「榊……」と名を呼んだはいいが、続きの台詞は出てこなかった。なぜならば、正守《まさもり》は呆れていたからである。
乱雑に扉を閉めて、手近な椅子にジャケットを投げた彼は、大股で窓際のベッドへと近寄って行く。そこには、彼の突然の来訪をまるで気に留めず、一心不乱に包帯を巻いている宮前榊の姿があった。
「おい、榊」
再度の呼びかけにも榊は応じない。半ば苛立って、正守は彼の腕を引っ張った。もちろん、怪我をしている方だ。
「おい」
「っ……正守!?」
うめくような悲鳴と共に顔を上げた彼は、長すぎる黒髪の下から覗く瞳に驚愕を湛えていた。
どうやら、正守が先ほどから声をかけていたことに気づかなかったらしい。いや、それどころか、家にやってきたことにさえ気づいていなかったのだろう――彼にしては珍しいほどに隙が多い。
皮肉の1つも言ってやろうかと思っていたが、それもやめる。
捲《まく》し上げられた白いシャツの赤い染み、その下でするりするりとほどけていく包帯……。
正守は何も言わずにその場に膝をついた。そうして、掴んでいた榊の腕をさらに強く引っ張った。
「痛いって、正守」
「なら、医者に行け」
「……行けるかよ」
押さえ気味の声に隠された意味を尋ねる前に、彼は榊の右腕につけられた傷に鳶色の目を細る。
華奢、と言える、だが、女よりは筋肉のついた腕に裂傷がある。血は既に止まっているようだが、傷は予想以上に深い。普通であれば、やせ我慢などせず、医者に駆け込んでいるだろう――普通であれば。
床に落ちかけているガーゼを手に取って、それを傷口に当てながら正守は上目遣いに榊を見やる。彼の忍耐力に対して感嘆のため息を漏らすことも忘れない。
「主治医、いるんだろう?」
良家、と呼ぶにはいささか語弊があるかもしれないが、家柄からいって榊にもお抱えの医者がいるだろう。正守の家でさえ数名を雇っているのだ、榊にいないはずがない。
だが、彼は首を左右に振って、正守の案を拒否した。
「だめだ。宮前の家に知られるわけにはいかない」
「けどな……」
「それに……下手に誰かに知られない方がいい」
包帯を巻く手が一瞬止まる。
見上げると、黒い双眸がわずかに青い光を宿していた。
それは、彼の身に流れる特別な力が見せる幻。
<青竜《せいりゅう》>……人の核たる<中華>のさらに中心、<皇帝>と呼ばれる者を守るべき使命を与えられた者である証――。
「……この傷は、<東夷>か?」
自分でもわずかに強張っているとわかる声で正守は尋ねた。<東夷>か、と。
お前の宿敵、東の蛮族<東夷>か、と。
無言の空気が答えであった。
訝りながら、正守は手早く包帯を巻いていく。端を留め、すべて終わるまで榊も沈黙を迎え入れていた。
<皇帝>守護者の中でも筆頭とされる彼のこと、伺い知れぬ多くのことを考えているに違いない。あえて問いかけはせず、正守は榊の心を読む。
答えが出なくとも、測ることは無駄ではないと知っていた。
「……<東夷>じゃなかった。だが、何者か、まるでわからなかった」
やがて、呟かれた言葉は要領を得ないものであった。
腕を離し、立ち上がると正守は腕時計に一瞥をくれた。このままでは待ち合わせに遅刻してしまうが、榊の話を聞くことととどちらが大事かは秤にかけるまでもない。
「どんな奴だった?」
「年は……お前と同じくらい。いや、お前より上だったかな? 白人。ただし、外見は日本人っぽかった。あと……妙な格好してた」
「妙な格好?」
「映画に出てくるみたいな格好……映画? 違うな、ゲーム、っていうのが正しいかもしれない」
「……現実の話か?」
率直な意見を口にすると、少女じみた顔に不満の気配を垣間見させて、榊が正守を睨みつけてくる。
「作り話で怪我はしない」
「それはそうだな。――で、他に特徴は?」
「突然、現れた」
「突然?」
「振り返ったらいきなりそこにいた。それから、短刀を投げられた――そのときの傷が、これだ」
腕を指差した榊の表情は真剣だ。
「それから、突然、消えた。いきなり、いなくなった」
……彼が口からでまかせを言っているとは思えない。思えないものの、どこか真実味がないのも事実。
正守はこめかみに指を当てると、少しの間、考え込んだ。
何の前触れもなしに現れるなど、可能だろうか?
彼が考えうる限り、そのような非常識的な能力を誰かが持っているとは思えない。
<青竜>である榊が水を操るように、敵である<東夷>の一族もまた、特殊な力を持っている。それは、特殊な結界の創出だ。擬似的な別空間を作り出すことこそが<東夷>たちの能力である。
しかし、<東夷>たちは空間を創出できても、その空間を渡ってくることはできない。できるはずがない、そんな人間離れなことなど。
(もしかして……)
ふと、脳裏にある可能性が浮かんだ。十分にありえる可能性……確信を持てない可能性。
正守は、聞くべきかどうか迷った末に、結局、こう言った。
「……榊、夢でも見ていたんじゃないか?」
案の定、本意を知らぬ青年は眉宇を逆立てて一言返してきた。
「馬鹿にしてるだろう?」
(馬鹿にしてなどいないさ)
心中で返答し、正守は唇に微笑を乗せる。
夢を渡る――特別な空間を行き来する人物を彼は知っていた。本来ならばまだ誰も知らぬであろう人物である。
その名を口に出すことはできるのだが、正守は静かに喉の奥に仕舞いこんだ。
言うわけにはいかないのだ。言えば最後、なぜ知っているのかという話になる。――隠し通してきた裏切り行為が明るみに出る。それは、正守自身の命を危うくしてしまう。
反応からするに、榊はどうやら<東夷>たちと正守との関係に気づいていないようだった。気づかれないようにしてきたから当然ではある。
(そう、「そのとき」が来るまで決して悟らせない)
誰よりも<皇帝>に近しい<青竜>、お前には……。
「血気盛んなのもいいことだが、榊、相手が誰かもわからないまま帰ってくるなんてお前らしくないな。冷静に対処すべきだったんじゃないのか?」
ベッドの上で血に染まったシャツを脱いだ榊は、ときどき眉をひそめるようにして、右腕を動かしていた。
どこまで動かせば痛みがあるのかを確かめているようだ。
聞いていないかと思いきや、傷に手を当てて彼は正守に目を向けてきた。
「……お前、昔と言ってること違う」
「……昔?」
「ここじゃなくて、西の地で、言っただろうが。様子を見てたり、ためらっている間に殺《や》られたらおしまいだ、先手必勝こそが正しい、って」
非難する口調に正守は笑みを拭い去る。そして、しれっと言い返す。
「覚えてないな」
榊が目を丸くした。
その表情に、真面目な顔つきをするはずが正守は微笑をこぼす。
「……正守、それ、ズルくないか?」
「どこもズルくないぜ。それを言ったのは俺じゃない」
「いいや、お前だ。絶対、お前だ。俺の中の<青竜>も同意してる――言ったのは<白虎>だって」
「だから違うと言ってるんだ、榊。それを言ったのは<白虎>であって、俺、神楽坂正守じゃない」
一拍の間、口を開いたまま榊が言葉を紡げずにいる。
腕時計に視線を落として、正守は椅子の上に投げたグレーのジャケットを取った。少し立ち寄っただけのつもりが、不慮の事態で時間を消費した……遅刻はどうやら決定のようだ。
遅れたための罰は用意されていないだろうが、時間を無駄にしたくはない。
限られた時間は有効に、かつ、効率的に使わねばならない――これは彼が自分に常に言い聞かせていることのうちの1つ。
「正守、その言い方がズルいって言ってるんだ、俺は」
逃げると思っているのか、榊が立ち上がって話を続けてくる。
背中越しに彼を見て、正守は軽く片手を振った。
「ムキになるなよ、榊。悪かった、俺が悪かった。……これでいいか?」
「……<白虎>も、人が悪くなったな」
「<青竜>は、からかいやすくなった」
「正守!」
威勢の良い声に、妖艶、と称される笑みを浮かべて彼は言い返した。
「悪いな榊、これから人と会う約束なんだ。――とりあえずお前は、上に何か着ろ。風邪引くぞ」
入ってきたときには乱暴に扱った扉を、今度は優しく後ろ手で閉じる。
磨りガラスの向こう側から声は何も聞こえてこなかったが、悔しそうにしている青年の様子は振り返らずとも正守にはわかり、噛み殺せない苦笑を彼は漏らした。
2次会に、と代わる代わる声をかけてくる同級生たちを適当にあしらって、正守はようやくバーに辿り着いた。
先に会場を抜け出た男は、カウンターの1番奥で先にグラスを傾けている。
ちらり、と彼を見たマスターは何も言わずにボトルを棚に戻し始めた。彼が口を開く間もなく、マスターは別の客に呼ばれそちらへ行った。
仕方なく、注文もせずに正守は友人の隣に座った。
「遅かったな。さすが、人気者」
いやみの感じられない口調で言われ、正守はジッポを取り出しながら小さく笑った。
「誰かさんがこっそりいなくなったもんだから、その分、遅れた」
「人のせいにするなよ」
「お前だなんて言ってないぜ、しいな」
ジッポが、グラスを指で弾くような音を立てて口を開く。それが耳に入ったから、というわけではないのだろうが、先を見越してマスターが灰皿を差し出してきた。仰ぎ、彼はコロナを頼む。
傍らのしいなが眉根を寄せた。
「何も付き合わなくたっていいのに。お前、ウィスキーの方が好きだろう?」
「さんざん飲んだよ、今日はもういい」
言いながら、自分としいなに仄かな柔らかい眼差しを送るライトへ向かって正守は煙を吐き出す。
立ち上り、数を数える余裕もなく光の中に煙は吸い込まれて行く。それを3回繰り返したところで、コロナの瓶がテーブルに置かれた。
「正守、相変わらずだな」
ライチを小さな口からねじ込むように落とし、わずかに泡立った液体を喉に流し込んだ正守へ、しいなが切り出した。
卒業してから5年――久しぶりの再会を果たした彼の第一声も、確かそれだった。
「お前こそ、変わってない」
言い返し、正守はしいなを凝視する。
軽くウェーブのかかった長髪――よく教師に校則違反だと言われていたあの当時と同じ髪型だ――、人づきあいが良さそうだとわかる柔らかい眼差し、近づきすぎず遠ざかりすぎない距離感の口調。
片手の数しかいない「友人」のうちの1人は、卒業当時そのままだ。
何か変わったところがあるはずだ、と言われればそれは服装だろう。
同窓会にラフな服装で着ていたものも数人いたが、その中でもしいなは目立っていた。春物のニットとジャケットの組み合わせはとてもセンスが良く、昔の彼を知っている者であれば「あれは誰か?」と思ったことだろう。
――正直な話、正守も思った。
(女、か)
服装の好みや着こなし方は自分で変えられるものではない。ならば、やはり、この友人には恋人ができたのだろう。信じがたいことだが、同時に喜ぶべきことでもある。
「しいな」
「なんだ?」
「お前、その“彼女”は当たりだ」
「……はぁ?」
盛大にビールを吹いた後で、しいなが裏返った声を出す。
胸のポケットから取り出したハンカチで額を拭きながら、ついでに正守は前髪を手で梳くようにして上げた。整髪料が足りなかったか、出入りした場所での熱気がすごかったのか、髪が落ちてきて少し鬱陶《うっとう》しい。
「別にとぼけなくてもいいぜ。お前にだって女くらいいてもおかしくない」
「……何か勘違いしてないか?」
「何も。お前に似合ってて、しかも、いいセンスだ、“彼女”は」
自分の服を見下ろして、しいなは正守を見つめる。
驚くほどに無表情で、それは彼が困惑したときに見せるものだった。
やがて、しいなが呟いた。
「……甥っ子」
長くなった灰を落とし、短くなった煙草に口づけて正守が問う。
「何が」
「これ、選んだの、甥っ子だよ」
沈黙は軽く十数秒に及んだ。
正守の脳裏に、今まさに、大きなプレゼントを抱えて「これ、あげる!」と声を発する幼子が浮かび上がった。
そして、それをにこやかに受け取るしいなの姿も。
「……彼女の甥か?」
「お前、それは彼女のいない俺に向かっての婉曲的な皮肉なのか?」
「……お前の甥か?」
「普通はそう考えるだろう。一緒に住んでるんだ、1年前から」
正守は、今度は、新聞紙を持って嬉しそうに走ってくる幼子を思い描いた。
そして、それをにこやかに受け取るしいなの姿も。
「……隠し子じゃないよな?」
「……お前、俺をどういう目で見てるんだ? 6つの時に子供なんて作れるわけないだろう」
そこに至って、彼はようやく作り上げていた映像が間違いだらけだと気づいた。
灰皿に煙草を押し付ける。
頭の中を整理するために、テーブルの上にある幾つもの星が並んだケースから新しく1本取り出して、その先端へ手早く灯《あか》りをともした。
「珍しいな、6つ違いの甥なんて」
「姉の子供だ。いい子だよ」
「それに、センスもいい」
「確かに」
瓶の底を見せるようにしてビールを飲み干したしいなが、同意する。その笑顔を見た正守も、気づかぬわけにはいかない。
彼は変わっていなかった。そう思っていた。
けれども、本当は違う。
彼は変わっていた。ほんの少し。
昔以上に、優しく。昔以上に、温かく。
そうさせたのは、たぶん、彼の言う“甥っ子”だ。
「しいな、前言撤回だ。お前、少し、変わったよ」
「服装が?」
「そう、服装が」
「そう言うお前も、やっぱりちょっと変わってるよ」
「服装が?」
面白おかしく言い返すと、しいなが笑顔のまま言った。
「いや、雰囲気が」
――口に持っていったコロナの瓶を持ったまま、彼は固まったようにしいなを見る。
そんなことを言われたのは初めてのことであった。予期さえもしていない。
しいなが、念を押すように繰り返した。
「変わったよ」
「……まさか」
「その、まさか。変わったよ、お前。笑うようになった」
言われて目を見張るや否や、しいなが肩を大きく揺らす。
さも、おかしげに。
「笑うようになった。表面上、じゃなくて。……お前、変わったよ。だから、女子がお前を離すまいとしてたんだ」
正守は言葉に詰まらずにはおれなかった。
自分はいつでも笑っていた。しいなと共に。他の者たちと共に。
いつでも、笑っていた――笑った表情を形作っていた。
気づかれぬように。
仮面をつけていた。気づかれぬように。
「変わってなんかいないよ、俺は」
断定すると、「そうか」としいなが答える。
この友人が、いつも何を見ているのか正守は知らなかった。自分がそこにあるものを見ていないのと同様に、別のものを見ていることを知っていたから。
……しいなは気づいているというのか?
自分が背負ったものを。
隠しつづける、仲間を裏切る運命を。
正守は、目で問うた。
知っているのか、お前は。
対して、しいなは目を閉じた。
「――お前の方こそ、“彼女”を大切にしろよ」
それしか、言わなかった。
質問への回答ではなかったが、それが友人の気遣いなのだと感じない正守ではない。
(お前って、本当に嫌な奴だ)
「残念ながら、俺にも特定の恋人はいない」
「……今、何人つきあってるんだ?」
「つきあっている、っていうのはどの程度の関係?」
「……言わずもがな」
「6人」
「正守、お前、よく身体が持つなぁ」
「数ヶ月に1度しか会わないのもいるさ」
「いつも1人か? 学生のときみたいに」
「いや、比較的一緒にいるのは……」
「そう、その彼女。その彼女を、大事にしろよな」
「人の話は最後まで聞けよ、そいつは……」
「結婚式には呼べよ。俺、緊張してるお前が見たいね」
「だから……」
そこまで言いかけて、正守は口をつぐんだ。
ようやく気づいたのだ。自分がからかわれていることに。
憮然としながら、灰皿に煙草を押し付けて、彼はビールを呷《あお》る。タイミングよく、少し離れたところに座っていた外国人が口笛を吹いた。
「やけになるなって」
口端から零れ、伝い落ちようとしている分を手の甲で拭いながら、彼はしいなを見た。
しいなは、ほんのわずかに赤くなった顔をしている。
「正守、お前、いつだって1人で何でもできちゃうけど、たまには人に頼れよ。そうしないと、1人で生きていけるって勘違いしちゃうから。近くに誰かいるんだったら、その人に頼るべきだ」
説教くさいと思わせない口ぶりでしいなが言うと、言葉はなんだか胸に染み込んでくる。
消し去るように、正守は言い切った。
強く。強く、強く。
「俺は1人で生きていけるさ」
「お前ならそう言うと思ってたけど、せめて、酒くらいは2人で飲もうぜ。――マスター、コロナ2本!」
新しいビールを2本頼んで、しいなは正守を注視してくる。
「正守が吐いても面倒見てやるよ。……たまには、頼ってこいよ。淋しいだろう、俺が」
これ以上はないと思われる殺し文句だ。
瞬間、今日、榊から聞いた言葉を彼は思い出した。
“ここじゃなくて、西の地で、言っただろうが。様子を見てたり、ためらっている間に殺《や》られたらおしまいだ、先手必勝こそが正しい、って”
(……先手必勝、ね)
淋しいなんて、自分は絶対に口にしない。
だから、しいなは言ったのだろう。――まったく、この友人には、してやられる。
いつでもいつでも先回りされる。
正守はため息をついて、差し出された新しい瓶を手に持った。
咎めるというより、気になってしいなが首を傾げる。
瓶を掲げ、正守は頭《かぶり》を振った。
「いや、なに、昔の……古人の言葉を思い出した」
「どんな言葉だ?」
尋ねてくるしいなと瓶で乾杯し、正守は観念したように笑いながらはっきりと言った。
「殺《や》られる前に殺《や》れ――楽しい夜酒にしようぜ、しいな」
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