かまいたちの饗宴
穂高あきら 著
≪1≫予兆…
(1)
心地よいとはお世辞にも言えない浅い眠りを破ったのは、落としたてのコーヒーの香り。
重い瞼《まぶた》をゆっくりと上げて、彼は瞳だけを枕元の時計に向けた。
時刻は10時28分――デジタルの表示は無機的で、いつもと変わらぬ無感動な朝を榊に与える。
彼は上半身を気だるそうに起こしてから、頭を2度、3度と振った。だが、それだけでは倦怠感は拭い去れない。
朦朧《もうろう》とした意識を助けるかのように習慣が頭を覗かせて、彼の片手はベッド脇のテーブルへ煙草ケースを求めて伸びる。乾ききった喉《のど》には酷だが、目を覚ますには煙草を吹かすのが手っ取り早いとわかっているから。
目を向けずにたった数秒で探り当てたソフトケースの感触が、なぜか彼を安堵させた。ブラインドの隙間から漏れる日差しが布団の上に描く万華鏡を見つめつつ、彼は煙草を口にくわえた。
「お前は本当に、朝に弱いな」
その声は、煙草に火をつけるより早く、榊の耳朶《じだ》に流れ込んできた。するりと、まるで、彼を呼び起こしたあの香りのように……。
声を無視して煙草に火をつけた後、榊は静かに煙を肺に入れる。爽やかとはいえないが、それなりの朝を迎え入れる準備を始めために、脳の中から靄《もや》がかった眠気が一気に除去される。
一連の動作に苦笑を漏らした乱入者は、そこでわざとらしく大きなため息をついた。聞こえるようにわざとらしく、だ。
「煙草に頼るのは良くないぞ。肺が真っ黒になる」
「……ヘビースモーカーに言われたくない」
軽く言い返してから、榊は長すぎる前髪を手で梳く。梳きながら、偉そうに扉に手をついている男、神楽坂 正守《かぐらざかまさもり》を睨みつけた。
それくらいで相手が動じないことなどわかっているが、予想に違うことなく、正守は榊に微笑み返した。
「ヘビースモーカーだから言ってるんだ」
「……言葉どおり、腹黒いから、か?」
「そういうこと。まだまだ心のキレイなうちにやめた方がいいんじゃないのか、って忠告さ」
言い終わってから、正守は自分の腕時計を榊に向かって指し示した。
黒のハイネックにグレーのジャケット、そのどちらも相当の値段のはずだが彼の腕時計はさらに高価なはずである。実際の金額は榊も知っているが、自己主張をするように時計は日差しに反射させた。
思わず目を細めている中、正守が冷静に言ってくる。
「そろそろ起きないと3コマ目に間に合わないんじゃないのか?」
手に取った灰皿に灰を落として、榊は振り向く。ベッドに置いてある時計は何度見ても劇的な変化は見せない――寝坊した。
彼の家から大学までは、遠くはないが、やはりそこそこ時間がかかる。遅い朝食を取らずに行けば午後の授業には何とか間に合う時間なのだが、さして重要な授業でもない。
仮にその授業が出なければならないものだとしても、榊はおそらく、出席を諦めていたことだろう。コーヒーの香りに目を覚ましたときから。
自分の部屋で自由にコーヒーが入れられるのは正守だけ。そして、正守が来たということは……のんきに学生をやっている暇などない、という意味なのだ。
「どうせならば、もう少し遅くに来てくれても良かったのにな」
上半身を起こしながら、行儀悪く立てた膝を台にして、彼は片肘をついて呟く。
独り言だったが、正守にはきちんと聞こえていたらしい。
「午前10時は十分に遅い時間だよ」
榊が再度睨むが、彼はもちろんそんなことには動じない。
言い返すことも面倒で、彼は深く煙を吸い込んで、それを最後に煙草をもみ消した。そして、灰皿を元の場所へ戻しながら、ベッドから音を立てずに降り立った。
「まだ寝ててもいいんだぞ? ……かなり有力な情報なんだが」
意地悪そうに言う正守を榊は一瞥し、近くにあるボックスからタオルを1枚手に取る。
「……とりあえず、目を覚ましてくる」
「責任感の強いことで」
揶揄《や ゆ》するような台詞など相手にせず、榊は正守の傍らを通り過ぎていく。
「コーヒーは入れておいた」
(自分が飲みたくて、だろう?)
心の中で静かに毒づきながら、榊はシャワーを浴びるために廊下を裸足で歩いていく。
「榊、言いたいことは、まだまだあるって顔してるぜ」
子供扱いする正守は、きっと笑いを噛み殺しているに違いない。
(性格悪いヤツ)
慣れてきてはいるものの、相変わらずの人の悪さに榊は大きくため息をついた。
出会った頃から変わらない、自分は大人だと言わんばかりの態度……。
(出会い方が悪かったのかもしれない)
無理矢理の気もしたが、結論を出すと榊は急いでバスルームへ向かった。
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