花は盛りに、月は
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吉田兼好 『徒然草』百三十七段
落とした視線の先で短針は今にも「7」に重なろうとしている。
部屋から追い出されて三十分。忍耐強いはずの正守《まさもり》もとうとう根負けしたかのような重いため息を一つこぼし、ネクタイを少しだけ緩めてみせた。
彼は、自分の父親を無能な男だとは思っていなかった。
曲がりなりにも一代で「神楽坂」の名を知らしめ、過去には“時代の寵児”とも呼ばれるに至った男である。時に「甘い」と思わぬこともないが、世間は総じて彼が有能で卓越した才能を持つ経営者なのだと判じており、その評価は誤りでないと正守も父を認めている。
だが、何事においても上には上がいるものだ。
今日、彼らが相手にしているのは財界のみならず政界にも発言力を持つ桜井グループの会長――戦後の闇社会を自力で生き抜き、旧財閥をも凌ぐ地位を手に入れた老獪《ろうかい》な“妖怪”である。神楽坂の頭が敵うような人間《も の》ではない……十五分だけだ、と言って自分を追い出した吉守が苦境に立たされていることは想像に難くなかった。
(……やめておけと言ったのにな)
今夜の会合は「親睦会」と名を呈した非公式のもの、腹の底でそろばんを弾く狸たちが真正面切って殴りあうことはない。それでもまかり間違って斬り合いになれば無傷ではいられないだろう。真剣でなくとも打ち所が悪ければ大怪我を負う。
だからこそ苦言を呈したのだ、あからさまな挑発には乗るべきではない、と。しつこいくらいに何度も。
……言ったところで素直に聞く父ではないとわかってはいたが。
(まぁ、たまにはこういうのも面白い)
無意味に過ぎていく時間に嘆息を添え、胸中で冷たくひとりごちることで感情の整理をつけた正守はジャケットの内ポケットへ手を伸ばす。忍ばせておいた、青と白で彩られたパッケージに時間潰しを担ってもらう魂胆である。
「火、どうぞ」
ちょうどいいタイミングでそう言ってきたのは、正守の傍らに座る喫煙者。
顔をそちらへ向け、形ばかりの笑みを浮かべると正守は軽く会釈した。余計な言葉は挟まない。ある程度、気を遣わぬ相手ではあるが、馴れ合うべき相手でもない。だから、余計な言葉を挟む必要はない。
店内のどの照明よりも激しい色を眼《まなこ》に焼き付けてくる灯火、それを煙草の先端に移し取って、正守はちらりと隣の青年を盗み見た。
(……桜井智一、か)
彼は、数時間前に名刺交換をした「桜井」の筆頭秘書の名前を覚えていた。顔を合わせたのは今日が初めてのことであるが、噂ならば以前より幾度となく耳にしていた。
身内に厳しい桜井会長が手放しで褒める末息子、桜井智一は“若輩”と呼ばれるのが似つかわしい二十代の青年だ。いい意味で年相応とは言えない印象――年輪を重ねて身につける上品さ・穏和さ・柔和さといった優しい印象――を与えてくるこの若き秘書は、しかしながら、虫も殺さぬような柔な外見とは裏腹に「敵」と見なした相手には僅少の温情さえ与えぬ苛烈な一面を持つという。
ときに肉親の情さえ捨てて物事に当たる辣腕ぶりには、惹かれる者も多いが反発する者も絶えないそうだ。味方も多いが敵も多い、「桜井」の体質そのものを表す存在として彼ほど打ってつけの者はいないと、人は実《まこと》しやかに囁く。
(内に刃を隠し持つ男、ね)
点らせた火を赤々と燃やすように深く煙を吸い込み、正守は正面の窓ガラスをじいっと見つめた。
人の口の端に上った噂の真偽は定かではない。が、地上の星々の上に描かれた智一の端正な顔は、慈悲深い表情と冷酷無比な表情、どちらの仮面をつけても魅入ってしまうほどに似合うことだろう――本人の真情とは別のところで敵も味方も作りそうだと正守は思った。
(……敵も味方も……か)
煙草を吹かすふりを装って手元を口に運び、彼は苦笑を隠した。
自分に似ている、というのは失礼に値する思い込みだと十分承知していた。
正守は智一ほど積極的にはなれない。彼の相関関係は相手に依存しており、それは灰色の絵の具を広げたパレットを相手の手に委ねて「これは黒か白か」と尋ねるようなものだ。自分でどちらかの色へ変じさせることはしない。
「大企業体の御曹司」というキーワードでカテゴライズすれば二人は同一の種別に属するだろうが、細部まで見渡せばまるで違うタイプであることは間違いないことを誰よりも正守自身がわかっている。
それでも、どこか似ている、と彼は思ってしまっていた。
微笑の仮面と美辞麗句を弄して他人を欺く者……近しい、と思わざるをえなかった。
「本当に申し訳ございません……うちの会長は長話が好きなものでして」
役割を終えたジッポをしまって、その智一が口を開く。
正守はグラスを手に取りながらゆるりと首を振った。そうやって思索の世界をやんわりと打ち壊し、現実へと立ち戻れば、もはや溶けきるのも時間の問題と思われる氷が玲瓏な音を奏でて彼の唇から言葉を誘い出す。
「お気になさらず。神楽坂も長話が好きですから」
社交辞令。かつ、疑いようのない事実。
聞いた智一は首を傾けて楕円形の眼鏡の奥の瞳を歪めてみせる。
「お互い、苦労致しますね」
賛同と苦笑、双方の影が見え隠れする一言で正守の出方を探っているようだった。
琥珀色の液体を嚥下《えんか》して、彼は真顔で答えた。
「……まったくです」
簡潔な本音は青年のお気に召したらしい。
灰皿に煙草を押し付けながら、一拍後に桜井の秘書は小さく吹き出す。そう返してくるとは思わなかった、と軽やかな笑声《しょうせい》が主張していた。“読み”に長けた青年にとって意外性のある答えだったに違いない。経験則からここは当たり障りのない、ごまかしようのない返し方でもすると思っていたのだ、おそらくは。
だからといって、正守は相手の裏をかいたかもしれないと喜ぶ気にはなれないかった。
浮かれる時間さえ与えられなかったのだと言い換えることもできよう。肩を揺らしていた智一が出し抜けに、思いもよらぬことを聞いてきたその瞬間に正守の思考を一気に停止したのだから。
「どこかでお会いしたことはございませんか?」
――言い慣れてはいるが、聞き慣れてはいない言葉。同時に、女に投げることはあっても、男から投げられたことはない類の言葉。
目を瞬かせ、正守は年上の秘書を凝視する。厄介なことにからかっている雰囲気は微塵も感じられない。
「……どなたかとお間違えでは?」
気の利いた言葉でも返せれば良かったが、正守が示せたのは模範解答のみである。真意がまるで測れなければウエットに飛んだ会話など交わせるものか。
智一はというと、新しく取り出した一本を口元に持って行きながら「さて」と言ったきり口を噤んでいた。そしてそれを機に、思考をここではないどこかへ運んでしまっている。
(……まさか)
危惧の念がのっそりと頭を擡《もた》げた。
彼は探る。黙り込んだままの青年の胸の内を、その鳶色の瞳で。
(そんな馬鹿なことがあるものか)
智一と過去に会ったことはないはずだ……少なくとも今生では。
転生を経て、神楽坂正守という名を得た今生においては。
(俺が誰なのか、気づいたとでもいうのか?)
得体の知れぬ不安が次から次へと脳裏を掠める。
平然としつつも、背中に冷たい衝撃が伝っていくのを無視することはできない。ごまかしようのない緊張感が正守の心拍数を徐々に早めていく。
転生を繰り返すこの身が持つ別称、知る者はまだ一人だけ。未だ十代の少年、ただ一人だけ。
(気づいたとでもいうのか!?)
「……神楽坂さんは私が探している方に雰囲気が似ております」
永久螺旋の思索を断つ智一の声は、たおやかに、けれども無視できぬものを孕んで正守の耳底《じてい》まで降りてくる。
さらりと告げた唇の端には僅かな歪み。
仰いでくる双眸には挑むような気配。
睨みすえるように、頬杖をつく彼を正守は見つめる。
「雰囲気が、ですか」
「えぇ」
「……いつ頃のお話ですか?」
「だいぶ昔の話ですよ」
ただの世間話なのか、真意が他のところにあるのか、優秀な秘書は曖昧な言葉ですべてを霧の中に隠す。
正守は、つられるように笑った。
(お前は誰だ?)
手を握る者か、剣を交わらせる者か。
四神の名を継ぐ者か、蛮族と呼ばれし者か。
(お前は、敵か? 味方か?)
問いかけという名の追求はそこまで、正守の中から飛び出すことはなかった。彼らの意識を奪うように、視界の隅で明滅するものがあったからだ。
室内に客たちの歓声が響く。
牽引されるように正守も智一もそちらへ、光と音の衝撃を与えた方へと目をやった。
窓の外、眼下に散りばめられた宝石群を霞ませるかのごとく峻烈な花々が宙に咲いている。――それは、夏の宵を彩る花火。
「そういえば、今日は浴衣の女性をたくさん見かけましたね」
のんびりとした口調で思い出したように智一は言い、それから、歌うように付け加えた。「花は盛りに、月は隈なきをのみ見るものかは」、と。
「……徒然草が、どうしかしましたか?」
尋ねれば、智一はただただ微笑を返してきただけだ。ご存知でしたか、とは言わなかった。徒然草の第百三十七段――兼好法師が「桜の花は満開のとき、月は影のない満月のとき、それだけが風情あるというわけではなかろう」と謳った有名な一節だからかもしれない。
一片たりとも言葉を副えずに唇に当てたままの煙草に火を点した青年は、花火を眩しそうに見やる。等間隔ではない打ち上げ音とくゆる紫煙が二人の沈黙を埋めていく。
やがて、眉根を寄せた正守に何も言わず、智一が独白するように言った。
「いついかなるときが美しいのかと論じることができるのは、花が咲いては散るものであり、月が欠けては満ちるものだから……そのように思いまして」
「……花火を美しいと感じるのは散るものだから、と?」
先回りして尋ね訊けば、智一は「いいえ」と言を否定する。次いで、楕円形の眼鏡を外し、何の隔たりもない、覆うもののない、怜悧とも鋭利とも評することができそうな瞳を正守のそれと対峙させる。
「すべて、ですよ」
何物にもかき消されぬ不可思議な音の羅列。
意識を絡め取る言葉の連なり。
「たとえば……人の命も理《ことわり》に逆らわず散るのだから美しいとはお思いになりませんか?」
智一がふかす煙草の火が、赤く燃える。
美しく、禍々しく、赤く燃える。
「花は枯れるを拒まない、月は欠けるを拒まない、ゆえに愛でたくなるものを……なぜ、人だけが潔く散れぬのでしょうか」
正守は、答えなかった。
彼が誰に聞いているのかわからなかったので。
背広を羽織り、ネクタイを締め、父親を待っている自分。
真実の姿を隠し、周りを欺き続けているもう一人の自分。
訊かれているのがそのどちらなのか、わからなかったので。
「桜井様、神楽坂様」
呪縛を破る声が聞こえた。
問われてからどれほど経ってのことかはわからなかったが、弾かれたように顔を上げれば、テーブルの横に立った店員が辺りを憚《はばか》りながら告げてきていた。
「……お話が終わられたようですが」
「そうですか、ありがとうございます」
応対したのは智一の方だった。
彼はテーブルの上に置いた眼鏡をかけ、正守が雑誌で、テレビで、よく見かけた“薄っぺらな”笑みを浮かべながら照れたように謝罪を口にする。
「すみませんでした。神楽坂さんが私のよく知る方に似ていたもので……つまらないお話をしてしまいましたね」
今度は「お気になさらず」と返せぬ正守を置いて、桜井の秘書は店の奥、唯一の個室への通路へ足を向けた。
「……桜井さん」
自分とさして変わらぬ長身を呼び止め、彼も立ちあがる。
確かめたいことがあった。
明快な返答がなされることは期待していない。それでも、聞かねばならなかった。
正守は、相手に気づかれぬよう息を小さく息を吸う。
「あなたが探してらっしゃる方のお名前は?」
踵を返すように振り向いた青年は、ややためらうような仕草の後で口を開く。
「名は――」
歓声。そして、爆音。
地鳴りのような花火の音が裂いていく。二人の会話を。
◇ ◇ ◇
求めた答えを得ぬまま、離れていく背中に正守は目を眇める。
“またお会いしましょう”
最後の最後、確かに彼はそう言っていた。
また、とはいつのことだろうか?
答えの出ない謎解きに身を投じ、ふと、傍らに視線を落とせば灰皿の上には屍のように燃え尽きた煙草。
「なぜ、人だけが潔く散れぬのか、だって。……それは、人間が欲深いからだよ」
椅子に腰を下ろし、新たに一本取り出しながら彼はもはや生き返ることのないそれを見つめていた。
赤や黄色に照らされた己の影と共に。
二人が互いのことを知るのはまだ先の話。
敵なのか、味方なのか、それすらもこのときは知らなかった。知りえなかった。
すべてを知っていたのは、彼らを照らす、爆ぜていく花たちだけ。
――いつの時代も、爆ぜていく花たちだけであった。
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