かまいたちの饗宴

≪4≫見えない『理由』

(4)

 肩を叩かれ、過剰なほどにビクリとした。
 だが、もっと驚いたのは、当の榊よりも、榊の反応を見た方である。
「ごめん、驚かせるつもりはなかったんだけど……」
 気遣うように言いながら、榊の瞳を覗き込んできたのは同じクラスの女子──鳥居だ。
 心配りのできる、誰にでも親切な彼女は、クラスのまとめ役であった。体調不良で先日の語学を休んだ榊のことを心配しているようである。
 鳥居は、榊が自分から話す数少ない女性でもあった。どこかの国の血が4分の1だけ混ざっているとかで、そのせいか、他の女子とは雰囲気が違った。
  が、榊が彼女に目が行くのは、内面から輝くような美しさが新鮮に映るからだ。今まで会ってきた、どんな外見美人よりも、そして自分よりもきれいな人だと、彼は鳥居のことを思っていた。
「いや、こっちこそ、逆に驚かせたみたいで、悪い」
「うんうん、いいんだけど……大丈夫? 顔色、悪いよ」
 コピー用紙の束を渡しながら、鳥居は榊をまじまじと見ていた。
「気にしないで。それより、悪いね鳥居さん。コピー代幾ら?」
「いらないよ、そんなかかってないから。感謝してるなら、次のミニテスト頑張ろうね」
 笑顔を向けられ、笑顔を返す。
 ぎこちなさに自分でも気がつき、榊はすぐに顔をそむけた。
 笑ってないのに笑うふりをした自分――騙している気がしてならない。
 彼女はああ言っていたが、榊は気分が悪いわけではない。そう見えたのは、先ほどから深刻に考え事をしていたせいなのだろう。
 考えていたのは、今朝の正守との諍《いさか》いだった。
 正守と言い合ったことはある。だが、あそこまで険悪な言い争いは今回が初めてだった。
 奇妙な話になるが、榊と正守は互いに相手を信用しないという約束を交わしていた。出会った日に。言い出したのは榊だった。
 須賀の死が堪えていることを正守に打ち明け、だから自分は今、誰かを信じるなんてことはできないと言ったのがきっかけだった。
 正守には語っていないが、正守の中に眠る<白虎>は、<青竜>の持つトラウマを知っている。
 一族の者が傍にいると誓った後に<東夷>に裏切ったこと、その前後の出来事で<青竜>が疑心暗鬼に陥ったこと、その事実は四聖獣なら誰でも知っていた。
 また、そのとき負ったトラウマが相当に深く、今生で榊が“自分を残して死んだ”者に裏切りの烙印を押していることを正守は感じ取っていたらしい。『人を信じさせる』という行為を無理強いさせることなど不可能だと判断したようで、正守は「仲間同士でも信用しない」というルールを敷いた。
 もっと正確には、互いに相手を信用せずに動くということで、それは自分勝手に行動することを示すのではなく、相手が何かをしているとき、相手の言ったことだけを鵜呑みにしないで自分で相手を見て推察する、つまり“探る”ということだった。
 正直に言うと、その提案は榊にとってありがたいものだった。あの頃、正守と出会った頃、他人を信用できなかった彼にとって、信じられるのは自分自身だけだったから。
 かくして、彼らは相手を信用しないという前提で行動を共にした。
 それがいつからか変わっていたのだろう。
(そうでなければ、あんなに憤ったりはしなかったはずだ……)
 そうなのだ、自分は正守を既に信用しているのだ。彼の言葉を信じ、彼を頼っているのだ……。
 何度となく、正守の真意を探るために目線を対峙させたことがあった。目を見て、正守の考えを読もうとしていた。それを今ではしなくなっている。発せられる言葉を待っているようになっている……。
 だから、なのだ。正守の去り際、探るように向けられた目に戸惑いと嫌悪を覚えていたのは。
 いつからだろう。
 元のように、寄りかかってしまう人間に戻ってしまったのは……。
「宮前くん、本当に大丈夫なの?」
 我に返り、顔を上げると榊の目には反応に困っている鳥居が映った。
「ねぇ、気持ち悪いなら吐き出しちゃったら? 楽になるし……」
「鳥居さん……」
 榊は、言いかけた言葉を飲み込んで、彼女に弱々しく笑んだ。
(できるならば、そうしたいよ……)
 内に秘めたこの苦しみを──幾重《いくえ》にも重なり、自分を押しつぶそうとするこの苦しみを、吐き出せる相手がどこかに存在するなら。
「ちょっと、休んでくる」
 独り言のように言って、榊は席を立つ。
 そして、ポケットに手を突っ込むと、煙草を手に取った。
 しかし、瞳にかぶさる漆黒の髪の向こう側で、取り出した煙草のソフトケースが、ぐにゃりと潰れる様を見る。空だ。充実感どころか、精神の安定も快楽さえも与えてくれない……。
 教室を出た瞬間に、倒れるように壁に手をつき寄りかかる。
「くそ……」
 信じてはいけない。
 信じてはいけない。
 裏切られるのはお前自身だ。
 <青竜>の言葉が渦を巻く。
「イライラする……」
 心の中で何かが傾く音が響く。
 それを無視して、榊は壁に全身を預けたまま、その場にゆっくり崩れていく。
 彼の眼前、開かれた向かいの教室の黒板が視界に飛び込んでくる。黒板を埋めるように乱雑に書きなぐられたたくさんの文字たちは、彼の心と同様、1つの意味を見出すことが容易ではなさそうだった。

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