かまいたちの饗宴

≪2≫深紅の祈りの果てに

(1)

「正守……」
 唇を噛んで痛みをこらえている正守《まさもり》の顔が近くにあり、榊は思わず声をかけた。
 自分は痛みを欠片《かけら》さえ感じない。正守が守ってくれたためだ。
「正守、大丈夫か?」
 声をかけ、彼の身体を押し退けようとしたちょうどそのとき。
 榊の脳裏に“何か”が流れ込んできた……。



 空がオレンジ色に燃えている。
 大鐘を打ち鳴らす音が子供の泣き声のように鳴り止まない。
 狭い路地の傍らで、逃げ惑う人々を呆然と眺めるだけの自分。留め金を外し逆流を始めた人の波を押し留める力はなく、ただただ眺めるだけの自分。
 無力さに語る言葉を抱くこともせず、ふと、背後を顧みた。
 そこには彼が、いた。
「逃れることのできない業《ごう》は、俺たちの最大のアキレス腱かもしれない……」
 跪《ひざまず》いて少女の遺体を抱きしめている彼が、どこか悟ったような口調で言った。
「俺は、そう思えてきた……」
 彼の、いつもはきれいに編んである髪はすっかり解けてしまっていた。そのせいで、眩いばかりの金の髪が彼の表情をすっぽりと隠している。
 どんな顔でそう言ったのか、確かめることはできなかった。
 だが、泣いてはいないようだ。それが余計に、言葉に、姿に、虚ろな印象を与えてくる。
「なぁ、<青竜>。俺たちは……俺たちは、愛しい人の命さえ守れず、なぜ、こんなにも必死になって、<皇帝>陛下を守ろうとしているんだ……」
 弱々しい言葉の裏に潜《ひそ》んだ激しい情念が見えたから、何も言わずに彼を見下ろす。
(なぜ? なぜ、だって?)
 唇をしっかりと結ぶ。
 言わなかったのではなくて――言えなかった。彼の問いに、何も言えなかった。己を納得させる言葉さえ持っていないから、曖昧《あいまい》な態度をとって、唯一の逃げ道へ逃げ込んだ。
 無言で彼を見守ることが、心の中にある複数の疑問に対する解決法で、自分が生きていくための方法なのだ。
 <青竜>として生きていく方法。
「俺たちは、どうして、こんな生き方をしなくちゃいけないんだろう……」
 それは、答えのない謎々。だから、彼の問いかけは自問の域を出ない。
 激しく八つ当たりされるよりもありがたいと感じてしまう反面、彼の苦しみと怒りを解きほぐしてあげられないというやるせなさが、心に暗いヴェールをかぶせる。
 ヴェールの名は、神への疑惑。
 姿を現さない<皇帝>への、何一つ明快な理由がないのに強制させられる転生への、疑惑。
「そろそろ行かないとヤバイぞ」
 通りから戻ってきた筋肉質の男が言う。
 少女を強く抱きしめた彼は、指先で少女の唇をなぞると、静かにそこに口付けを交わした。そして、その場にそっと横たえた。
 どこかへ手厚く埋葬するわけでもなく、薄汚れた路地裏に置き去っていく。
「俺は、忘れない……」
 決意を表す独白。
 それを待っていたかのように、降り始めた冷たい雨。
 きつく抱きしめられていた屍。
 疑問。疑惑。――誰のために? 何のために? どうして? なぜ? ……多くの疑問符。
 空回りする想いがそこにあった。
 失われたのは笑顔だった。
 そして、やってきたのは悲しみの嵐、嵐、嵐──。
「<青竜>……俺は、何度生まれ変わろうが決して忘れない……!」
 彼の――<朱雀>を表す赤く輝く瞳から、一筋のきらめきが頬をゆっくりと伝っていく。その光景に立ち尽くしていた。
 雨は激しく降り注ぎ、霧のように辺りを霞ませる。<朱雀>の心は、言葉だけでしか読み取れなかった。



「顔は無事で何よりだ」
 落ち着いたバリトンの声で榊は意識を現実に戻された。
 軽く正守を押しのけて、榊は彼の傷を診る。グレーのジャケットはところどころ破けていた。幸いなことに、破片はどれも大きくない。
 直前に正守は風の防御壁を張ったらしく、見た目ほどダメージを受けていないので榊は安堵した。
 それから、攻撃の第二派に備えながら、混乱している頭の中で掴みかけたものを思い出そうとする。
(今のは、何だ?)
 何かの映像だった。
 誰かの感情とシンクロし、記憶が逆流した気がした。
(何だ? 思い出せ、<青竜>。知っているはずだ)
 今生の記憶ではない。そう判断して、榊は自分のうちにある<青竜>の記憶を探していこうと思った。だが、どの時代の映像だかわからなければ、どうにも見つけようがない。<青竜>としての記憶は気が遠くなるほどの量があるのだ。
「榊、今のは風を使った攻撃じゃないぞ」
「わかってる。しゃべるな、正守。けが人らしくしてろ」
 話し掛けてきた正守を榊は怒鳴りつけた。言われなくてもわかっている。風の使い手である<白虎>の正守が、風の攻撃を察知できなかったり、ましてや、それによって傷つくことなどありえないのだ。
(今の映像がヒント、か。あれが分かれば、この攻撃の正体もわかるかもしれない)
 榊は、その美しい、見る者を惹きつけずにはおれない漆黒の双眸《そうぼう》を<青竜>の証である澄んだ青に染めながら、どこにいるのか分からない敵に対して神経を張り巡らせる。
(俺の結界には引っかからなかった……)
 何の前触れもなかった、突然の攻撃。
(風とは異なる属性での攻撃。でも、限りなく風に近い攻撃……?)
 マンションの最上階に石を投げ込むことはできるわけがない。
 では、どうやってガラスを割るというのか。
(結界に触れずに、風に似た技で正守を傷つける……そんな芸当のできる奴がいるのか)
 そんなことができる者がいるとしたら──<皇帝>?
 榊は頭を振ってその答えを否定した。
 それはおかしい。何らかの事情があるにせよ、<皇帝>が自分を守るための存在である四聖獣に害を成すことなどありえない。
 では一体誰が?
 敵の正体もわからず、どう動いていいか戸惑っている榊の背後で、異変は起こった。
「榊!」
 正守の声を聞く前に、榊は振り返ってそれを目撃した。
 ガスコンロから吹き出た炎が、鳥の形になって彼らを見下ろしているのを。
「……ふざけるな!」
 榊の一喝と共に、水道の蛇口が破裂する。そして、溢れ出た水が猛烈な勢いでもって炎を包み込んでしまった。
 力で強引にねじ伏せている。それがわかり、正守は榊の怒りが大きいことを感じて、黙す。
「……ふざけるな……」
 榊は、濡れて張り付いた前髪の下の大きな瞳を怒りの色に染め上げて、ふりしぼるように言い放つ。
 あの、悲しみの香りが漂う記憶の再生、そして、命を吹き込まれた炎──誰が仕掛けてきたかわかったのだ。
「お前は誰を相手に攻撃をしたのか自覚しているんだろうな?」
 沈黙。水の吹き出る音だけがその場を静かに支配する。
「答えろ、<朱雀>!」
 ピタリと水が止まる。
 榊はそうしてしばらくの間、怒りの中に身を委ねて得られぬ答えを待ちつづけていた。

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