肩に軽くかかる程度の黒髪が、風に煽られて揺れていた。
漆黒の双眸を眇(すが)めるや否や、彼女は琵琶の弦をそっと爪弾く。――雲が点在する青空に、澄んだ音色が吸い込まれていく。
背に生えた3枚の羽は、そのとき、ピンと伸ばされた。
太陽の下、神々しいまでの輝きを受けて。
「あなたに贈る曲がある」
紡がれた言葉も、まるで楽のよう……。
優しさと、寂しさと、悲しさと、微かな怒り――あらゆる感情のこもった、耳を傾けずにはおれない声。
語尾が消えるよりも早く、彼女は指を動かし始めた。
聳(そび)え立つ城壁の上、誰1人客のいないその場所で、楽師は静かに演奏を始める。瞼を閉じて、物思いにふけながら。
旋律に乗せるように、彼女はいつしか口ずさむ。遠い思い出に眠る歌を。
奏曲に名はない。
それは、彼女と、彼女が見送る者しか知らぬ曲――レクイエムだった。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
ランプの内側、灯(とも)された炎が大きく揺れている。その都度、床を這っている影たちが踊り子を模するように身をよじった。
それがあたかも合図であるかのように、窓の格子(こうし)模様の隙間から季節はずれの雷鳴が、静寂に包まれていた室内に轟音をまき散らし始めた。
侍女が小さく悲鳴をあげる。王の御前であるにも関わらず。
もっとも、場所など関係ないだろう。無意識に、驚いたと同時に声が漏れてしまったという感じであった。
レヴァリスは言葉にできない不気味な感覚を覚えていた。
外の天候もさることながら、その騒々しさとは対照的に、室内は静かな重い空気で満たされている――それが不気味なのだ。
一呼吸した後にレヴァリスは垂れた頭(こうべ)をゆっくりと上げていった。
「楽師レヴァリス、招致により参上いたしました」
息継ぐ間もなく言い終えてから、彼女は無意識に眉根を寄せる。
宮廷楽師になった覚えはないのだが、言上などは癖のように身体に染み付いているらしい。普段は気にも留めないことなのに……。
嵐の中呼びたてられたことに対しての怒りがまだ消えきってないと、自分でもわかった瞬間。
(大人げないわよ、レヴァリス)
己に言い聞かせ、レヴァリスは閉じた口を再び開いた。
「宴のお申し出はお断りしたはずですが……火急の用とは、いかなるものでございましょうか?」
首を傾げ、微笑を浮かべながら尋ねてみる。
レヴァリスの目線の先――王はバツの悪そうな顔をして唇を真一文字に結んでいる。代わりに答えたのは彼の横に座す女性であった。
「このような嵐の中に呼び立ててすみませんでしたね」
レヴァリスは上品な笑顔のまま声の主を見た。
王座の横にいる女性が誰だか、もちろんレヴァリスは知っている。この国の者なら誰でも知っているはずだ。その人が、西国からの客、フェ・セルレ女王であるということを。
王城に入る際の姿をレヴァリスも見ていた。街の外れに店を構える占い師――城下民の1人として、歓声と拍手の中に身を起き、その姿を拝していた。
今、近くで女王を見ても受ける印象は変わらない。
目尻と口元に無数の皺(しわ)を刻みながらも、年齢など関係がないことを示すように王者の威厳に満ちた女性。女王――王と呼ぶにふさわしい女性……。
(珍しいわね……)
緊張している。
圧倒されている。
彼女は大きく息を吸うと、声を張り上げた。
「フェ・セルレ女王様、ご尊顔を拝し、恐悦至極に存じます」
「こちらこそ。ご高名は西にまで届いておりますよ、楽師レヴァリス殿。このセルレ、あなたの楽を何としても聞きたいとご無理を申し上げてしまいました。このような日に呼び立てた無礼、どうか許してくださいな」
「いえ、それほどまでに望まれたこと、私にとっては名誉なことにございます。……ですが」
レヴァリスはいったん言葉を切った。
数秒の間の後、口を開く。同時に、響く雷に合わせ、彼女の長く、複雑に結った黒髪が肩からするりと零れ落ちる。
「西では、魔女は忌むべき存在。私のような者の楽など、不快に感じるのではありませんか?」
セルレ女王は平然としていたが、傍らの王は息を飲むのがわかった。
(……心配なら呼ばなきゃいいじゃない)
1人、彼女は心で毒づく。
レヴァリスは宮廷楽師ではない。しかし、王城からくる宴での演奏の依頼はほとんど断らなかった。それを今回断ったのは、客人が「西国から」来ると聞いたからである。
黒髪・黒目――その容貌は、「魔女」の証。文献に刻まれた太古の昔、妖しい魔法を操った女たちが共通して持っていたもの。
遺伝しないため希少種と呼ぶにふさわしく、黒髪・黒目を持つ者など現在では滅多にお目にはかかれない。一生を費やしたとして、1人会えるかどうか、である。時々、過去が偽りではなかったかのようにその姿の者が生まれてくる、その程度にしか存在していない。
もちろん、書物に書かれたような不可思議な力を持っているわけではない。けれども、地域によっては黒髪・黒目の姿で生まれてきただけで迫害の対象になることがあった。ひどいところでは、言葉もしゃべれぬうちに殺される。
ただ、大陸の東の方――今、レヴァリスが住んでいるこの国――では、魔女は決して迫害の対象にはならなかった。かつてこの地にいた魔女が、長く善政を敷いたため、魔女を悪の化身と位置付ける民が少ないのである。これが、西の方――すなわち、フェ・セルレ女王の統治下――へ行くと、まるで逆だ。ほんの数秒でも眠っていようものなら、寝込みを襲われるのは必至なのだ。
レヴァリスは、漆黒の双眸でじいっと女王を見つめていた。睨むように、彼女をじいっと。
その場にいる誰もが緊張した面持ちに変わった。
沈黙が長らく場を支配する。
それを破ったのは、レヴァリスではなく、かといって女王でもなかった。
「私どもがお会いしたいと願ったのは、楽師レヴァリス殿でございます。あなた様の外見が魔女そのものであろうがなかろうが、関係のないことでございます」
発言に、皆がその者を注視する。
その、可憐な声を発した者を。
レヴァリスも、髪飾りを鳴らしながら優しい声音の主を見やった。
その少女は、セルレ女王から1番近い下座にいた。にこりと笑っている少女の手には、4弦琵琶が握られている――楽師、だ。
少女と呼ぶには大人びた雰囲気を持った楽師は、会釈するように頭を下げた。
緩やかに波打つ金の髪。この地では決して見ることのできない病的な白い肌。一見してもわかるほどの整った顔立ち。
切りそろえられた前髪の下、額の飾りと同じ色をした青い双眸がレヴァリスを見つめてくる。
彼女はにこやかに、微笑みかけてきたのだが……レヴァリスが感じ取ったのは、激しい敵意。
瞳が、笑ってなどいない。
(……誰?)
どこかで会ったことがある。けれども、それがわからない。
誰なの?
レヴァリスは名を尋ねようとしたのだが、その動きを遮るように少女は自ら名乗りだした。
「テ・イェラと申します、レヴァリス殿。セルレ様の楽師を務めております。……レヴァリス様には遠く及ばぬ腕ではありますが」
さきほど聞いた、セルレ女王に勝るとも劣らない流暢(りゅうちょう)な大陸共通語がレヴァリスの耳に流れ込んでくる。するりと、何の違和感も抱かせず。
宮廷楽師独特の皮肉や刺々しさを感じさせない。
言葉を交わす今の雰囲気では、レヴァリスにとって、好感を覚える同業者なのだが……。
「ご謙遜を……お噂はこの地にも届いております、西の楽師テラ殿」
名を、一言一言噛みしめるように発声した。
西の楽師テ・イェラ。同じ楽師なら、聞いたことがない者もいないだろう。
技巧的な曲を奏でる技量はレヴァリスの上をゆくと言われている。そして、それをレヴァリスも認めていた。
人々は、その完璧に奏される楽に尊敬の念を込めて、彼女をこう呼んでいるのだ。
巧緻(こうち)なる楽の申し子、楽師テラ、と。
「ありがたきお言葉にございます。大陸一の楽師、レヴァリス殿から、かようなお褒めの言葉をいただき、テ・イェラは嬉しゅうございます」
「レヴァリス殿、あなたを呼び立てたのは他でもありません。そこにいる、我が楽師テラと共に楽を奏して欲しいのでございます」
レヴァリスは、一瞬、言われている言葉の意味を理解できなかった。
理解した後、彼女にしては珍しく、戸惑った面持ちでセエレ女王に顔を向けた。
「……共演、ということでございましょうか?」
信じがたい面持ちで訊ねる。
「そのとおりです。テラが、共に奏したい、と」
共演。
あまり聞かない申し出に、自然と眉根を寄せる。
確かに言った、共演と。
「どうでしょう、レヴァリス殿」
大陸一と名の高いレヴァリスと共に楽を奏するということが何を意味するというのか、セルレ女王も楽師テラも、十分に知っているようだった。
楽師にとって、共演とは「競演」なのだ。技量のあった者同士が奏しない限り、どちらかの未熟さが露見してしまうから。
(裏を返せば……)
レヴァリスは、視線を再び楽師テラへと戻す。
(自分は、渡り合えるだけの技量があるってことなの)
もしくは、渡り合えるのではなく、レヴァリスを超えるほどの技量を持つ、と。
(……どういう意図があるのか知らないけれど……)
共演自体は、馬鹿馬鹿しい、思っている。
レヴァリスの得意とする楽曲は、情緒豊かな緩やかな旋律の曲。
しかし、テラの得意とする楽曲は、感情の入りこむ余地さえない、全てを連れて走り去るような旋律の曲と聞いている。
この場に王女フィーラがいたら、そんな要望など柔らかい物言いで押し返していただろう。
暑さと寒さは共に在るべきものにあらず、と。
けれども、王女フィーラはこの場にはいない。
引き止める者は、いない。
(その申し出、受けようじゃない)
レヴァリスは、不適に笑んだ。
楽師として胸に抱く自負が、受けてたちなさいとけしかけてくる。
そして……。
(あなたと奏する機会なんて、これを逃したら2度と来ないわよね)
西にテラありと言われた楽を、心に刻んでおきたい。
「謹んでお受けいたします」
答えて、レヴァリスは深々と頭を下げる。
稲光を背に、テラの挑戦的な眼差しを全身で受け止めながら。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
緩(ゆる)く編んだ黒髪はところどころ解(ほつ)れており、風に弄(もてあそ)ばれ、宙で華麗に舞っている。けれども、髪に構っている暇などなかった。宴はもうすぐ始まるのだ。
広間を退室してからというもの、慌ただしいことこの上ない。
衣装係に引っ張っていかれ、それが一段落ついた頃、髪結係につかまった。
いつもなら、レヴァリスは自分で髪を結う。
楽師たるもの、男も女も自分で髪を結う。少しでも見目をよくすることで、誰かのお抱え楽師になって生活を保障してもらおう、そんな考えがあるからだ。ゆえに、宮廷楽師は自分で髪を結う必要がなく、宮廷の髪結係にやってもらうのが常である。宮廷の宴用に結ってもらうためでもあり、そこまで自分は上り詰めたと認識したいがためでもある。
が、レヴァリスは自分で髪を結っていた。
自分は宮廷楽師ではないから結ってもらう必要はないと拒絶しているが、本当の理由は別にあった。
(ったく、時間かかってこの有り様なんて)
踊る髪をそっと抑えて、心中で独白する。
宮廷の髪結係にやらせると、彼女たちはレヴァリスの倍の時間をかけて髪を結う。
黒髪を梳く動作、結う動作、すべての手つきは恐る恐るとしたものだから。
髪が怒って人を襲うわけでもない。けれども、黒髪は魔女の証――魔女を恐れていない者でも、黒髪に触れるのは怖いらしい。
(こんなことなら、髪結いの道具も持ってくればよかったわ)
宴に出ることになるとは思わなかったから、ほとんど何も持たずに城に来た。
4弦琵琶――決して手放せないそれ以外、何も持たずに城に来たのだ。
(せめて音合わせくらいはしたかったわね)
朝、占いの店を空ける前に必ず弦の調整はする。けれども、宴の前に音合わせも必ずしていた。
天候によって音色が左右するからであり、特に今日のような嵐の日は、弦の音色が変わっていてもおかしくないのだ。
微かに4弦を爪弾いて、その音を耳で判断する。
狂ってない、と自分を信じるしかない。自分を信じるしかないが――それで十分。
1つ頷いて、レヴァリスは顔を上げる。と、部屋の手前で佇む少女を瞳が捕らえた。
「……部屋に入ったらどう、テラ。宴はもうすぐ始まるわ」
暴れる金の髪を押さえることなく、楽器を抱えたテラは、振り向くと口の端を小さく歪(ゆが)めた。
笑っているのだ。無理に。
その証拠に、底冷えするような青い瞳は笑みの欠片(かけら)も宿すことなく、レヴァリスをじっと見つめてくる。
まるでレヴァリスを待っていたかのように。
「レヴァリス……」
発せられた言葉に、敬称は省かれていた。
「言うことはそれだけかしら?」
「……久しぶり、会いたかったわ……なんて言葉を期待している目じゃないわね」
きつい口調で言い返し、レヴァリスは目を細める。
稲光が、眩しい。
「何を、期待しているの?」
テラは、軽くウェーブをかけた金髪が風で踊るのを諌(いさ)めるように、掌(てのひら)でそっと押さえつける。動作は優しく、清楚な見た目を否定するものではない。だからこそ、レヴァリスの注がれる敵意剥き出しの眼差しだけが、彼女とは別の生き物であるかのようだ。
いや、これは敵意ではなく──殺意に近い。
レヴァリスは、そう感じ取った。
「レヴァリス、あなたに期待してるものなんて何もないわ」
王たちの御前、宮廷楽師らしい振る舞いのテラがまるで別人のように見える態度だ。
だが、この方がレヴァリスにはしっくりきた。
こちらの方が、素の彼女に近いから。
自分の知っているテラに近いから。
テラは、顔を心持ち上げる。そうして、上から人を見下すような仕草でしゃべり出した。
「あなたを探し出すのに2年もかかってしまったわ。……最初は信じられなかった、名に聞く楽師レヴァリスがあなたなんて。名が同じとはいえ、“魔女”の責め苦から逃げ出したあなたが、大陸のどこかで認められているなんて、信じられるはずなんてなかったわ」
胸に突き刺さる言葉を聞き流し、レヴァリスは微笑んだ。
「それで、そんなことを言うために共演なんて持ちかけたわけ? 自分の方が上手くなったと見せ付けたいだけならば、共演なんてやめておくことね。……お師匠さまが悲しむ」
レヴァリスが言い切るや否や、テラの態度がさらに変わる。
傍目にもわかるほどの憎悪が彼女を包んだ。
目をカッと見開き、奥歯を噛みしめるように微かに顔を歪ませて、テラは辺りを気にせず叫んだ。
「あなたが──」
稲光が走り、雷鳴が響き渡る。
その音にかきけされないテラの声が、レヴァリスの耳に届く。
「──師のことを口に出すな!」
様子が一変したことをレヴァリスは不審がる。
異常な反応……。
「あの方を、裏切ったくせに!」
続いて返された言葉に、レヴァリスはすぐに反応した。
違う、と。
「違わない! お師匠さまも私も捨てたくせに!」
「それは……」
レヴァリスは言葉を飲み込んで、テラをじっと眺め見る。
裏切ったわけではなかった。
けれども、捨てたのは事実だった。
師と妹分──弟弟子──を置いてあの国から逃げたのは、事実……。
事実だが。
(仕方がなかった)
あのままでは自分は殺されていた。そして、それをわかっていた師も、最後には逃げろと言ってレヴァリスを突き放した。
生きるために選んだ道。選ばなければならなかった道。
捨てられたと責められても反論できない。しかし。
「確かに、私はあなたたちを捨てたわ。でも、だからといって、私がお師匠さまのことを語る権利がないなんて、あなたには言わせない」
自分と師の間にあった絆さえも否定しようという勢いが今のテラには垣間見える。それが正直許せなくて、レヴァリスは思いのほか強い口調で言い返す。
つながりを断っても、遠く離れていても、自分が師と慕う人はただ1人……彼の音も、言葉も、志も、すべて忘れずに自分の身に刻んである。それを自分の中から消そうとするのは、誰であっても許せないのだ。
そんなレヴァリスの想いなど理解しようと思わないのか、テラは鼻で笑い飛ばす。それから、心持ち低い声音でレヴァリスに言った。
「……そんな都合のいいことを言うには、この十数年という月日は長すぎたのよ」
では、どうして今さら私を探してそんなことを言うの?
思った言葉を口に出しても得たい答えを与えてなどくれない。
レヴァリスにはわかていた。
だから、怒りに火を注がないために、レヴァリスは口を閉ざしたままだった。
それを、テラがどう感じ取ったのかはわからないが、テラは一度目を閉じてから、静かにその言葉を言い放った。
「殺す」
彼女の奏でる琵琶の高音に近しい声で、全身の毛を逆立てる気配を発しながら、テラは繰り返し言い放つ。
「私は、あなたを殺しに来た。我が師のために」
一言一言区切りながら、意思の強さを、言葉で、視線で、体全てで伝えてくる。
「どういうこと?」
「言葉どおりの意味よ。師のために、あなたを殺す。あなたのためのレクイエムを私が奏でてあげるから」
冗談だとは言わせない──語る瞳の強い光が、不意にやんわりと和らいだ。
「レヴァリス殿、行きましょう? ほら、宴が始まりますわ」
くっ、と小さく笑って、テラは部屋の中へ姿を消した。
その背にかける言葉などなかった。
謎かけは苦手じゃない。
(お師匠様に何かあったの?)
疑問は疑問のままで回る。
(わからない。けれども……)
レヴァリスは、4弦琵琶を抱きしめた。
(私には、何の選択権もない)
共演を受けた。
ならば、テラが何をしようとしているのか、その身をもって直に聞くしか手立てはない。
「全ては宴で紐解かれる――面白いじゃないの」
突如知らされた身の危険に、彼女はゴクリと唾を飲んだ。
脅えてはいなかった。
体の底から湧きあがるのは、言いようのない高揚感だった。
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