花は、花

 時間場所状況
 そのすべてにおいて意外性を認識したからか?
 誰も居ないと思い込んでいた喫煙コーナー、そこに見出した人影が誰だかわかった途端に佐伯は口を開いていた。飛び出した言葉は型どおりの挨拶ではなく、驚嘆交じりの疑問。
「剛原っ、お前っ、なんでここに?」
 昼間はそれなりに猥雑な場所だが今は時間が時間だからだろう、佐伯の発した声は低く唸る自販機の音を打ち消して廊下に反響した。それが収まる頃合を待ち、声をかけられた当人――剛原が呆れた様子で返答した。
「……そりゃあ、ここ以外が全社禁煙だからに決まってる」
 俺が訊きたいのはそんな答えじゃない。
 胸中でひとりごちて、佐伯は軽くため息をつく。はぐらかされたかどうかはわからない。だが、どうやら思うとおりの会話をしたければ順序良く話を運ぶ必要があるらしい。
 自分も営業らしくないと言われるがこいつ程じゃない……顔を合わせるたびに生じる感想を今夜も抱き、佐伯は剛原の向かいのソファに腰掛けてから再び口を開いた。
 ヒントすらもらっていない疑問の答え、それを知るために。
本社こっちに来るなんて珍しいじゃないか」
「この辺まで来る用事があったんでね」
「……客先への挨拶回りの帰り道、か」
「ご名答。カレンダー配りしてきたところ」
「それにしたって随分と遅い時間だな。そのまま真っ直ぐ帰りゃ良かったのに」
「今朝までそのつもりだったんださ」
「じゃ、なんで?」
「昼過ぎに呼び出し受けたんだ。高柳に」
「……高柳に?」
 ケースから煙草を取り出そうとしていた佐伯の手が、一瞬、止まる。
 高柳。
 一時は毎日のように口にしていた、今ではほとんど口にしない、苦い思い出を呼び起こす名前。
 自分と同じく剛原にとってもその名は「同期」に当たる。共通項である限り、会話に飛び出してきても別段不思議なことはない。相手がゴシップ嫌いの剛原となれば発言の裏にはどんな類の勘ぐりも存在していないだろう。佐伯は指に挟んだ煙草を口にくわえると、危うく動揺が掘りかけた墓穴を大慌てで埋め戻すように、ようやく思い出したといった口調で話を継いだ。
「あぁ、彼女、来年の夏には結婚するんだよな。呼び出されたのって……」
「入れ違いになったから直接は聞いてないけど、たぶん、その話」
 短く刈り上げた襟足部分を手でガシガシかきながら、剛原がぼやく。
「呼び出した本人がいないんだもんなぁ……」
「……高柳どころか、営業はほとんどいないぞ」
「さっき聞いた。忘年会だって?」
 耳聡いなと言う代わりに佐伯は首を縦に振った。
 ――今日は近くの飲み屋で本社営業部全体の忘年会が行われている。社長に専務や常務、監査役まで参加する大規模な酒宴だ。営業部内はどこの課でも「社外秘」の朱印が押された出席厳命の通達が流されていた。佐伯のように通達に逆らっている者ももちろんいるが、反旗を翻し損ねた人数に比べれば圧倒的に少ない。
「ま、こっちからの用事はないから別にいいけど」
 無駄足を踏んだことなど気にかけぬ口ぶりで表し、剛原は小指サイズになった煙草を卓上の灰皿に押し付ける。
 それから、その灰皿の横に置かれた緑と白のパッケージから新たに一本取り出して、すぐさま火をつけた。
 一連の動作には、相変わらず隙というか無駄がない。女性社員たちが飽きもせず毎度「かっこいい」と誉める動作だ。久しぶりに目にしたからか、今日は佐伯にもそれがやけに洗練されたものに映った。
 ただし、最初の頃――まだお互いを「さん」付けで呼んでいたあの頃は「なんて気取った奴だ」と殊更忌み嫌っていた。ちょっとした動きでしかないのに、こいつとは馬が合わないはずだという根拠のない確信につなげてもいた。
 評価が変わったのは「男らしい」という形容がこの上もなく似合う飲みっぷりを何度となく目撃し、トイレで背中を擦ったり擦られたりを繰り返すうちに相手の性格を理解し、すべては自分の一方的な思い込みだったと気づいたからだ。以来、剛原が支社に異動するまで込み入った話こそしなかったものの、どうでもいい世間話から仕事での不満に至るまで気がつけばよく朝まで語らいあったものだった。――今では何もかもが古い話になってしまったが。
「本社は元気でいいな」
「ただ元気なだけならいいんだけどな。それより……」
 佐伯は壁の時計を一瞥して、財布の中身に頓着せず切り出してみた。
「お前に用事がないなら、どうだ、これから飲みに行かないか?」
「これから?」
 やや顔をしかめ、剛原が口を噤む。考え込むときの癖――まるで指の腹でヒゲの剃り跡でも確かめるようにアゴから頬を撫でる仕草――を見せながら。
 沈黙は、さほど長いものにはならなかった。
「……飲むとしたら終電か始発までだからな。生憎、この辺からうちまでタクシーで帰れるほど金持ちじゃない」
 まだまだ長い煙草を揉み消して立ち上がる剛原にならい、佐伯も丹念に火を消して腰を上げる。
 不意に、苦笑が漏れた。
 どうということもないやりとりに懐かしさを覚えたというのが、苦笑した理由の半分。断られるなんて億尾にも思わなかった自分に気づいたこと、それが残りの半分。
「同期でも一、二を争う出世頭・剛原さんが何を言うかと思えば……ボーナス、相当出たんだろう?」
「本社きっての稼ぎ頭・佐伯さんほどじゃない。そっちこそ、『タクシー代くらいおごってやる』とか言えないのか?」
「冗談。口が裂けても言わないね。そんなこと言うくらいなら、うちに来いって言うさ」
「で、いつぞやみたいに玄関先で待っているお前の恋人に睨まれろって?」
「ひとの人生の汚点をいつまでも覚えてるな。安心しろ、今の俺に恋人なんて気の利いたものはいない」
「だと思ったよ。ネクタイのセンス、悪くなってるからな」
 傍らに置いていたコートを羽織り、手早く身支度を整えながら剛原が言う。
 煙草と財布しか持ち合わせていない佐伯は、人のことを言えるのかよ、と毒づいてエレベーターへ向かった。自分のフロアにコートを取りに戻る必要があるからだ。
 点灯している数字が「8」から下がってくる様を仰ぎ見つつ、彼は空いていそうな、それでいて本社の営業部連中と顔を合わせない店を検討しはじめた。――靴音と共に背後からやってきた声に遮られるまで。
「佐伯、お前、なんで結婚しない?」
 出し抜けの質問。
 そのストレートさに佐伯は振り向いたまま固まる。
 尋ねた方はというと、顔色一つ変えずに佐伯の横を通り過ぎていく。ちょうどエレベーターが着き、扉が開いたところだった。
 まさか……知っているのか?
 ありえないと言い切る自分に従い、内心の驚愕を押し隠して佐伯もエレベーターに乗る。平静を装ったが、口を衝いて出てきた台詞の気忙しさが演技力のなさを物語っていた。
「なんで結婚しないって言われてもな……そういう縁がないからだ」
「秘書室の美女とはまだ付き合うまで行ってないのか?」
「……その話、誰から?」
「一緒にフレンチ・レストランで食事をしてた姿を目撃した某同期から」
 余計なことを言ってくれる。
 内心で舌打ちし、佐伯は「ただの噂だ」と一言で片付けようとした。それを寸でのところで言い留まったのは、話の矛先を変える別の方法に思い至ったため。
「そっちこそ、なんで結婚しないんだ? 浮いた話一つ聞かないぞ、心に決めた相手がいるとか?」
「いちゃ悪いか?」
 適当に投げた言葉が的を射てしまうと後が困る。
 どう続けるべきかわからないまま視線を向けると、至極真面目な表情の剛原がちらっと笑った。
「……いちゃ悪いか?」
 柔らかいチャイム音と時を同じくしてエレベーターが停止する。
 開いた扉の向こうは社員通用口に通じる地下フロア――自分が下りる階のボタンを押し忘れたことに気づきながらも、佐伯は剛原の後を追ってエレベーターから下りた。
 話の続きを……今を逃すと聞けそうもない話の続きを聞きたくて。
「……剛原、お前の好きな相手って俺の知っている奴か?」
「知ってる相手だな」
 ロングコートのポケットに両手を突っ込んで、彼の同期はもったいぶらずに答える。緊張感を唾と一緒に飲み込んでから、佐伯は最も気になる部分を突いた。
「……俺たちの同期か?」
「同期……」
 深刻そうな呟きで鸚鵡オウムのように繰り返した剛原だったが、一拍後には辺りをはばからぬ声で笑い出した。
「二人揃って知っている相手ってのは同期しかいないのか?」
「いや、そういうつもりで聞いたんじゃない……さっき高柳の結婚話をしてただろう、だから、つい」
 佐伯は幾つかの予想が外れたことに深く安堵する。しかし、直後に投下された剛原の爆弾発言に目を丸くした。
「同期じゃなくてお前の上司――裕美さんに懸想している最中」
「……木嶋部長」
「そ、だから今日も他の用事にかこつけてわざわざここに来たわけだ」
 衝撃的な告白に引っ張られ、佐伯の頭の中に数時間前まで一緒に外回りをしていた上司の姿がよみがえった。
 驚くほど頭の切れる、温厚で人当たりの良い、バツイチで既に成人している息子ありの、木嶋部長。社の内外問わずに人気のある上司だが、剛原が想っていたとは本人の口から聞くまで想像すらしなかった。
「……似合わない、とか思ったんだろう? 他人の目ばっかり気にするお前のことだから」
 違う。
 否定しようとした佐伯に先んじて、剛原がしゃべり出す。
「秘書室の才女は常務の姪っこなんだってな。お前、『付き合えばいいのに』って言われて『高嶺の花だから』って答えたそうじゃないか。周りを気にするお前らしい台詞だな」
 誰から聞いたと尋ねることもなく、佐伯は大きく息をつく。
 リークした相手の見当はついたけれども、今は犯人などどうでも良かった。
 今、気にかけるべきどころは別にあるのだ。
「……俺はおかしなことを言ったつもりはない」
「本気で『高嶺の花』とか言ったのか?」
「悪いか?」
「別に。悪いとは思わないけど……良いとも思えないな。昔のお前らしくない」
 何もわかっていないくせに。
 真っ正直な本音が口から出かかり、それを佐伯は止めた。堰を切ったら最後、言わなくてもいい本音まで飛び出しかねなかったから。
 同僚という間柄でみっともない部分をさらけ出したくはない。
 特に剛原には見せたくはないという気持ちが強い。対等でありたい、そう思っているからだろう――酔って吐くのとはまた違うのだ、弱さを見せるというのは。
「今と昔じゃ違う。色々と、な」
 考えた末に出てきたのはそんな台詞だった。適当に折り合いをつけるときの都合の良い台詞。
 剛原は佐伯の複雑な心中を見透かしたのか。
 わずかに考え込んでから、珍しく説くような優しい口調で言う。
「……そりゃあ、若い頃と今とじゃ違う。こうむる痛手を考えればお気軽に恋愛なんてできない。でもな、何らかの理由をつけて及び腰になったら手に入るものも入らなくなる」
「言ってることはわかる。わかるけど、そう簡単な話でもないだろう」
「それは思い込みだ。これは簡単な話だよ。高嶺だろうが何だろうが花は花、摘めないもんでもないだろう? ――欲しいならば諦めずまずは手を伸ばせ」
 優秀な営業としての顔を覗かせた剛原が、目で、告げる。
 動く前から諦めるな。
 諦めたら何も始まらない。何ひとつ始まらない。
 飲むたびに議論し、議論のたびに言っていた言葉だ――剛原ではなく佐伯が。
 視線だけが交錯し、しばし沈黙が続いた。
 その間に剛原はポケットから煙草を取り出し、その場が禁煙と気づき、苦笑してケースを元に戻す。そして、黙り込んだ佐伯に妙な提案をした。
「賭けでもするか、佐伯」
「……賭け?」
「いや、賭けというより競争だな。どっちが先に結婚するか、だ。負けた方は負けが確定した時点で祝福の意味を込めて一杯おごる。どこで飲んでいようが、家までのタクシー代も込みでおごるんだ」
「勝算でもあるのか?」
「ない」
 きっぱりはっきり断言した剛原が、勝算はないが、と続ける。
「二の足踏んでるお前と、独身、ってだけで一括ひとくくりにされるのは納得がいかない。それに……仕事でも酒量でもお前には負けたくないんでね」
 下らない話だと却下していた佐伯を衝き動かしたのは、後になって思い返してみれば、剛原の「負けたくない」という一言だったのかもしれない。
 昔のお前らしくない……そう言われた瞬間、佐伯は本気でカチンときたのだ。剛原の「自分はお前と違う、昔と同じだ」と言いたげな話しぶりに憤った。
 ――くすぶっていた。足踏みをしていた。変化する周囲に嫉妬していた。取り残されていた。
 そんな状況にいるのはお前も同じだろうと反論したかった。
 だが、実際には剛原は違った。
 佐伯が言わなくなった言葉を今でもはっきり言えたのだ――お前には負けたくないと、臆面もなく。
(……乗ってみる、か)
 過去の自分には戻れない。恋愛の痛手を被った時代に戻りたくはない。
 ただ、今のままでいいとも思えない。
 ならば、賭けてみようかと思う。
 朝まで語らいあった頃、馬鹿みたいに口にした「可能性」とやらに。無謀な正面突破に挑む剛原を不戦勝などさせたくはないから。
「引き分けだったときはどうする?」
 受けて立つという返事に代わって、佐伯は話を詰める。
 剛原は天井を見上げて、黙考の末にゆるく首を横に振った。
「それはこれから行く飲み屋で決めよう。立ち話もいい加減にして取って来い、コートと鞄」
 頷いて佐伯はきびすを返す。
 そして、エレベーターに乗り込んだところで意を決して剛原に言った。
「剛原、そのまま待ってろよ」
 煙草が吸いたくて仕方ないのか、剛原が肩をすくめてから言い返してきた。
「あんまり待たせるなよ」
「わかってる」
 語尾は閉まる扉にかき消された。
 小さな箱がゆっくりと上昇を始める、その気配に合わせて彼は静かに笑い始める。
 久しぶりの、身体が震えるようなこの高揚感。
「手を伸ばすからはこっちも本気で摘み取りに行くからな……覚悟しとけよ」
 もう、決めた。
 決めたからには迷わない。
 時間場所状況
 そのすべてにおいて、向こう見ずな程に、まずは届くように手を伸ばすことから始めようと心に決する。
 佐伯にとって、勝算は無いに等しい。
 これはおそらく今までで一番手強い賭けあいてになるが……それでも彼は負けるつもりなど、負けてやるつもりなど、これっぽっちもなかった。

 いつまで経っても昔のまま、彼女ごうはらの鈍さが難点といえば難点だが――それでも、そう、花は花。
Copyright 2006 Akira Hotaka All rights reserved.

ヒトコト感想フォーム
ご感想をひとことどうぞ。作者にメールで送られます。

ヒトコト

この作品は覆面作家企画への参加作品です(一部改稿)

-Powered by HTML DWARF-