大学の構内にあるカフェ・テリアは、平日にしては意外と混みあっている。
日が当たる数少ない2人用テーブル。そのうちの1つで、正守は通り過ぎる人々を眺めていた。
固めた前髪はジェルがすっかり落ちきって、中途半端な“すだれ”のようになっている。それは彼の疲労の度合いを色濃く反映しているようだった。その“すだれ”のような前髪の下から覗く鳶《とび》色の瞳が追うのは、黒髪の、少し華奢な男の姿。
――誰かを探している。
彼の様子を見れば、それは一目瞭然だった。
テーブルの上にはコピー用紙が散乱しており、猫の額ほどのスペースに正守の飲みかけのコーヒーカップが置いてある。だが、中はすっかり冷めてしまっているようだ。表面にはミルクの幕が薄っすらと張ってしまっていた。
「あ、神楽坂さん」
店に入ってきた1人のワンレン女性が、正守の姿を見つけて、慌てて駆け寄ってきた。声を聞いて正守は視線だけを女性に向けたが、無表情のままである。ほんの一瞬だけ、眉がピクリを動いたのを除けば。
「お久しぶりです。榊くん目当てなんですか?」
「まぁ、ね」
「今日、榊くん、語学の授業休んでましたよ。学校来てないんじゃないかな……」
女性は許しを請わずに正守の向かいの席に座る。その態度がひどく癪《しゃく》にさわり、彼はテーブルの上のコピー用紙を片付け始めた。
探していた榊がいないとわかった今、ここにいる理由はない。そして、この不躾な女の相手をする必要もない。
彼は手早く用紙を整理し、席を立つ準備をする。が、邪魔するように女性が自分の前にあった紙を手に取ると、それを人質のようにヒラヒラさせつつ、正守に話し掛けてきた。
「院のお勉強ですか?」
正守は頷く。だが、表情は変えない。内心はともかくとして。
彼は、彼女の前から一刻も早く立ち去りたくて仕方がなかった。
(嫌なものだ、気の合わない女と一緒にいるというのは)
特に、彼女のような無神経な女性は許しがたい。空間を共有するだけで、ブラックのコーヒーのように、黒く淀《よど》んだ気を抱かせて、苦味が後まで尾を引かせる。
「それより、神楽坂さん、どっか出かけませんか?」
そんな正守の気持ちはまるで通じていないのだろう。
女性は明らかに媚《こ》びた目で、正守を誘ってきた。視線が彼女の要望を顕著なほどに示している。それが、正守の機嫌をさらに急降下させる。
「君にも授業があるだろう?」
「どうせ教養科目ですし」
「教養? ……じゃあ、なおさら出たほうがいい」
誘いを軽く一蹴すると、彼は女性から用紙を取り上げ、立ち上がった。
(最悪な1日になったな)
舌打ちせざるをえない。
正守は彼女と1度だけ関係を持った。それが彼女には「自分は特別だ」との認識でも与えてしまったらしい。
打算があったから、抱いただけなのに――。
あれは、榊が大学に入りたての頃の話だ。正守は、さきほどの女が榊と一緒に学食にいるところを数回目撃した。榊にその気はなかったようだが、女のほうは榊を落とそうと思っていたらしい。
それがわかると、正守は女の興味を自分の方へと向けた。
女は、普通の、どこにでもいるような女だった。
少しだけ見目がよく、男に財力と外見を求める女だった。
そんなつまらない女、掃いて捨てるほどいる女を自分へ引き寄せたのか――正守には自分でもよくわからなかった。
ただ、自分の行動に後悔などしてはいなかった。だから、あんな女など、忘れていた。
(俺は、どうしたいのか……)
昔から、おもちゃのように女性を拾っては捨て、また拾い出す。そんなことの繰り返し。
何かに自分が固執していることを彼は知っていた。
固執しているものが何なのかがわからないのだけで。
(いや、違う。……どうしたいわけでもないんだ、きっと……)
繰り返される行為に明確な目的など本当はなく、ただ単に、喉が渇いたから潤すものを求めている、そんな本能のなせる業なのかもしれない。
自分にも固執できるものがあるのだと信じたいだけなのかもしれない。
ふと、彼は笑んだ。自分がみじめな気がしたから。
「やはり、今日は最悪な1日だな……」
呟いて、ポケットから車のキーを取り出す。よほど考え込んでいたのか、もう駐車場の入り口に来ていた。
後期日程が始まってすぐということで、大学にはかなりの学生が来ているらしい。駐車場の残りスペースはわずかだった。どこに止めたかを思い出しながら車を探していた正守は、赤いオープンカーを目にしてやっと思い出す。思い出して……乗ってきた張本人だというのに、苦笑してしまった。
先日、榊と車の話になったときのことだ。正守が数台の車を所持していることに榊は驚いた。
「お前、何車持ってんの?」
「どうして? 気になるか?」
「気になんないけどさ……1台でいいじゃん、車なんて。あって2台だろ?」
「足りないだろう、1台じゃ」
「なんで」
「用途に応じて使い分けるから」
「……女を口説くため、か?」
「いや。時間帯に応じて、女を口説くため、さ」
そう言うと、呆れたような顔をしたので、今度大学に迎えに行くときは真っ赤なオープンカーで行ってやると言ったら、榊はますます呆れた顔をしていた。
そんないきさつがあって、ほんのいたずら心でその車に乗ってきたのだった。
が、待ちくたびれて、その後、嫌な女に会ったものだからすっかりと忘れていたが。
(榊にはどうやらふられたみたいだな)
まるで、愛しい人を迎えに来たのに冷たくあしらわれた男のようだ。この自分を、そんな風にあしらった女など未だかつて会ったことがないが、例えるとしたらそれしかない。
(じゃあ、その愛しいお姫様を迎えに行くとするか)
どうせ家で寝ているに違いないと決めつけ、笑いを噛み殺すと正守は車の方へ歩き出す。
ふと、こちらを見ている人物がいることに気が付いた。
瞬きを繰り返してその人物を見る。どうやら自分に向かって歩いてきているようだ。
「何か……」
「はじめまして」
正守は目を細めて女性を見た。
清楚と形容するのがぴったりな感じの女性である。話し方も振舞いも、上品さを感じた。
学生ではなさそうだ。薄いブルーのスーツ――どこかの会社の受付嬢? それにしては品がいい。社長秘書とでもいったところか。
気になったのは、彼女の美しさであった。
それはどう見ても、おかしかった。自分たちと同じ種類の美貌……人ではない、妖艶さ。
「どこかでお会いしたことがありますか……」
緊迫感がこみ上げてくる。
彼の中に存在している<白虎>が吠え立てた。敵、と。
「面白い方……私を誘っておいでかしら?」
女性は、微笑んで返す。敵意のかけらもない。
もちろん、そんな意図などなかった。口説くつもりなど正守はなかった。
けれども、予期していたのとは違う返答に、正守はなんとなく「ええ」と答える。<白虎>の主張を押さえ込んで。
風に乗って、香水の香りが鼻腔をくすぐる。
心地よかった。
この、見えない駆け引きが。
「東条かぐやと申します。あなたは……西のお方? それとも、北のお方かしら?」
その言葉が意味するものは、かぐやと名乗る彼女が正守の敵であること。それでいて、正守が誰なのか完全に掴んではいない、ということも表す。
(敵だとわかっていたのに来たのか?)
何の考えているのかはわからないが、真正面からやってくるところがなんとなく気に入ってしまう。
そして、彼女の美しさも気に入った。
「神楽坂正守だ。西か北かは、別の場所で尋ねるというのはどうだろうか?」
ほんの気まぐれで、彼はかぐやに言い返す。
するとかぐやは近づいてきて、正守の頬に手を添えた。
「面白い方、ね」
そのまま唇を、そっと重ねる。
(貴様の方が面白いが、な)
目を閉じ、それに答えると、正守は心中でそっと呟く。
その瞬間に2人の運命を変わったなんて、このときはまだ気が付いてはいなかったから……。
調度品の少ない部屋で、窓際に置かれたベッドに彼は腰掛けていた。
傾きかけた西日を眩しそうに見て、呟く。
「気をつけることだ。<蒼睡《そうすい》>よ。確かに幻はお前の技。だが、幻とは本来、全てを欺《あざむ》き、虜にするもの……事と次第によっては、お前自身が踊ることになるのだからな」
「<東夷《とうい》>さま」
背後から名を呼ばれ、彼は振り向く。
「ああ、ここだ。今、行く」
扉の向こうに顔を出した、楕円形の眼鏡をかけた青年に言うと、彼は静かにゆっくりとベッドから降りた。
そして最後にもう一度、開かれた窓の外を見つめて彼は言うのだった。
「気をつけることだ、<蒼睡>よ……」
聞く者のいない呟きは、ネオンの灯り始めた街並みに吸い込まれていった。
流れを変える夜は今、帳を静かに下ろし始めていた……。
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