
「あのお嬢ちゃんが聖都の人間なら、こりゃいいことあるかもしれねぇな」
 男は言い終わると、売り物である果実をもう一口かじりついた。
 太陽の光を受けながら白光を放っているその城は、彼らにとっては崇拝すべき“聖女”の居城であり、この国の中心。
 ある程度の階級の、決められた者しか入れない城。もちろんそこから、人が出てくることなど滅多にないため、聖都の者を見ることは大変に貴重なことであった。



(逃げなくちゃ……)
 満足にできない呼吸を繰り返し、重くなった足を必死で動かして、ファラリスは細い路地を疾走する。
 大通りでは目立ちすぎる。そう思い、路地に入ったのだが、それは間違っていたのかもしれないと彼女は思い始めていた。
 もともと、聖都からさほど出たことのない身である。街の路地がそれほどまでに複雑に入り組んでいると、彼女は知らなかったのだ。気づいたときには既に遅く、自分のいる位置がどこなのか、ある程度の見当しかつけられなかった。
 日の光さえ大して差し込んでこない薄暗い中を、彼女は追われる恐怖と焦燥《しょうそう》感に襲われつつ、勘だけを頼りに都市門《シティゲート》の方角へと走っていた。
(せめて……遠ざけなくては)
 半開きにした口からは、荒い息が漏れる。
 言葉として発することはできなかったが、その代わりに、ファラリスは剣を大事に抱えた。
 それを奪われるわけにはいかなかった。しかし、場合によっては、その剣と自分が『彼らに』捕まったとしても、剣の持ち主さえ無事ならば──。
(でも、できるならこの剣は……渡さない)
 胸中でそんな声を発し、彼女は幾つめかの四つ角を右に折れた。
 そして次の瞬間、急停止したのである。
 女性が1人、佇んでいた。背を丸めるように、下を向いて壁に寄りかかりながら。
 腕組みをし、俯《うつむ》いている姿では顔は判別しにくく、胸の膨らみでファラリスは性別を判断した。
(追っ手?)
 路地は人が1人やっと通れるほどの幅しかない。ファラリスは佇んでいる女性を凝視した。
 警戒心が全身を包み込む。彼女は、薄暗い中で目を凝らした。
 壁に寄りかかっている女性は、ゆっくりと彼女の方を向く。髪は赤茶色、肌はさほど白くない。
 追っ手ではない。多分。
 聖都の者は、自分のように金の髪と青白い肌を持っている。“聖女”と同じ、金の髪と白い肌。聖都は一部の権力者を除き、“聖女”に近しい者のみが入ることを許された城なのだ。守護する兵でさえ、金の髪と白い肌を持つ者に統一されている。
 ホッとして、ファラリスは肩の力を抜く。同時に、追ってならば悠長に自分を待ち伏せていたはずがないではないか、と気づく。
 彼らには時間がないのだ。――自分と同じで。
「申し訳ございません……そこを……通していただけませんか……」
 肩で息をしているため途切れ途切れにはなったものの、しっかりとした口調でファラリスは告げる。
 言葉が伝わったかを示すように、女性はさらに顔を上げた。と、引っ張って伸ばしても顎くらいまでしかないだろう短い赤茶の髪の下から、真っ赤な双眸《そうぼう》が射抜くような鋭さをもってファラリスを見つめてきた。
「……追われてるのか?」
 女性にしては、やや低めの声。
「場合によっては、通してもいいが」
 訛《なま》りのない、きれいな発音。
 その、流暢なしゃべり方をファラリスは怪訝《けげん》に思う。
 違和感があるのだ。外見としゃべり方とのギャップが、ある。
 それほどまでにきれいな帝国《ラリフ》語は、聖都に関係する地位あるものでなければ身につかない。目の前にいる女性のように、国の東部の出身を表す外見でありながら、そのような帝国語をしゃべるのは、誰が耳にしても違和感を持つことだろう。
 だが、今はそんなことを訝《いぶか》しんでいる間など、彼女にはない。
 ファラリスは剣を強く抱きしめて、祈るように長い瞬きをしてから、唇を動かした。
「……追われております。あなた様を巻き込みたくはありません。お通しください」
「慈悲深いことだな」
 褒めているというよりは、揶揄《やゆ》する響きがこめられているが、それに気づかぬふりをファラリスは装った。
 すると女性は、身体を起こし、壁から離れると一言告げる。
「……行けばいい」
 唾を飲み込んで、ファラリスは首を1つ縦に振った。
「感謝いたします。――あなたの頭上に“聖女”の加護がありますように」
「加護……期待しておこう」
 そっけない、笑いを含んだ言葉……場合によっては不敬にあたる。
 ファラリスは咎《とが》めるどころか、逆に緊張した。
 剣を抱える手の平が、じんわりと湿る。
 何かが違っていた。眼前にいる女性は何か、自分とは、街中で見かけた人とは、何か違っていた。
 彼女はわけのわからない緊張感を悟られないよう、ゆっくりと女性へ近づいていく。
 ファラリスが一歩一歩彼女に近づくたびに、抱えた剣が熱くなっていく気がしていたのだが、それは気のせいだと、彼女の心が言う。
 それは気のせいだ、急げ、早く、早く、早く――と。
 けれども、それが思い込みではないことが、すぐに判明した。
「……ちょっと、待て。……その剣は……」
 女性まであと2、3歩ほどの距離にきたとき、眉をひそめて、佇んでいた女性が言う。
 ──刹那のことだった。
「なっ……」
「きゃ……」
 2人の間で、空間が奇妙な音を立てた。
 捻じ曲げられ、不快な音を発する。
 相手の顔がぐにゃりと歪《ゆが》み、キーンという高音が耳の奥で反響する。
 その妙な感覚と音が、波紋のように頭の芯から体全体へと瞬時に伝わっていく。
「くっ!」
 女性の短い叫び声。
 何が起こっているのか、彼女を見ることもままならないファラリスは、身を引くようにして両耳を押さえた。
「いやっ……!」
 抱えていた剣が、地面へ落下する。
 倒れそうになり、ふらふらとしたが、幸いにも狭い路地である、彼女は壁にぐったりともたれかかっただけだった。
(……何、今のは……)
 唇が震えて言葉にならない。
 疑惑を心に広げていると、そのときになって、ファラリスは声を聞いたのだ。
「ここにいたのですか?」
 追っ手の声を。
 ファラリスは、重い身体を壁に預けたまま、ゆっくりと後ろを向く。
 3人ほど、男がこちらを見ている。
 服装が統一され、額には同じ紋章が刻まれていた。──聖都の兵だ。間違いない、今度は正真正銘の追っ手である。
「そんな……」
 ショックと悔しさで、小さく呟くと、3人の男のうちでいちばん体格のいい髭面男が言葉を続ける。
「逃げ足の早いことで……さあ、私たちと一緒に……」
「嫌っ……」
「聞き分けのよくない方だ。あなたがそんな風では、“聖女”様がお嘆きになります」
「“聖女”様は……」
 張りの無い声で、けれど必死に言い返そうとして、彼女は唐突に口を閉じた。
 眼前にいる男たちの様子が一変していたのだ。
 つい今の今まで、勝ち誇ったような表情で、余裕ばかりが目に付いた男たち。彼らが、目を大きく見開き、自分の方を向いていた。その顔には、獲物を追う方の傲慢な、優越感を感じさせる色はない。あるのは──追われる獲物が持つ、怯えの色。
 先頭の男が、掠《かす》れた声で呟いた。
「そんな……『賢者』……?」
 何を言っているのかわからない。
 そう判断したファラリスのすぐ後ろから、凛とした声が路地いっぱいに響く。
「……あなたのせいで魔法が解けた……余計なことを……」
 首を傾げるようにファラリスは見返る。そして、今までその存在を忘れていた、背後にいる女性見つめた。
 肩に届かないほど短い髪は──赤茶色ではない。瞳も、赤ではない。
 髪も瞳も漆黒だ。
(漆黒――そんな、だって漆黒は……)
 目を見張るファラリスを一瞥し、それから女性は男たちを睨みつける。
「……見られてしまったら仕方がない。死んでもらうしかないな」
 女性は、腰の剣に手をかけた。唇の端が微かに歪んでいる。
「なにせ私は、死人なのだから」
 ファラリスは絶句したまま、彼女を眺めやった。
(漆黒は……4年前に滅びたはずの、『賢者』の民!)
 時魔法にかけられたかのように誰一人動かないその場で、女性は静かに剣を鞘から抜いた。
 磨きぬかれた白刃が、闇の中で鈍い光を放つ。
 ファラリスは自分の腕で自分の肩を、強く抱きしめたのだった。


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