【第1夜】
喧騒の中を一弦の音が響き渡る。
高くもなく、また、低くもない音色が。
それは、うら若き少女の声音に酷似していた。
それは、壮年期の男性の声音に酷似していた。
それは、聴く者によって色の違う音であった。
ゆえに人々は、杯を卓の上へと戻し、談笑さえもやめ、店の奥へと視線を運ぶ。
できたばかりの静寂《しじま》の中で、彼女が爪弾く次の「声」を待った――。
「きれいな曲だったな」
前置きのないそんな賛辞は、突然頭上から降ってきた。
レヴァリスは、琵琶を傷つけないように入れた荷の紐を結び、ゆっくりと声の主を仰ぐ。
そこにいたのは自分より年下と思《おぼ》しき、声質に違わぬ青年であった。
「俺、あまり楽を知っているわけじゃないが、それでも、きれいな曲ってことはわかったぜ」
言いながら向かいの席に彼は座ったが、その物腰はこの酒場に溢れた男たちとはどこか違っていた。だからといって、許可も求めずに同じ卓についた彼の無遠慮さを甘受できず、レヴァリスは謝辞を述べるどころか内心を表すように眉根を寄せて彼を睨《ね》めた。
青年は、そんなレヴァリスの硬質な態度に目を細めた。そして、微笑んだのである。
「あんた、怒っても美人だな」
直接的な物言いは、計算ずくなのか、それとも素なのか。
一瞬、返すべき言葉を忘れて、レヴァリスは青年を凝視する。
何をどう言ってやろうか思案に思案を重ね、そうした後、しばらく経って口をついて出たのは――ため息だった。
「……あなた、変わってるって言われないかしら?」
「よく言われるよ、色んな意味で、ね。……ま、実際、そうなんだろうし」
なみなみと注がれた杯に口をつけ、青年は即答する。何の衒《てら》いもなく、客観的事実を述べるだけ、そんな口調で。
確かに、彼は変わっていた。それは、“異質”の代名詞であるレヴァリスもが認めるほどに。
その際たる部分は、外見だ。
まだ一口も飲んでいなかった酒で唇を湿らせ、レヴァリスは改めて彼を観察した。
最初に見たとき、レヴァリスは息をすることも忘れた。なぜならば、彼は黒髪の持ち主だったから。
まるで、夜の闇を切り取ったかのように、それはそれは見事な黒髪。自分のそれと同じもの。
もしかしたら……。幻想が脳裏をよぎった。
……次の瞬間には、彼の茶色い双眸を見つけ、自分の勘違いに彼女は口端を歪めたが。
(そうよ……簡単に出会うわけがない。黒髪黒目の者など)
杯を傾け、喉を焼く熱さの中で冷静にレヴァリスは確認する。自分の持つ黒髪と黒目が表す意味を。
それは、かつて大陸にいたと言われる魔女の落胤《らくいん》たる証。
天を焦がす炎、地を覆う水、万物を刻む風――伝承の中でしか語られない、人外の力の具現化。
魔女は滅びたとされている。それでも、時折、何かのいたずらで、紙に綴られた物語が偽りではないと明示するかのように、魔女を映した姿で生まれてくる者がいる。
レヴァリスのように。
それは本当に、稀少と言えるほどの確率で、本人が望むと望まざるとに関わらず。
今、レヴァリスの前にいる青年の瞳は黒ではない。けれども、何かを思い出すように瞼を閉じる彼は、早合点する者から見れば十分に魔女である。
泊まる宿を間違えれば、眠りから目覚めぬ夜を迎えることも容易いだろう。
そんな容姿でありながら、酒場の中で堂々と振舞っているのだ。店員でさえ目を合わせようとしないレヴァリスを真正面から見つめ、話し掛けてくる。――これを「変わっている」と評せずして何と言えばいいのか、レヴァリスにはわからなかった。
「……なぁ、聞いてる?」
唐突に話を切って、その青年がレヴァリスに問う。どうやら彼女が押し通していた沈黙の意味を遅まきながら解したようだ。
レヴァリスは何も言わず、卓に肘をついた姿勢のまま、漆黒の瞳で上目遣い気味に青年を見やった。
彼は、レヴァリスの眼差しを受け止めて、開きかけた口を閉じた。表情から和やかさが失われる。
ざわめいた、騒々しいながらも砕けた空気が彼らの周囲でだけ色を変える。まるで、切れる寸前まで強く引っ張った弦のような気配が2人の間に満ちた。
ようやく伸びたレヴァリスの髪が肩を滑り落ちる。見よ、我が色を――そう主張するように。
……先に声を発したのは青年の方だった。
「あんた……」
彼は、眩しいものでも直視するように、目を眇める。
「あんた、やっぱり、美人さんだ」
それを聞いて、レヴァリスは負けたように微笑んだ。
「ありがとう。あなただって、いい男じゃない」
知り合ったばかりの男に名を名乗るのはレヴァリスにとってはひどく珍しいことである。
それは相手にとっても同じようだった。確かめたわけではないが、会話の流れから互いにそうだと察っせられた。
「レヴァリス、っていい名前だ」
腕を組み、背もたれに寄りかかりながら、彼、ラグレクトが彼女の名前を何度も呟く。
底に残った酒を飲み干して、レヴァリスは素直に返す。
「ありがとう。でも、そんな風に言われたこと、あまりないわよ。男みたいだ、と評されたことはあったけど」
「男みたい? そうなのか?」
「さぁ、どうかしら。世界は広いから」
「世界は広い、か……そうかもな。俺のいたところじゃ、名前の末尾にスがつくのは高貴な女って決まってた。――馬鹿らしいくらいに」
最後の一語は、独白に近かった。そして、言葉の裏に、隠された感情の影をレヴァリスは目に留めた。触れるべき部分ではないと思い、それがどんなものか探ることもなく、見てみぬふりをしたが。
「あなたの名前も、いい名前だわ」
ラグレクト……口の中で発声し、レヴァリスは小さく頷く。
4本の弦を心のままに弾いた音色に似通った、自由な、澄んだ音を連ねた名前のように感じられる。
ただ、言われた本人は喜ぶ様子もなく、伏せるように視線を俯かせた。
「俺は、この名前が好きじゃない。捨てたいと思ったこともある……捨てても俺自身が変わるわけじゃないから、この名前のままだけど」
「……名前は、音の連なりよ」
わずかばかりの逡巡の後、レヴァリスは囁くように語りだす。
それは、もう、だいぶ前に、自分が崇める人から告げられた言葉。忘れることなく、心に刻まれた言葉。
何を言い出すのか、と訝って射抜くような眼差しをラグレクトが向けてくる。酔いが回っていないと暗に示す、そして恐らくは、彼自身の本質の一部である鋭い目、だ。
レヴァリスは動じない。
彼の態度が威嚇ではなく、怯えだと思ったから……ラグレクトのその視線の中には、語られる言葉への不安がちらちらと影を揺らしている。それをレヴァリスは見抜いた。
「誰かが紡ぎ上げた音の連なり、それが名前というもの。だから、万華鏡のように常に響きを変える。でも、見誤ってはいけない。音の連なりは、形を変えない。生まれてから死ぬまで形を変えない、変えられない。……だから、覚えておきなさい。大切なのは、その音をいかに奏するか、ということ」
「いかに、奏するか……」
「そう。他人の耳にどう響くのかが問題ではない。自分が、どう奏していくか、それが問題」
“だからレヴァリス、どこへ行こうとも、その名だけは捨ててはいけないよ”
別れの際に与えられた教えが胸中で蘇り、レヴァリスは奥歯を噛みしめる。
思い出の中の師の笑みは色あせていない。だが、現実には、彼は余命幾ばくもないという……。
「……レヴァリスって、さぁ……」
彼女を我に返した声は、掠れていた。
それほど大きな声でもなかった。
レヴァリスは続きを待つ。辛抱強く待つ。
瞬きを繰り返していたラグレクトは、やがて目を閉じて頭を傾けた。言葉を選んでいるようだった。が、思い当たらずに、彼は軽く頭《かぶり》を振った。
そうして、再びレヴァリスを見た彼の表情は、何か晴れ晴れしい。
「なに、どうしたの?」
つられたように笑んで、レヴァリスが聞き返す。
「いや、レヴァリスってさぁ、さっき、曲を弾いてるのを見て思ったんだけど、もしかして楽師?」
目を見張り、レヴァリスは声を上げて笑った。
この夜初めてのことであったし、それどころか、実に久しぶりのことであった。
「あのさ、レヴァリス、この後だけど……」
立ち上がりかけたラグレクトが言いかけたことを飲み込んだのは、事態は急転したからだ。
彼女は、視線を走らせる。不穏な空気をまとった男たちへ。
「ちょっと、話があるけどいいかい、楽師さん」
呂律の回らぬ口調で語気荒く告げてきた男たちは、身なりこそいいものの、無作法が人の形を作ったようなものだった。
舌打ちしたラグレクトが立ち上がったが、機先を制するようにレヴァリスが口を開いた。
「お店、出た方が良さそうね」
「まぁ、そういうことだ」
「レヴァリス」
さきほどまでの会話とは明らかに違うと分かる、低く抑えた声でラグレクトが名を呼んできた。彼の分まで貨幣を置いて、レヴァリスは荷を持って卓から離れた。
「レヴァリス」
追ってきたラグレクトに、彼女は目で伝える。
一緒に巻き込まれることはない、と。
だがしかし、ラグレクトはそんな彼女の訴えを無視してついてくる。
「レヴァリスって、本物の楽師だったのか」
「……ラグレクト」
「あぁ、俺、言うの忘れてたけど」
レヴァリスの言葉を遮って、ラグレクトは笑んでみせた。
「なんか、レヴァリスに惚れたっぽいんだよね」
目だけは真摯な色を称えたままで。
「……勝手になさい」
呆れたようにため息をついて、ただし、と彼女は付け加える。
「次に私が楽を奏するとき、それを聴かないようにね」
言われたことを理解しきれずに不審がるラグレクトをよそに、彼らは酒場の裏に出た。
表通りとは明らかに異なった情景がそこに在る。
月明かりを拒むようにひしめきあった建物たちが作った空間は、大立ち回りを演じることができないほど狭かった。
そこでレヴァリスを壁際に追い詰めるように囲む男たちの目が異様な輝きを見せていた。身長はさほど変わらないラグレクトが、それでもレヴァリスの視界から男たちを締め出すように前に立つ。
「おい、そこ、退けよ」
訊かずともわかる、命じることに慣れている言い方で男の1人が言う。
追従するように、別の若い男が声を上げた。
「魔女には仕置きが肝要なんだぜ」
下卑た笑いが辺りを包む。
その中で、最初にラグレクトに声をかけた男が腰の長剣を引き抜いた。
「怪我したくなければ、退けよ」
研ぎ澄まされた剣が、隙間からほんのわずかに差し込む月光に照らされ、眩い輝きを零す。
しかし、怯えることもせず、ラグレクトは鼻で笑った。
「ラグレクト」
「レヴァリス、ちょっとだけ待ってて。俺、こういう男って、大嫌いだから」
わざと聞こえる声で言ったラグレクトに、男たちが殺気立つ。争うように剣を鞘から抜いた。
挑発してどうすんのよ。
内心呆れながら、レヴァリスは荷から琵琶を取り出す。
果たしてラグレクトが、囁きさえも漏らすことなく聞き取れるこの距離で、彼女の楽を聴かぬようにすることができるかどうか――それはわからなかったが、騒動は好ましくない。
(奏する曲を選ぶ必要がありそうね)
勝手についてきた彼のことまで気を回す自分にどこか不思議な感じもしたが、レヴァリスは深く考え込まずに琵琶を構えた。
その刹那だった。
「我が力は理《ことわり》に逆らうものなり」
ラグレクトの玲瓏とした声が響き渡る。
誰もが眉をひそめる。レヴァリスとて例外ではない。
何をラグレクトが言い出したのか、わからなかった。
「過ぎ去りし時間から 舞い降りる桎梏《しっこく》なり
汝 我が前で留まれ
久遠《くおん》の時に飲まれ続けよ
我は 時の支配者なり!」
場を支配する空気が厳粛な音を発した――少なくともレヴァリスには、そう思えた。
男たちは顔にありありと驚愕を湛えた。自分たちの身に何が起こったのか、わからないまでも、そういった表情を形作ることは難しくなかったのだろう。
そして、その顔のまま、固まっていた。
「これは……」
「魔道だよ。今、あいつらの時を止めた」
何事でもないように言って振り向いたラグレクトを見つめ、レヴァリスは問うた。
「魔道?」
「あぁ……本当は、この力っていうか、この血のこと、ついさっきまで嫌ってた」
言って、ラグレクトは優しく笑む。
最初に会ったときから整った顔立ちをしていると思っていたが、女性ならば誰もが虜になりそうな笑みだった。
ラグレクトは、レヴァリスの髪に触れ、そこに口付ける。洗練された彼の動作が儀式めいた意味合いを持たせる。
仰ぐ茶色い瞳を注視し、レヴァリスは何も言わなかった。
「でも、さっきレヴァリス、言っただろ? 問題なのは、自分がどう奏するか、だって。……それ、ずっと前に、尊敬している人に言われたのと同じことだった。だから、俺、この力とかこの血をどんなに嫌っても逃げずにいようと決めたときのこと、思い出したんだぜ」
「ラグレクト」
「レヴァリス、俺、言ったろ? あんたに惚れたっぽいって……しかも、本気かもしれない」
言いながら、ラグレクトは距離を縮めるようにレヴァリスに顔を近づけてくる。
決して逸らされない眼差しが、青年の唇が求めるものを知りつつ、レヴァリスは半歩身を退けた。
「……レヴァリス?」
「そういう言葉は、若いお嬢さんにでも言ってあげなさい」
琵琶を構える。時を止めた、というのがどんなことかはわからないが、いつまでもそのままにはしておけない。
レヴァリスは、4つの弦を1本ずつ、試すように弾き鳴らす。
「ラグレクト」
「なに、レヴァリス?」
「あなたの、その魔道っていうので、私の音色を聴かないことってできるかしら?」
「……できるけれど、なんで?」
「じゃあ、これから楽を奏するから、聴かないでちょうだい」
「ねぇ、なんで?」
レヴァリスは、艶やかな唇にいたずらめいた笑みを乗せて、彼に告げる。
「さぁ、なぜかしら? 言えることは1つ。あなたが私を求めるのであれば、私が奏でる音を聴くべきではないわ。他人の音色に惑わされない、って決めたのでしょう?」
返答を待たずに、爪弾かれた弦に合わせ、彼女の凛とした声が空気を伝っていく。
それに合わせ、レヴァリスの背から白い世界が広がった。――3枚の翼が、広げられた。
天上に在る数多《あまた》の星よ
汝の懐へ抱きたまえ
愛しき迷い子たちの心を
天上に在る強く儚き女王よ
汝の腕《かいな》で包みたまえ
愛しき迷い子たちの心を
旋律は、高くもなく低くもなく。
緩やかに、水面を撫でる風のごとく。
伸ばされた音が長く響き、消え去ろうとしているときに、また新たな音が生まれる。
生まれ消えていく波紋に似た、緩やかな子守歌。
白き新しき世界の前に
かの者たちの胸裏にある空洞を埋めたまえ
今宵は誰もに優しき口付けを
忘れえぬほどに優しき口付けを
最後の一音を聴く者はいなかった。
琵琶を荷に入れた後で、レヴァリスは彼女の傍で倒れているラグレクトを抱き起こした。
上手い具合に手近に木箱があったため、そこへ彼の身体を寄せる。不意に寝息が、頬にかかった。
レヴァリスは小さく笑う。
「だから言ったでしょう? あなたが私を求めるのであれば、私が奏でる音を聴くべきではない、と」
答える言葉はなく、その瞼に軽く唇を押し当ててレヴァリスは立ち上がった。
見上げると、建物と建物の間に顔を出した月が見える。
大地を蹴る寸前に、レヴァリスはラグレクトへ目を向けた。
「……さようなら、いい夢を」
そして、薄暗く狭いその世界から、彼女は3枚の翼で飛び立っていく。
舞い落ちる羽のうちの幾つかが、名残惜しいのか、ラグレクトの髪に、首筋に、腕にそっと身を寄せた。
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