【Novelism】へ戻る

● 勝者に至る誓約  ●

 臨む遠景には無駄に多い星々が見えるだけで取り立てて目を惹くようなものは何一つない――おそらく、軍はまだ砂漠ディ・ヴューステに足を踏み入れていないのだろう。
 ゲルトヴァインは大きく息を吐き出した。
 そうして肩の力を抜いて初めて己の右手が剣の鞘を握り締めていたことに気づく。彼は思わず苦笑も漏らした。
 敵影を見つけてもこの距離ならば剣を抜いて斬りかかる必要はない。それなのに我知らず腰に手が伸びていたのは、何があっても逃げ切ってやるという気負いのせいだ。
 もっと力を抜け。
 自身に命じるようにゲルトヴァインは低く呟く。王立軍に入り十五年、王弟殿下の近衛となって八年の身が己に語るにしては情けない言葉だという思いも一瞬だけ過ぎったが……はたで聞いている部下などいない現状では気にするようなことでもなかろうと結論を出し、彼は唇を真一文字に引き結んだ。
「珍しいな、君がそんなことを言うなんて」
 ――いや、いた。
 当てが外れた。近くに人がいた。しかも、聞かれた。
 愕然としたことで動揺を隠すことすら忘れ、ゲルトヴァインは声が聞こえてきた方へ気忙しく向き直る。
 双眸が捉えたのは暗がりに埋もれる人影。
 誰何すいかは為さない。完全に気配を断って彼の後背を取れる人間など片手の指の数ほどだが、その中の誰なのかと探りを入れずとも相手の目星をつけることは造作もないからだ。――笑いを噛み殺したような声音を聞けば嫌でもわかる。
殿下ホーハイト
 放ったのはたった一言。
 その一言が彼の剣さばき同様に、鋭く、容赦がなかったからだろう……言いたいことのすべては余すところなく相手に通じたらしい。
 現れた人物、ゲルトヴァインの主人であるリヒトハイネ王弟殿下は長々とした弁解を口にしながら暗闇より抜け出してきたのだ。
「……私だってたまには星くらい見たいんだよ。もちろん、私自身が星になるのはごめんだからね、そういう危険があるような状態だったらこんな風に出てきたりなんてしないさ。でも、様子を見てくると言って出て行った君の横顔には余裕があった。だから、私がこうしてここにいるのは、突き詰めれば君の責任ということだよ。君の珍しい呟きを聞いてしまったのはそういう理由だ、他意はない。だから、責めるならば私ではなく君自身を責めて欲しいな。うん、私はそう思う」
 どんな反論も言わせないぞと言外に主張する長台詞を一息に紡ぎ、唯一無二の剣のあるじ、リヒトハイネが最後に大きく首を縦に振る。月光を浴びた彼の銀髪が、王家の威光を示すように微かな煌めきを、放った。
 しかし、ゲルトヴァインは恐縮して膝を折ったりはしなかった。一回り下の主の人為ひととなりを熟知している彼は、眉間に深く刻まれた十字の古傷へ皺を寄せるように顔をしかめただけである。
 結果として、しばらく、主従の間には沈黙が幅を利かせた。それがさして長い時間にならなかったのは、いつものように居心地の悪さを感じたリヒトハイネがさっさとを上げたからだった。
「……悪かったよ」
 視線を外し、銀髪の王弟殿下は鼻の上に乗っけた眼鏡ブリレを右の中指で押し上げながら簡潔に詫びる。やや拗ねた口調で。
「いえ」
 無礼なほどに素っ気無い短答で応じる一方、ゲルトヴァインはその口調に対して内心で「困ったお方だ」と嘆息をこぼす。
 もうじき三十に届く年齢だというのに、リヒトハイネにはまだまだ子供じみたところがある。それを垣間見せられるたびにゲルトヴァインは、大陸全土で「若き魔導学術の権威アイネ・ユンゲ・ツァオベラー」と謳われる聡明な学者は目の前にいる「リヒトハイネ」と同名の別人なのではないか、そう疑ってかかったりもする。
 だがしかし――。
「……本当に悪いとお思いでしたら、身の安全が図られるまで、決してお一人で出歩きませぬよう」
 彼は自分の想像が現実逃避でしかないことも同時に知っていた。
 知らずにはおれなかった。
 常に視線の先で、主人の左腕――だらりと垂れた、中が空洞であると示す袖の部分――が夢想を砕いて囁き教えるのである。
 眼前の人物がリヒトハイネ本人であることを……自分たちが追われる身であること、「死」という完全な敗北まで近しい位置にいることと併せて。


 ゲルトヴァインの仕えるリヒトハイネ王弟は今や王立軍に追われる身である。
 しかし、彼はもちろん最初からそのような立場に置かれてはいなかった。数年前までは、逆に、王立軍に命を下すことも可能な地位にいたのである。
 彼は現王にとって唯一の同腹の弟であるが、その名は血のつながりよりもむしろ学術方面での功績によって広く知られている。今から五年前のことだが、それまで「未知なる力デア・ヴィント・アルス・ゴッテス」と称されていた不可思議な力を特定言語を用いて自由自在に操る「魔導ツァオベライ」として確立させた者こそ他ならぬリヒトハイネだった。その革命的というよりも奇跡的な日以降、大陸全土で生活水準が劇的に向上した現実を見れば、彼が地位や年齢とは関係なく、彼が生み出したものの「父親」として名が通るのも頷けるというものだった。
 当の本人は「自分の興味をあれこれ追求しただけだから」と賛辞にはいつでも無関心でいた。が、彼の掛け値なしの本音は、多くの者に「王弟殿下は成果を鼻にかけぬ、どこまでも無欲な学者」という賞賛の言葉を紡がせ、やがて、同様の研究を行っていた王立魔導院に対する「国費を食うだけの能無し連中」といった批判を生み出し……結果を先に言ってしまえば、大きく王立史を塗り替える発端となった。
 ――己の存在意義を知らしめるために躍起になった王立魔導院による「魔導ツァオベライ」戦術応用の発案と実施に始まり、リヒトハイネの反対声明および研究資料の公開中止の発表。これを受けた魔導院は「提言」と称して王立軍を動かし、情報漏洩防止を目的としたリヒトハイネ幽閉を敢行。
 賛成反対両派の歯車ががっちり噛み合い回り出して、あとはもう混迷と呼ばれる状況へ転がり落ちていくだけだった。
 王国民、特に研究者を中心とした王立軍批判と現王批判。「王国の良心」と呼ばれる王立議会の軍上層部解任決議、王命によるその議決無効化発表、王の独善的決定への反発と王権交代運動の発生、王立軍の取り締まり強化、運動の激化、民と軍の衝突……。
 王国は、この五年で変わり果てた。
 すべての起因となった、今でも旗印とされ王になることを望まれているリヒトハイネはその五年の間に考え――国を出る道を選んだ。
 左腕を犠牲にして。


「足元にお気をつけください、殿下ホーハイト
 もろい黄土の地を踏みゆっくりと進む隻腕の王族学者、彼の真っ直ぐ伸びた背を見つめながらゲルトヴァインは注意を促す。主人は、もともと何もないところでも平気で転ぶほどそそっかしいが、片腕を失くしてからというものそれがひどくなったようにも思えた。
 その危なっかしい主人リヒトハイネが、背を向けたまま思い出した様子で彼に尋ねたのは、もうすっかり忘れていると思っていた、ゲルトヴァインの先ほどの独白についてだ。
「ゲルトヴァイン、君のさっきの『力を抜け』って言葉……呪願ビッテ、だよねぇ?」
 ――やはり来たか。
 聞かれたことがわかったときから、絶対にただされると予想していた。それゆえに、ゲルトヴァインは狼狽することもなしに「そうです」と無表情な声で返す。
 すると、銀の王弟殿下は、「呪願ビッテ」と呟いてから足を止め、振り返って彼を凝視した。逃亡により痛々しいほど痩せこけた顔が、しかし、労苦を感じ取らせない笑みを浮かべる。
「実利主義者で剣術至上主義者の君がまさか使うとは思わなかったよ……子供みたいに『おまじないビッテ』を」
 勘違いされては困る。
 確かに、自分は王弟殿下に一番近い存在でありながら周囲が唖然とするくらい「魔導ツァオベライ」を毛嫌いしているけれども、だからといってその存在をも否定しているわけではない。行使することが有益だとわかったときは、むしろ、積極的に用いる。
 ……そう言おうとして、寸でのところでゲルトヴァインは口を閉じた。言っても意味がないと気づいたのだ。自分が「子供みたいに『おまじないビッテ』」を使った事は事実で、王弟殿下が面白がっているのは他でもないその事実なのだから。
 結局、彼は新たに黙考した上で無難な答えを選んだ。
「……気分転換のようなものです」
「気分転換ねぇ。君は言葉一つで思考の切り替えができるほど器用な人間じゃないと思っていたけど」
 遠慮もなにもない言葉が揶揄からかいの色を伴って向けられた。続けて放たれた言葉も冗談の類だと思わせるかのように、軽やかに。
「今でもまだ、時々、君は死に急ぐような目をする。私の首を取って、すべてにケリをつけたそうな顔をする。戦い続けろと言った私を恨むように、ね」
 ――ゲルトヴァインの顔がこわばる。
 自分の意識の根底にある、消え去らない暗い部分をさらけ出していた。そればかりか、あろうことか、一番知られたくない相手に見透かされていた。
(この人は……やはり俺を信じていないのだろうか?)
 星を見たかったと言って現れたのは、様子を探るためか?
 疑念が胸の内側より湧き出でてきたが、言葉にする前にリヒトハイネの声が陰鬱な思考を制止させた。
「まぁ、私だったらいくら煮詰まっていても剣を振るったりはしないけどなぁ」
「……ぜひ、今後もそうしていてください」
「やけに強調するね」
「自分の立場を心得ているだけです」
 危険すぎると思っているからです――とは口に出さない分別を、もちろん、ゲルトヴァインは持ち合わせていた。
 しかしながら、五年も付き合いがあれば考えていることなどお互いに筒抜けのようなものらしく、リヒトハイネは眼鏡ブリレの奥の瞳を不機嫌な色に染める。続けて、声にも表わそうとしたが、彼は口を開いただけで何も言わなかった。
 言えなかった。
 足元に矢が突き刺さったために。
殿下マイネ・ホーハイト!」
 吠えるように叫び、ゲルトヴァインは剣を抜き放ってリヒトハイネの元へ駆け寄ろうとする。たかだか数歩の距離、難しいことではないと思っていたのだ。
 ところが、立て続けに自分の足元にも数本の矢が屹立し、意思とは反対にゲルトヴァインの身体は後方へと下がる。思わず我知らず舌打ちをする。同時に聞こえてきた王弟殿下のうめくような声と倒れこむ音に、憤りに近い苛立ちも抱いた。
(……どこにいる!)
 攻撃を受ける範囲には敵の姿などなかったはず。
 見落としていたというのか?
 そんな致命的な失敗など、自分は――。
「ヴァイン!」
 名を呼ばれ、混乱が生じさせた暴走気味の思考回路が停止させられる。
「こっちに来るな! 自分で何とかする!」
 飛んでくるのは叱責含みの命令。
 その内容に頭の中がカッとなった。
 来るな? 自分で何とかする?
 矢が射られてくる方向も確認できないこの状況で、どうやって! どうやって敵襲を潜り抜けると!
(俺を信じていない?)
 またぞろ暗い気持ちが頭を擡げた刹那、リヒトハイネがすべてを打ち消すように叫んだ。
「囲まれてるんだ、いいから逃げろ!」
「あなたはなんだって、いつだって、そうやって……!」
 できないことを言うんだ!
 思わず、怒声がゲルトヴァインの口を衝いて出た。
 彼が自分をどう見ているのかなど、頭の中から抜け去っていた。怒りとも悔しさとも知れぬ感情が胸裏を埋めていた。
 リヒトハイネは言う。いつも言う。できないことを、言う。
 自分が死に瀕したときも「君だけは絶対に死ぬな」と。
 腕を失ったことも「君が気にすることじゃない」と。
 あなたはいつだって、いつだって、できもしないことを言う。命じる。
 簡単に……至極、簡単に!
(あなたは一番最初に「逃げるな」と命じた! 自分も「魔導ツァオベライ」からは逃げないと言った口で、あなたは――)
 反論しかけた彼は、刹那に、見つけた。
 状況を打開するための突破口を。
 そして、“それ”を見つけた上はためらわなかった。
 為すべきことはわかっているのだ。
 どんな惨めな姿になっても負けたりなんてしない……生きると言い切った主人のために為すべきことはわかっている!
「――我、魔導言語にて構築すアウフバウエン
 剣を砂礫の大地に突きたて、一刻を争うようにゲルトヴァインは早口で唱える。
 それは、大嫌いな「魔導ツァオベライ」。
一にアイン、光明をもって仇なす者を捉えリヒト・フィンデン・デス・ファインデ
 二にツヴァイ、掲げた掌を介してドンナー・フォル裁きの雷を招聘すグトゥ・ミィア
 そしてドライ我は打ち込もう、愚か者へ終焉の楔をマイネ・ドンナー・エントライセン・ドゥーム・レーベン
 言い切った刹那、これで合っているはずだと己の言い聞かせるよりも断然早く、晴れた夜空から閃光が周囲に降り立った。
 魔導成功。
 地鳴りを思わせる大音響が鼓膜を震わせる。
 まばゆさに目を眇めつつ、浮き足立たぬよう、ゲルトヴァインは剣を再び構えて敵の出方を待つ。辺りが静けさを取り戻すまで、雷撃で敵を掃討させたことがわからなかったからだ。
 やがて、小さな、どことなく嬉しそうな声が、敵を一掃させたことを別の言い方で伝えてきた。
「好きじゃないとか言っていたくせに、君は、私が知っている誰よりも上手に魔導ツァオベライを扱えるんじゃないか。しかも、完璧な戦術利用」
 そういうのって卑怯だと思う。
 音もなく急速に引いた煙の向こう側、砂に半分埋もれた姿で王弟殿下が言った。最後の一言は相変わらず拗ねたような口調で。
 無事だ。
 軽口を叩けるほどに元気だ。
 血で濡れることのなかった剣を鞘に収めると、ゲルトヴァインは内心胸を撫で下ろしたことなど億尾にも出さず、しれっと言い返した。
「……実利主義者ですから」
「それと、『おまじないビッテ』が効いたから?」
 何があってもその話から離れない気なのかと少々うんざりしたが、ため息をつこうと思っていた唇はわずかに開いた後に緩く端を持ち上がる。
 ――彼が左腕を失ったとき、この国から生きて出ることは難しいと思った。けれども、彼を見捨てて生きていこうなどとは思わなかった。
 こんな風に言葉を交わせる主人など、王族広しといえども変わり者の学者・リヒトハイネ以外には見つけられないから……剣と心が折れた人間に再び戦うことを選ばせ、生きるという「勝ち方」を共に勝ち取りに行ってくれる相手に出会う幸運など、もう、きっとないから。
「そんなに気にかかるのでしたら、殿下もお試しになられてはいかがですか……『おまじないビッテ』」
 本当に効用があるかどうかはわからない。
 でも、とゲルトヴァインは思う。
 この世界では言ったもの勝ちだ。
 念じた者が……信じた者が、勝つ。
 それを元から知っている彼の主君は、砂地から自力で立ち上がると臣下の不遜な進言に肩を竦めて顎をしゃっくった。
「そうするよ――えぇと、もっと肩の力を抜け、だっけ?」
 導かれるように示された方を向くと、部下の一人が駆け寄ってくる。
 話はまだ続いていたのかと苦笑しかけたゲルトヴァインの横を、風が、走った。
 いいや、風ではない。
 空を裂き走っていったのは――リヒトハイネが冗談まじりに「魔除け」と言って携帯している短刀だ。それが真っ直ぐ、綺麗に、持ち主の髪が見せた輝きに似た光を一瞬だけ垣間見せ、駆けつけてくる部下の胸に吸い込まれていった。
「……さっき言ったことをもう一度繰り返すけど、私自身が星になるのはごめんだよ。そういう危険があるような状態だったから、君のところにまで行っていたんだど……おかげで、よく効く呪願ビッテを教えてもらえて得したなぁ」
 物分りの悪い生徒に教える口調で説いた王弟殿下は、眼鏡ブリレを外して満面の笑みを見せる。
 ようやく知った敵襲の正体と、それを見抜いていた主君。
 双方に驚愕したゲルトヴァインは、大きく息を吐き出し、言葉を選び、何をどう考え込んでも言いたいことは一つなのだと気づいた後に心を落ち着けて低く呟いた。
「……右手一本でこの距離から命中させるなんて、俺が知ってる誰よりも剣が上手く使えるじゃないですか。もっと早く言ってください」
「たまたま上手く行っただけだよ。肩の力を抜いたから、さ」
 そんな台詞で騙されるとお思いですか、色々思い悩んだ俺が馬鹿みたいじゃないですか――文句が勢いよく喉から飛び出すかと思っていた。が、奇妙なことに、意に反してゲルトヴァインはリヒトハイネと同じように笑みを浮かべてしまったのだった。
 言葉にしない呪願ビッテ……「それでも、俺はこの人を守り通したい」と誓いを胸の奥で紡ぎながら、彼とこの砂漠ディ・ヴューステを渡りきるために。
【Novelism】へ戻る
Copyright (c) 2006 Akira Hotaka All rights reserved.
 

-Powered by 小説HTMLの小人さん-