瞳を開くと、そこには壁に寄りかかりながらこちらを見ている長躯《ちょうく》の青年の姿があった。
緩く髪を1つに束ね、腕を組んで彼は自分を見ている。無表情なようでいて、どこか心配しているような視線に<春夢>は微笑みかけた。今まで身にまとっていた緊張が嘘のように紐解けていく。
「すみません、時間がかかりまして」
「戻ってこなくなるかと思ったよ」
「危うく、そうなりかけました」
大きく息を吐いて、<春夢>は<東夷《とうい》>から視線を外す。そして、眼鏡を取って傍らのテーブルの上に置いてから、額の汗をポケットから取り出したハンカチで拭った。椅子がギシリと重い音を発し、その音で彼はようやく自分が腰掛けていたことをはっきり思い出した。
「報告を聞こうか」
<東夷>は、<春夢>の様子を眺めながら言う。
にこりと<春夢>が頷いた。
「<朧滴>ですが、私の一存で彼の家に強制送還させました。さすがに他人を空間移動させるのは辛いですね。2度とやりたくないことです」
「結局、何をしにいってたんだ、あいつは」
「彼はちょっかいを出しにいっただけらしいのですが……<朱雀《すざく》>と一触触発状態でした」
「一戦交えようとしていたのか……それで、強制送還か。お前は怖いな」
<東夷>は腕組みを解き、<春夢>から一定の距離を保ったまま話の続きを促す。
「ええ。<朱雀>については<蒼睡《そうすい》>との盟約もございますし、それに……避けられる戦闘は避けるべきかと思いましたので」
「つくづくお前は平和主義者だ」
感心したように、<東夷>が言う。だが、と彼は続けた。
「無血で成就する願いなど、高が知れているぞ」
言外に甘さを指摘する厳しさが感じられた。
顔を上げて、彼は真っ直ぐに<東夷>を見つめる。相変わらず無表情ではあるが、その切れ長の目元が幾分か険しい気がして、<春夢>は目を細めた。
「わかっております。否、この<春夢>、わかっているつもりです」
否定の言葉を汲んだときの強き語調は、<東夷>への意思表示の表れか。
それとも、自らを戒め説く意味合いを持っているのか。
<東夷>の唇が、しばらくの沈黙を待ってから動き出す。
「それでも、なのか?」――確かめるように。
「いえ。──それだからこそ、なのです」
「……お前のその高邁《こうまい》な理念には頭が下がる思いだ。賛同はしかねるが」
「私は……」
言いかけて、<春夢>は、いったん口を閉ざした。
俯いて、両手を膝の上で組み合わせ、指に力を入れながら、じっと何かを考えている。男の割には華奢な肩が、わずかではあるが震えていた。
「私は……あなたにそう言いつつも、戦いに身を落としている身です。偉そうなことなど言える身ではありません。理想主義者《アイデアリスト》も実情が伴わなければ詭弁家《サフィスト》でしかない。本当は、他の誰でもなく私こそが……最も愚劣な人間なのかもしれませんね……」
うなだれたままの<春夢>の笑みに、<東夷>は小さく呟いた。
「違うさ」
そして、<春夢>の方に歩いてくると、その震える肩に手を置いて、自嘲している様を見ないふりを<東夷>は装う。
「お前は愚劣な人間なんかじゃない。お前は……優しすぎるんだ、全てに対して」
顔を上げて、眼鏡を外したまま彼は<東夷>を注視した。
わかっている。全てを愛することなど不可能なのだと。
中途半端な優しさが、結局のところ戦いを呼ぶ。
わかっているけれど、どうにもならない。
戦いを否定するしながら戦うこの身を。
平和を願うために戦いを起こすこの身を……。
ゆっくりと時間がすぎて、どちらからともなくため息が漏れた。
「<皇帝>さえ見つけ出せれば……」
<東夷>が肩から手を離し、ベランダへと歩いていく。
「この国のどこかにいる<皇帝>さえ見つけ出せれば……我々の葛藤も、矛盾も、解消されるのにな」
「<東夷>様……」
「見つけ出せさえすれば、それぞれに想うものを護れるのに、な」
主君<東夷>の背中を見つめ、<春夢>は言葉に静かに頷いた。
そのときになって、気が付いたのである。
<朱雀>に伝えるべきだった言葉を。自分たちの真実の言葉を。
(なぜ戦うのかとあなたはおっしゃいましたね……それは、護るためなんです)
争うためのものではなくて。
大切なものを、護るための、力。
(私たちにとっては、護るための戦いなのです)
伝わるように、彼は心で強く言った。
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