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● 星より甘やかに  ●

 そろそろ雪が降りはじめるかもしれない。
 数時間前とは打って変わって今にも落ちてきそうな空を見上げ、俺は「思いのほか長居しちゃったな」と背後を、閉じたばかりの門扉の向こう側を見やった。
 いつものように新年の挨拶だけをして帰るつもりだった。だが、今年はそう簡単に帰してはもらえなかった。去年の暮れから何かと理由をつけて逃げ回っていた俺が悪いといえば悪い、それは十分すぎるほどわかっているけれども……まさか元日からみっちりお説教を食らうとは思いもよらなかった。苦笑の一つも漏れてしまう。
 ただ、耳に痛かった忠言のほとんどは「顔を合わせたら言われるかもしれない」と思っていたもので――だからこそ年末から会わないように逃げていたんだが――、席を立つきっかけを奪っていたのはそれらではなく、覚悟なんて全然していなかった、出されると思ってもみなかった話題の方だった。
(将棋指しが読めるのは盤上での流れのみってことだよな)
 他人の胸の内を読めないのも致し方ない。
 天気も同様。
「とりあえず、通りまで出てタクシーでも……」
 降られる前に帰る算段を自分自身に確認するように口に出す。それが途中で止まったのは遠くから声をかけられたからだ。
 それも辺り一帯に響くような大声で。
「秋吉さーん!」
 一拍置いてから、驚きと気恥ずかしさが一緒にやってきた。
 慌てて声がした方へと顔を向ける。と言っても、相手は誰だかわかっている。こんな閑静な住宅街で無頓着に声を限りに人の名前を呼ぶ女の子なんて知り合いに一人しかいない。
 先生の娘さん、文恵ちゃんだ。
 誰だかわかっているのだから、眼鏡の奥から目を凝らして確かめる必要なんてない。それでも顔を向けたのは唇に人差し指を当てた意思表示を伝えるためだ。このままでは近くに来るまで何度も呼ばれてしまう、きっと。
 幸いにして、文恵ちゃんに俺の気持ちはすぐ伝わった。口が「あ」の形のまま止まったので間一髪といったところだったが、彼女は照れたように笑みを浮かべてから小さく頷いてくれた。
 同時に駆け足気味だった歩調もやや緩んだ。振袖姿で走るのに慣れていないからだろう。これが普段のようにパンツ姿ならばこちらに声をかけることもなくやってきて飛びついたに違いない。彼女の父親の門下生となって十年あまり、小学生の時分から見ているが彼女の言動は年が経っても変わらない。……もうすぐ成人なのだからそういうところは変わって欲しいと俺は密かに思っている。
「秋吉さん、いつ来たの? もう帰るの? もっとゆっくりしていけば? お夕飯まで居ても構わないよ?」
 わずかに弾んだ息を抑えず、弾丸のように放たれる質問。
 俺は面食らうこともなく一呼吸置いてから口を開いた。
「文恵ちゃん、あけましておめでとう」
「あ……忘れてた。あけましておめでとうございます」
「初詣の帰り?」
「そう。八人っていう大人数で初詣。今年で卒業だから気合入れることになっちゃってね、すごい人出だってわかったのに行ってきたの」
 続けざまに一緒に行ったという友だち七人の名前――はっきり言ってどうでもいい――が出そうになったので、俺は会話の舵をぶん取るように自分の行動について話す。
「それは、お疲れ様。俺はお昼過ぎにご挨拶に来てね、ちょうど帰るところ」
「もうちょっといればいいのに」
「いや、もう十分お邪魔させてもらったから」
 雪が降る前に帰らないと道が混んじゃうし。
 そう継ごうとしたところで、文恵ちゃんが軽く首を傾げる。何か考え込むように。
 彼女が気を留めるようなことなんて言った覚えがないから、俺は、頭半分低い彼女の顔をうかがった。
 でもって、ものの数秒で目を逸らす。
 唇を彩る艶やかな紅梅――目に焼きついたその色が印象的で、意味もなく眼鏡を外したりする。
 その隙を突かれた。
 俺は眼鏡を持った腕を前触れなく掴まれ、動揺をそのまま口から溢れ出させる。
「ふ、ふ、ふ、文恵ちゃん?」
「じゃあ、駅まで送ってあげるから少し遠回りして初詣行こう!」
「え、え、え?」
 俺はもうとっくに氏神様に二年参りも済ませている。
 文恵ちゃんにしても、初詣に行ってきたばかりじゃないか?
 そんなことを言う余裕など俺にはなく、それを知ってか知らずか、文恵ちゃんは俺の腕に自分のを絡めてさっさと歩き始める。
「さぁ、初詣へレッツ・ゴー!」
 俺はため息をつき、ロングコートのポケットに突っ込んでいた左手で眼鏡をかけなおすと引っ張られながら文恵ちゃんに従った。
 こうなったら彼女のペースだ。逆らっても仕方ないと俺は知っていた。


 ……思い返すと彼女にはいつも押し切られてばかりいる。
 それは初めて会ったとき――俺がまだ高校生を卒業したての頃――からそうだった。だから、振り回されるのも慣れているといえば慣れている。
 少なくとも神社の階段を三十段以上のぼるよりは慣れている。
「秋吉さん、運動不足なんじゃない?」
 お参りをさっさと済ませて境内のお店に腰を下ろすと、傍らで文恵ちゃんがおかしそうに笑って言った。
「わかっているよ、放っておいてくれ」
 流して、俺はお店のおばさんに甘酒を二つ頼む。
 それほど寒さを感じてはいない。一息つきたくて頼んでみた。
 文恵ちゃんは、お店のおばさんから渡された紙コップを受け取ってから俺に向かって「ごちそう様です」と大人びた挨拶をした。問題はそこからだ。俺がゆっくりと甘酒を一口飲むのを待って、彼女は遠慮なく唐突に切り込んできた。
「……で、次の対局、勝てる自信あるんだよね?」
 一瞬、固まる。
 またこの話題か、と内心うんざりした。年末の対局からこっち、会う人に漏れなく聞かれている。
 無論、尋ねる方の気持ちもわからなくはない。
 次の対局はタイトル戦への挑戦者を決める大一番。しかも、相手は棋界でも屈指の実力者である。自分が逆の立場ならば、彼女ほどにストレートな聞き方はしないまでも「勝算はどの程度あるのか」とそれとなく質問していただろう。
「うん、まぁ、勝てるように指すけどね」
 一見すると余裕がありそうな曖昧な口調でそう答えてみせたが、本音を言ってしまえば、あまり自信がなかった。
 やるからには勝とうと思っている。
 それも嘘偽らざる心境なのだけれども……勝てると思っていた年末の対局で負けてしまったのが頭の中から離れずにいるのもまた事実。つい先刻など、この弱気な部分を先生に見抜かれて「気合が足りんから負けたんだ、馬鹿者!」と怒鳴られたばかりだった。
 文恵ちゃんはそんな先生の娘さんである。
 顔は似ていないが血はちゃんと受け継がれているらしい。即座に怒ったような口調の叱責が飛んできた。
「勝てるように指すなんて当たり前のこと言わないでよ! 勝つって言いきるくらい強気ではなくちゃ!」
「そうかもしれないけどねぇ……」
 語尾を甘酒をすする音で濁して、俺は声に出さずに呟く。
(そう簡単に言えれば俺も楽なんだけどね)
 強気な発言には、それを支えるだけの実力が必要だ。あるいは、根拠の無い自信。
 今回の相手を前にして、俺はそのどちらも持ち合わせていない。
 自分の強さを知っている。
 相手の強さも知っている。
 比較してどちらが強いのか、知りたくなくても知っている。
「勝ちたいとは思っているよ。そのために持てる力をすべて出せればいいなとも思っているし」
「じゃあ……」
「でも、勝負には時の運ってのもあるからね」
「……それって、逃げの言葉っぽいよ。秋吉さん」
 きっぱりと、容赦なく、呆れた様子で文恵ちゃんが一言。
 俺は笑ってごまかす。
 ――彼女の指摘は正しい。
 勝てる、勝てる自信がある、勝つつもりだ……景気のいい言葉を一つも発さないのは負けたときの逃げ場所がなくなるのを避けるため。
 臆病者と言われてしまうかもしれない。
 でも、勝つ楽しさと嬉しさだけを追いかけて純粋に将棋を指していた頃とは違う。他の道を探すことができたあの頃とは違う。それでもこの世界で俺は生きていかないといけない。だから逃げ道くらい用意してしまうものじゃないかと……思う。
「あーもー、これだから秋吉さんはっ!」
 やおら、文恵ちゃんがため息をついて立ち上がった。
 考え沈んでいた俺は弾かれたように顔を上げる。真剣で深刻そうな目に出会い、戸惑う。
「秋吉さん! 目、つぶって! 口開けて!」
「え?」
「いいから!」
 勢いよく降ってきた命令には否やを許す気配などない。
 何だかわけがわからぬまま目をつぶり、少々間抜けだと思いながらも口を開けた。
 さして間を置かずに口内に、舌の上に、何かが投げ込まれる。
 半ば反射的に唇を閉じ、正体を探った。ごつごつとした甘い感覚……。
 懐かしさと不思議さに驚きながら俺は静かに瞼を持ち上げて、立ったままの文恵ちゃんを見上げた。
「……これ、金平糖?」
「当たり」
 にっこり笑って、彼女が持っていた巾着袋から取り出したのは金平糖の袋だった。俺でも名前を知っている有名な店のものだ。なんで彼女の巾着からそれが出てきたのかはわからないけれども。
「これ、本当はお父さんのなの」
「先生の? 先生、甘いもの苦手じゃなかったっけ?」
「苦手なんだけどこれだけは別なの。どうしてか、秋吉さん、わかる?」
 思いもよらぬ謎かけに、言葉に詰まる。
 文恵ちゃんは目の高さまで金平糖の袋を持ち上げてからゆっくり言った。
「か・ち・ぼ・し」
 それから、金平糖を取り出すと、その白くて小さい姿を俺に見せてから彼女も一つ口に含む。
「白星を食べる、ってことらしいの。あのお父さんがこんな験かつぎするなんて意外じゃない?」
 彼女がくれた金平糖を舐めながら、俺は一も二もなく首を縦に振る。
 本当に意外だったからだ。
 験かつぎ自体は棋士にとっては珍しくない話だ。大事な対局で右足から足袋を履いたら勝った、それ以来、ここぞというときには決まって右から足袋を履くことにしている……そういった逸話も時々耳にする。
 ただ、先生はそんなことなどしない人だと思っていた。
 恃むべきは己の力、勝負に敗れるときは単純に力が足りなかったそれだけの話、だから常日頃から己を鍛えることが大切なのだ――というのが口癖の人なのである。
「ねぇ、秋吉さん」
 再び袋から金平糖を取り出して口に投げ入れ、文恵ちゃんはどこか改まった様子で話し始めた。
「うちのお父さんって迷信とかあまり信じる方じゃないよね? なら、なんでこんなことしているんだと思う?」
 勝ちたいからなんだよね。
 彼女の囁きに、俺は、彼女の手にある袋を凝視する。
 秘密の袋。そこから飛び出てくる秘密の話。
「昔は強かったけど、最近はそうでもないじゃない? でも、お父さん、対局の前日は弱気なことなんて言わないで渋い顔して金平糖食べてるの。すごくおっかしいんだけど、すごいなとも思う。勝つためにできることは何でもするって決めてる、その真っ直ぐさがすごいなって思うの」
「真っ直ぐさ……」
「うん、そう。ひたすら前へ前へ。迷わずに、前へ前へ。前しか道がないから――生きていくって決めてこれからも歩いていく道が前にしかないから」
 虚を突かれた。俺は言葉を失った。ただ彼女を呆然と見つめた。
 ……彼女は俺たちの世界の住人じゃない。
 けれども、間近で多くのことを見聞きしてきている。だから、たぶん、何となくわかっているのだ。
 大切なことが何か。
 安全な場所を確保して、何があっても傷つかないように自分を守って……そんな中途半端に進んでちゃいけないということ。
 立ち止まっても迷い歩いても、道は一本だけなのだから。
 人生と同じ、目の前に伸びている道を俺たちは歩いていくだけなのだから。
「で、秋吉さん。次の対局、勝てる自信は?」
 わざとらしい咳払いをして、文恵ちゃんが話を随分と前まで戻す。
 どう答えようか逡巡したのはほんの数秒、とても短い間。
 俺は、昔から俺を振り回してやまない――いつだって励ましてくれる――彼女にちらっと笑みを向けた。
「だから、勝負は時の運だって。でも……勝てるんじゃないかと思うよ。貴重なもの、もらったから」
 俺の返答は彼女を満足させたのか。
 文恵ちゃんは手の平にある余った金平糖を口に入れると俺の隣に腰掛け、もう対局の話はしなかった。代わりにこんなことを言う。
「でも、これ、お父さんの白星なんだよね……」
「あ、そっか。……って、それ、まずいかもしれない。先生の星、取っちゃったことになるのかな?」
「いいよ、私もこうやってよくもらってるし」
「……先生、ここのところ負けこんでなかった?」
 二人して顔を見合わせ、どちらともなく声を立てて笑う。
 そこでふと、視界に入ったものが気になって俺は空を仰いだ。
 釣られた文恵ちゃんも視線を同じ方へとやり、ひっそりとした歓声を上げる。
 雪が、降りはじめた。
 これは家まで帰るのが一苦労だと思いつつ、俺は思ったほど憂鬱にはなっていない自分に気づく。それはきっと、どさくさに紛れてそうっと俺に寄りかかってきた彼女が「勝ち星、たくさん降ってきたよ」と金平糖よりも甘やかに言ってくれたからに違いない。
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